アンドラニク・オザニアン
ウィキペディア フリーな encyclopedia
アンドラニク・オザニアン(アルメニア語: Անդրանիկ Օզանյան[注 3], 1865年[注 4]2月25日 - 1927年8月31日)は、アルメニア人の軍人、革命家にして最も著名なフェダーイー(英語版)(アルメニア人ゲリラ)であり[1][4][6]、アルメニア民族解放運動(英語版)史上の重要人物である[7]。単にアンドラニク将軍 (Զորավար Անդրանիկ) と呼ばれることが多い[8]。
アンドラニク・オザニアン Անդրանիկ Օզանյան | |
---|---|
1920年頃のアンドラニク | |
渾名 |
アンドラニク将軍 (Զորավար Անդրանիկ) |
生誕 |
(1865-02-25) 1865年2月25日 オスマン帝国シヴァス州(トルコ語版)カラヒサリ・シャルキ県シェビンカラヒサル(トルコ語版) |
死没 |
(1927-08-31) 1927年8月31日(62歳没) アメリカ合衆国カリフォルニア州ビュート郡リチャードソン・スプリングス |
所属組織 |
アルメニア革命連盟(1892 - 1907) |
軍歴 | 1888 - 1919 |
最終階級 | ロシア共和国軍少将[注 2] |
墓所 |
アララト墓地(1927 - 1928) |
署名 | |
テンプレートを表示 |
アンドラニクは1880年代後半からオスマン帝国政府およびクルド人のゲリラに対する闘争に積極的に参加するようになり、アルメニア革命連盟(ダシュナク党)の党員となって、他のフェダイとともにオスマン領東アナトリアのアルメニア人居住域(いわゆる西アルメニア(英語版))でアルメニア人農民の生活を防衛することに努めた。アンドラニクは1904年にオスマン帝国を去り、1907年にはダシュナク党が青年トルコ人と提携したことに反発して党を去った。
第一次バルカン戦争時には、1912年から翌年にかけてガレギン・ヌジュデ(英語版)とともにブルガリア軍内でアルメニア人義勇兵を率いてオスマン軍と戦った。第一次世界大戦が始まると、ロシア帝国陸軍内でもアルメニア人義勇兵の大隊を指揮してオスマン軍と戦ったが、1917年のロシア革命によってロシア軍が撤退すると、義勇兵は数で勝るオスマン軍の前に取り残された。アンドラニクはエルズルムを防衛しようと努めるも果たせず、1918年の5月にはオスマン軍はエレヴァンの付近まで迫った。これに際し、ダシュナク党が主導するアルメニア民族ソビエト (en) はアルメニア第一共和国の独立を宣言したが、オスマン帝国との間のバトゥム条約(英語版)によって、第一共和国は多くのアルメニア人が独立させることを望んでいた西アルメニアに対する要求を放棄した。このため、その後のアンドラニクが第一共和国の存在を受け入れることは決してなかった[9]。ザンゲズル(ロシア語版)の防衛のためにトルコ軍やアゼルバイジャン軍と戦った際も、アンドラニクは第一共和国政府からは独立して行動した[10]。
1919年にアンドラニクはアルメニアを去り、後半生をヨーロッパやアメリカで過ごした。1922年からカリフォルニア州フレズノに定住し、1927年に死去した。彼はやがてアルメニアの国民的英雄として称賛されるようになり、数々の像やその名を冠した通り、広場なども造られ、楽曲や小説の中でも伝説的存在として扱われるようになった。