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第二次世界大戦終結までに、主に日本軍人を相手に、性的労働をさせられた女性 ウィキペディアから
日本の慰安婦(にほんのいあんふ)は、日本軍の軍用売春宿(慰安所)において性的労働に従事した女性のこと。大日本帝国から、日本人や朝鮮人、台湾人[注釈 1]が慰安婦として海外の戦地に赴いた。中国大陸や東南アジアなどの戦地では、現地採用された慰安婦も存在した[3]。慰安婦の総数や民族構成については、諸説ある。
慰安所は、「強姦等の兵士による不法行為の防止」「性病等の防止」「防諜の必要性」などの理由により、軍の要請で設置され、主に民間人によって経営された[4]。
1990年代に入り、日本政府は、国の道義的責任を認め[5]、謝罪し、半官半民の基金(アジア女性基金)を立ち上げた。アジア女性基金は、元慰安婦に「償い金[6]」を届けると共に様々な支援事業を行い、2007年に解散した[7]。
軍人に対し売春を行っていた婦女は日本に限らず、韓国、アメリカ、ドイツ、フランスなど多くの国で存在していた[9]。日本以外の国の軍隊の慰安婦については、「慰安婦」を参照。
近代公娼制は、性病対策と軍隊慰安を目的としてフランスで確立し、その後ヨーロッパ各国、アメリカ合衆国や日本にも導入された[10]。
アジア女性基金によれば、慰安婦の総数が分かる総括的な資料は存在せず、慰安婦の総数についてのさまざまな意見はすべて研究者の推算である[11]。推定値は、2万~40万人と幅広いが韓国や国連では20万人説が多い。ただし日本ではこの20万人説について根拠がないとの反論がある(千田夏光#朝鮮人慰安婦強制連行「20万」説を参照)。
アメリカ軍を中心とした進駐軍の為に、東京とその近郊で営業した特殊慰安施設協会では、最盛時には7万人の女性が働いていた[12]
アジア女性基金によれば、日本軍の慰安婦の民族別の割合を確定する統計資料も、存在しない[11]。
日本政府は、特殊慰安施設協会の為に「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」を募集し、55,000人が集まった[13]。
当時の資料では、1940年5月7日の閣議決定に基づく「外事警察執行要覧」では、「特殊婦女」(慰安婦)は軍属ではなく、民間人として扱うことと定められている[14]。
日本軍は、業者が慰安婦らを船舶等で現地に送るに際には、彼女らを特別に軍属に準じた取扱いにし、渡航申請に許可を与え、日本政府が身分証明書等の発給を行ったりした。軍の船舶や車両によって戦地に運ばれたケースも少なからずあり、現地に置き去りにされた事例もあったという[15]:1,14。1962年の国会での厚生省(現:厚生労働省)の発言によれば、慰安婦は軍属でないが、敵襲を受けるなどの部隊の遭遇戦で亡くなった場合は戦闘参加者として準軍属の扱いになる[16]。
1968年4月26日、衆議院の社会労働委員会において厚生省援護局長の実本博次は、慰安婦について「一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。」と答えている[17]。
1901年に軍医の菊池蘇太郎は「軍隊ニオケル花柳病予防法」を発表し、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたと記している[19]。
1937年7月7日の盧溝橋事件を端緒とする日中戦争がはじまり、全面戦争に突入する前に日本軍は「野戦酒保規程」を改正して慰安所を造るための法整備を行った[20]。1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」には「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」と書かれており[21]、慰安所は軍の後方施設として兵站部が管轄することが規定されている[20]。
1937年12月の南京戦の後、南京市内の安全区(難民区)の設置に関わり、安全区内の金陵女子文理学院に逃れて来た女性避難民の保護にあたったミニー・ヴォートリンの日記には、強姦事件の被害者からの聞き取り内容や、強姦目的で金陵女子文理学院の敷地内に侵入した日本兵とのやりとりで「(日本兵を)追い払った、(日本兵に)女性難民が拉致された、構内で強姦に及んだ兵士(日本兵)を制止した、など」が記録されている[22]。また1937年12月24日の日記には、日本軍の某師団の高級軍事顧問の訪問を受け、避難民1万人の中から売春婦100人を選別させてもらいたいという要求に対して、以後女性を連行しないことを条件に選別を許し、日本軍が21名を連れて行ったこと、日本軍側は、兵士が利用するための正規の慰安所を開設すれば強姦被害が減ると考えている、と説明したことが記録されている[23]。
日本軍は1937年末から大量の軍慰安所を設置し始めた[24]。飯島守上海派遣軍参謀長の12月11日の日記には、中支方面軍から慰安所設置の指示が来た事が書かれている[25]。上村利通上海派遣軍参謀副長も、軍の不法行為が激しいので「南京慰安所の開設において第二課案を審議す」(28日)と書いている[26]。現地軍最高司令部であった中支那方面軍から指示が飛び、取り急ぎ各軍が南京攻略後の駐留地で憲兵に指示して慰安婦を集めさせ慰安所を開設した[27][28]。内地や朝鮮半島から呼び寄せた記録もある[29]。1937年12月21日の在上海日本総領事館警察署長が「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」を出し、前線での慰安所設置が報告された[20]。
陸軍が視察を依頼した精神科医早尾乕雄の論文である『戦場心理の研究』[30][31] によれば1938年の上海では強姦や輪姦が頻発し、南京では「皇軍に強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長がいたと報告している[32][33]。こうした強姦の多発により、慰安所の設置を急いだことが『飯沼守上海派遣軍参謀長の日記』[34]『上村利通上海派遣軍参謀副長の日記』[35]『北支那参謀長通牒』などの史料から分かる[36]。また小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条には「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる[37]。
1938年2月18日に起案され、2月23日に内務省警保局長より各庁府県長官に宛てて「支那渡航婦女の取扱に関する件」(内務省発警第5号)が通達された[20][21][38]。この通達では内地(植民地以外の日本国内)から中国に渡航させる慰安婦は、満21歳以上の現役の娼妓や醜業を営む女性に限定し、身分証明書の発行の際には、婦女売買または誘拐などがないかよく注意することや、募集に際し軍の名を騙ったり、虚偽や誇大な広告宣伝をする者を厳重に取り締まるよう命じている。
1938年11月4日には南支(南部中国)派遣軍古荘幹郎部隊参謀陸軍航空兵少佐 久門有文及陸軍省徴募課長より内務省に対して慰安婦要員約400名と、身元が確かで慰安所経営ができる引率者(雇い主)の要請があり[39][40](支那渡航婦女に関する件伺)、内務省警保局(現在の警察庁に相当)はこの要請に応じて大阪、京都、兵庫、福岡、山口の各知事宛に計400名を割り当て、極秘扱いで華南に渡航させるよう命じた(南支方面渡航婦女の取り扱いに関する件)[40][41][42]。
1940年9月19日、『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布[43]。この中で兵舎の設備改善と慰安の諸施設を求めて、特に性的慰安所は「志気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の予防等に影響する」と説いている[44]。
1941年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)勃発。
1 酒保ノ開設 2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催 3 恤兵品ノ補給及分配 4 商人ノ監視
オランダ領東インド(インドネシア)で日本軍統治時代、敵性の疑いがかけられたオランダ系住民が多数、収容所に入れられたが、その収容者らが女性を慰安婦として出すよう要求された。拒否し抜いた収容所もあったものの、幾つかの収容所は女性を出した。これは食糧も十分に提供されず、飢餓的状況にあった収容所もあって、生き延びるために不本意ながら応じた女性がいたためとも言われる[46]。インドネシアについては、戦後も長らく欧米人被害を中心に語られることが多く、それに比べれば、現地住民に対する慰安婦狩りや現地に連れてこられた朝鮮人慰安婦の被害については取上げられる事は少ない。しかし、作家プラムディア(後のマグサイサイ賞受賞作家)がスハルト政権下でブル島に政治犯として流刑にされたことをきっかけに、その島で日本軍がかつて外部のジャワ島から少女ら(十代半ばだったとされる)を留学させると称して連れ出し、ブル島に監禁、慰安婦とし、敗戦後は少女たちを島に置き去りにしたまま去っていたことを知って調査報告した著作[47]や、山田盟子の著作等がある。
台湾軍が南方軍の求めに応じて「慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大臣に求めた公文書「台電 第602号」がある[48]。
秦郁彦によれば「慰安婦」という語そのものは逐次広まったものであり、一方で公式用語として定着したわけではなかったと指摘している[49]。
日本では古くより遊廓での娼婦を遊女、女郎、などと呼び、19世紀後半の日本では海外への出稼ぎ娼婦をからゆきさんまた娘子軍とも呼んだ[注釈 2]。
公娼制下の日本では「芸妓、酌婦、娼妓」の3つに区分したり、1940年頃の中国に渡航する慰安所関係の公文書でも「芸娼妓、女給仲居、女中、酌婦、芸妓」と一括されるなどしており、「慰安婦」の範囲基準は明らかではないが、慰安所に入ったあとに慰安婦と呼びかえられたともいわれる[49][注釈 3]。
陸軍
関東局(編)の『関東局施政三十年史』(原書房 1974年)によれば、1909年12月、日本政府は中国(当時は清)における日本の租借地である関東州において日本人と中国人女性に対して「娼妓取締規則」により「娼妓(遊女、娼婦)」として管理してきたそれまでの方針を変更し、対外関係を考慮して日本人女性に対してだけは娼妓家業を認めないことにし、芸妓、酌婦が公娼的行為をすることは黙認することにしたため、関東州、満州においては「酌婦[54]」が事実上、日本人娼妓を差す用語となったという。この後、内地(日本本土)や朝鮮において「酌婦」という仕事の名目で女性を「満洲」に連れ出し、実際には「娼妓」と同様の「売春」を強要する詐欺事件がしばしば起こったという。慰安婦業に従事する契約書においては、仕事内容は稼業婦や酌婦などと記されていた。1932年、1938年の上海でも「酌婦」が使われている[49]。
1932年4月1日の上海派遣軍の軍娯楽場取締規則では、慰安所は「軍娯楽場」、性的接客をする女性従業員であっても単に「接客婦」と表記されている[49]。1937年には「稼業婦女[20][54]」、軍慰安所従業婦等募集に関する件では「従業婦[55]」とも呼ばれた。売春を「醜業」と呼ぶ事もあり、1938年の支那渡航婦女の取扱に関する件では「醜業婦」と表記された。1939年1月17日の第11軍軍医部長会議指示では「特殊慰安婦」、1939年11月14日の在中支森川部隊特殊慰安業務に関する規定で「慰安婦」が使用された[49]。
俗語ではそのほか、現地の軍人は慰安婦のことを俗に「ピー」(prostitute 娼婦の頭文字[56])、慰安所のことを「ピー屋」と呼んでいたとも言われている[57][58]。
海軍
海軍では「特要員」の名の下に戦地に送られたとも言われている[59][60]。
戦後
戦後、慰安婦問題が表面化した頃から「従軍慰安婦」という呼称が広まったが、その後「従軍慰安婦」という呼称に疑義が呈され、日本外務省やアジア女性基金、NHKなどでは「いわゆる従軍慰安婦」などと呼ぶようになった[61]。現在は一般的に「慰安婦」と呼称されている。
慰安婦制度を批判する側では、「慰安婦」という言葉が実態を反映していないとして、「日本軍性奴隷」という用語を使用したり、慰安婦を括弧付きで使用している例もある[62]。
一方で、特に軍の強制性に批判的な立場で、米軍調査書ATIS120号 [63] における売春宿経営者(22名の売春婦を連れて歩兵第114連隊と行動を共にした)に関する記述「following their trade」から[要出典]「追軍売春婦[64]」と表現する者もある。
「従軍慰安婦」とは戦後に生まれた言葉で、千田夏光が1973年に出版した著書『従軍慰安婦』で、本のタイトルとして使用された。慰安婦問題が政治問題となって、この呼称が広まったが、戦時中にはなかった言葉であり、誤解を生むとしてこの言葉の使用に反対する声がある一方で[65]、引き続き使用すべきだという意見もあり、議論になった。(詳しくは「日本の慰安婦問題」を参照)
正義連や関連団体が海外向けメディアアピールの中で使用する「性奴隷」という表現について、長年活動してきた元慰安婦は、不適切だと批判している[66][67]。
現在韓国では日本と同じく「慰安婦(위안부)」としていることが多いが、慰安婦問題で日本を非難している韓国の民間団体は2018年まで自らの団体名を「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)としていた。「挺身隊」とは「女子勤労挺身隊」のことで、主に工場などでの労働に従事する女性を指し日本内地で動員された[68]。当時朝鮮でも未婚女性が官吏による斡旋や募集によって内地の工場などへ向かった例もあったため、朝鮮では慰安婦の募集と混同され「若い女性の挺身隊は慰安婦にされる」という流言が広がった[69][70]。また、第二次世界大戦後になっても韓国では、国連軍相手の慰安婦が韓国警察や韓国公務員により「挺身隊」とも呼ばれていたことがあり[71]、慰安婦問題が社会的問題として表面化した1990年代初めでも、一般の韓国人は「挺身隊(정신대)」を「慰安婦」の同義語と認識していることが多い。現在、韓国挺身隊問題対策協議会は名称を変更し「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)としており、日本の慰安婦を「挺身隊」ではなく「日本軍慰安婦」と呼んでいる[72]。
韓国では、「慰安婦(위안부)」という言葉は、1980年代までは主に米軍・国連軍慰安婦の事を指しており、日本軍慰安婦はほとんど問題になっていなかった。しかし1990年代に日本との問題が大きくなってからは、「慰安婦」という言葉は、日本軍慰安婦に対して使われるようになり、米軍・国連軍慰安婦に対しては使われなくなった[73]。(「韓国軍慰安婦」参照)
近年の英語圏では、「慰安婦」を直訳した「Comfort Woman」という呼称[74] が用いられている場合が一般的である。
1944年の日本人戦争捕虜尋問レポート No.49では(日本軍)「慰安婦」"comfort girl"とは軍人のために軍に所属させられた「売春婦」(prostitute)もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower) と記載されている[75]。
日本政府の説明によれば、慰安婦の募集は、多くが民間業者によって行われ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与した[78][15]。
日本国内(内地・朝鮮)では、慰安所の経営者や仲介業者が、当時の一般的な接客業婦の募集方法と同じやり方で慰安婦を募り、戦地へ引率した[79]:52,53[80]。その際、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」に見られるように、就業詐欺に類する事案も発生し、軍や政府は幾度か業者の選定について注意勧告を行っている[81]。
日本国内では、1938年2月23日の内務省発警第五号の「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」[82] により、慰安婦は、事実上醜業(売春)を営み、満21歳以上の伝染病なき者に募集を限定し、身分証明書を発給していた。また、発給の際には本人自らが警察署に出頭すること、親または戸主の承認を得ること、婦女売買や略取誘拐などの無きよう調査すること、正規の許可などの無い募集周旋は認めない事などが取り決められていた。 なお、公娼の年齢制限は、内地で18歳以上、朝鮮・台湾で17歳であった[83]。
1937年から翌38年にかけて内地の売春斡旋業者の取り締まりに関する通達等が多数出された。1937年(昭和12年)8月31日には外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が出され、斡旋業者の取り締まりについての注意命令が出された[21]。
1938年(昭和13年)3月4日、「支那渡航婦女の取扱に関する件」に応じて陸軍省 兵務局 兵務課はに「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(陸支密第745号)を発令した。この通達は、北京近郊で慰安所を設置するために内地(植民地以外の日本国内)で慰安婦を募集した者が、軍の名義を利用したり、誘拐のような方法で集め警察に検挙取締りを受けたため、今後は派遣軍が募集する者の人選を適切にし、軍の威信を保ち社会問題を引き起こさないよう依頼したものである。
中国や東南アジアなど日本軍の占領地では、軍人が地元の有力者に協力を呼び掛けて慰安婦を集めることもあった[85]:106[26]。もともと慰安所は、住民に対する非行を防止する目的もあって設置されたが[88]、占領軍という立場上、(軍の方針に反し)住民に対し強制力が働いたケースもあったはずだという指摘もある[89]。
1990年代、韓国の英文学者、尹貞玉が、数万人の日本統治時代の朝鮮人女性が日本政府により女子挺身隊の名目で徴用され慰安婦として戦地に送られたとして、日本政府に真相解明を要求したが[90][91]、日本政府の調査では、このような事実は確認出来ていない[92]。秦郁彦は、膨大な数が存在するはずの行政文書が一つも見つからないことなどから、この話に否定的であり[93]、韓国の李栄薫も、日本の朝鮮総督府が慰安婦を動員したことを示す証拠はないとしている[94]。
この当時、元労務報国会の動員責任者を名乗る男性(吉田清治)が、陸軍省の決定で朝鮮人慰安婦の徴用(強制連行)を行ったと証言しており、朝日新聞社の報道などによって注目されていたが(朝日新聞の慰安婦報道問題)、のちに同社は「吉田証言」を虚偽と判断し、一連の記事を撤回した[95][96]
一方、吉見義明は、慰安婦の強制連行を史実だとしている[97]。尹貞玉と吉見は、日本政府が資料を焼却したり非公開にしていると説明している[98][99]。
強制連行
1950年代に生まれた言葉で[100]、戦時中の国家総動員法(国民徴用令ほか)に基づく労務動員を意味する言葉とされる[注釈 5]。韓国では「強制動員」とも言う[94]。日本政府は、慰安婦は徴用の対象ではなかったとしている[102]。(「強制連行」参照)
女子挺身隊
女子勤労挺身隊とは、主に工場などでの労働に従事する女性を指す。太平洋戦争の末期、女子挺身勤労令が出され、日本人女性が、工場などへ動員された[103]。国民の義務として動員されたのは日本人(内地人)だけで、朝鮮半島(当時の日本領)においては女子挺身勤労令は発令されなかったとされる[103][94][注釈 6]。(「女子挺身隊#朝鮮での「挺身隊」と「慰安婦」の混同」参照)
吉田証言
吉田清治は、太平洋戦争中、県知事や軍の命令を受け朝鮮人女性を徴用し慰安婦として戦地に送ったと、著書で告白。証人として裁判でも証言した。現在では、吉田の証言は作り話だったとされる[105]。(「吉田清治 (文筆家)#慰安婦の強制連行に関する証言(吉田証言)」参照)
海軍省の潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている[106]。
日本政府の調査によれば、日本軍の慰安所は、沖縄[108]、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(現:マレーシア)、タイ、ビルマ(現:ミャンマー)、ニューギニア、香港、マカオ及びフランス領インドシナ(当時)に設置されたことが確認されている。これらは日本軍の要請により民間業者によって運営され、その数は約400箇所であったとされる[109]。
2000年に韓国で発見された朝鮮人の慰安所管理人(帳場人)の日記には、慰安婦の渡航や廃業に関する申請手続き、健康診断や出産、預金、送金などの情報が記載されていた[110]。
日記によると、慰安婦たちは妊娠すれば休職し、定期的に性病検査を受けていたという。多くの慰安婦は自分の貯金口座を持っており[111]、管理人は、慰安婦たちの求めに応じ、彼女たちの収入を預金したり朝鮮に送金していた[110]。
日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった[112]。 慰安婦への支払いは慰安所経営業者を通じて預金通帳へ半分、残り半分は軍票で支払われ、慰安婦への不払いが起きないよう軍主計局の監査と官憲の監視下で管理されていた[21]。文玉珠のように、5000円になる金額を兄に送ったなどの例もある[113][114]。しかし、慰安所によっては慰安婦に給与が無い場合もあった[115]。
日本軍慰安婦が報酬を得ていたことを示すものとしては以下のものがある。
当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった[57]。1943年7月時点では二等兵の月給は7円50銭、軍曹が23 - 30円で、戦地手当を含めてもそれらの倍額で、慰安婦の収入の10分の1または100分の1であった[136]。中将の年俸は5800円程度であった[137]。当時の貨幣価値を企業物価指数で計算すると1931年時点での100円は現在に換算すると88万8903円、1939年では45万3547円、1942年では34万7751円となり[138]、3万円の貯金とは現在での約1億3606万円となる[139]。なお平安北道出身の朴一石(パク・イルソク)が経営していた慰安所「カフェ・アジア」は1937年で資本金2000円で開業し、1940年には資本金6万円となっていた[140]。
日本の大正中期から昭和の第二次世界大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったといわれる[141]。米価は上下変動があり第二次上海事変から特に欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。
慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票という政府紙幣の一種によってなされていた。戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落した。例えばミャンマーのラングーンでは、日銀のまとめた資料によれば軍票の公定額面でいえば1941年12月から1945年8月までに2千倍近いハイパーインフレを起こしている[142]。そのため、チップ等も含め慰安婦が受け取る軍票の額面は形の上では膨れあがったケースがあった。吉見義明は「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の俸給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している[143]。また、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同然となり[137]、払戻しを受けられなくなったケースもあった。
1932年までの郭(くるわ)内の公娼(集娼制)では遊女は外出はできない状況にあったが[146]、慰安婦の外出制限も、地域によって違いはあるが同様に厳しいものであった。
慰安婦の休日は無しか、月1回[147]、一日の就業時間と休日が厳守された[21]。朝鮮人慰安婦の証言[誰?]によると生理の時も休むことは許されていない[147]。軍の慰安所では、軍医の検診があり、性病と診断されると働くことができなかった。そのため、淋病を誤魔化すために、経営者が検査前に少しでも膿を絞り出しておくといった手段をとっておくことがあった。一方では、性病に限らず、病気で働けなくなると、お詫び奉公として休んだ数倍もの日数を経営者のためにただ働きしなければならない慣習が押し付けられていた地域があったことも知られている[148]。日本軍が住民に嫌われていたと言われる中国・フィリピンなどでは、開業前や休日でも出歩ける範囲に制限があったり[149]、監視警備区域内に住まわせられていた。現在の中国湖北省 武漢市にあった漢口特殊慰安所は日華混在地区にあり、慰安所の前に歩哨と憲兵がいたという[150]。
慰安婦の多くは地元から遠く戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが、多くの場合軍機密の保持や安全上の必要などから制限を課されていた。(文玉珠は主計将校と偽の結婚の約束をして、結婚前の準備のため家に帰るとして中国の慰安所から朝鮮の家までの通行許可証を得ることで慰安所を脱走したという[151])
ビルマ中部のマンダレーでは、経営者の証印がある「他出証」を携行すれば休日の外出は可能で、インドネシアのセレベス島の場合は、全て原住民系慰安婦で休養のための外出が自由だった[21]。国内と違って占領地の軍隊専属であったため、部隊移動にともなう繁忙・閑散期の差は大きかった[152]。
ビルマに出征した古山高麗雄は、慰安婦の中には金銭に余裕のある者もおり、買い物が出来たので、兵士が煮干しを食べている時でも卵や鶏肉を現地で購入して食べていた。束縛はあったが兵士より自由だったのではないかと当時を振り返っている[153]。
歴史家の吉見義明は、自らだけの意思で慰安婦を辞めることは事実上不可能であり、辞めることを許されたのは、妊娠後期になったり、精神的疾病を発症して、慰安婦としての任務を遂行できなくなった場合に限られていたのがほとんどであったとしている[143]。
以下は、地域や慰安所の経営者、そのときどきの環境によって、当然異なっている可能性があることに注意しなければならない。日本兵の休日の慰安が他にないこと、相対的に慰安婦の数が少ないことなどから、1人の慰安婦に少ない時で一日10人程度、多い時は数十人の兵士が詰めかけた[154]。元慰安婦らの証言によれば、そのような場合でも慰安婦に拒否する自由はほとんど与えられておらず、体調にかかわらず兵士の相手をしなければならなかった[155]。
港に船が入ったときは娼館は満員となり、慰安婦は一晩に30人の客を取った時もあった。現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、休みたくても休みはなかったという。
主として軍が作成した慰安所規程において、慰安婦との性行為の際には避妊具(当時は「サック」と呼ばれた)の使用が義務づけられていたが[156]、守ろうとしない兵もいて元慰安婦の中には、慰安所での性行為によって妊娠した人もいるとしている。
元慰安婦の李英淑は「私は軍人を相手にすると何度も性器がパンパンに腫れ上がりました。そうなったら病院に行くのですが下腹が張り裂けんばかりに痛みました。(中略)私は何度も性器が腫れて1年に3、4回は入院しました」[要出典]と回想している[147][157]。 元慰安婦の金徳鎮は毎日の性交の回数が数十回に及んだ結果、「女達の中には性器がひどく腫れあがって出血していた人もいました」と証言している[157][158]。
近衛師団通信隊員総山孝雄によれば、シンガポール陥落の時、ここを支配していたイギリス兵相手だった地元の売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、次々に何人も相手にするという、彼女らが予想もしていなかった過酷な状況で、ある女性が4、5人目で体が続かないと前を押さえてしゃがみこんでしまったため、係りの兵が打ち切りを宣言したところ、列を成して待っていた兵士達が怒って騒然となり、係りの兵は撲り殺されそうな情勢となり、怯えた係りの兵は、女性を寝台に縛り付けてそのまま兵士の相手をすることを強要したことがあったという(ちょうど番が来て中に入った兵士が、これを見て驚いて逃げ帰り、かわいそうだったと語ったという)[159]。
山田盟子は、沖縄で兵士らが行列し、1人当たりの時間が通常数十秒程度で済ましていたこと、5分もかかっているとその兵士を古参兵が首根っこをつかんで引きずり出していたことを報告している[160]。水木しげるは、ラバウルでの回想で彼自身も並んでみたことがあるものの、あまりの長蛇の列で自分にまで順番が回ってきそうにないので、ついに諦めたことを書いている。
歴史学者の吉見義明は、吉見義明は、慰安婦の状況を「1日数10人などの肉体的に過酷な条件のため、陰部が腫れ上がり、針も通らないようになった」事がたびたび(年数回)あったとしている[143]。また、慰安婦は就業詐欺など違法行為による強制的な徴集、より厳しい行動の制限、多く見られる兵士による暴力など、むき出しの奴隷的制度であったとしている[161]。
歴史学者の秦郁彦は、慰安婦は公娼より報酬の条件がいい[162] 一方で、戦地であることや酔った兵の横暴にさらされやすかったなどの危険が、内地の低級娼婦よりも多かったと見ている。
吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあった[143][166]。
1944年9月にインドのレドで作成された日本人戦争捕虜尋問レポート No.49では、ビルマの戦いのミッチーナー陥落後の掃討作戦において捕獲された慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対する尋問内容が記録されている。この報告では「慰安婦」とは日本軍に特有の用語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦は内容の正確な説明がなされないままに勧誘されたこと、署名による契約で前借金数百円が与えられたこと(ただし、この前借金には現地に行くまでの旅費だけでなく、到着まで場合によっては数段階にわたって仲介業者が入っており、これらの業者への仲介料も女性への前借金ということにされているのが典型的な手口であったが、米軍や慰安婦自身がそのことをどこまで理解していたかは不明である)、応募した女性には娼婦もいたことや、ミッチーナでの生活環境は買い物や外出などが可能で、比較的良好であり、将兵と共にスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等、蓄音機も楽しんだこと。慰安婦らは個室を与えられ、接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったこと。避妊用具が支給され、軍医による週1回検診などで彼女らの健康状態は良く、日本軍人と結婚した者もいたこと、慰安所経営者は借金額に応じて彼女らの総収入の40 - 60%を受け取っていたこと。彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済していたこと、(但し後の米軍ATISの調査報告書No.120 1945/11/15 では慰安婦の売り上げ(gross)は最高1500円、最低300円/月で慰安婦は経営者に最低150円/月は支払わなければならなかったとの証言記録がある)(当時の日本兵の月給は二等兵で6円、少尉で70円、大将で550円[171])。彼女達は十分なお金を持ち、衣服、化粧品、タバコといった嗜好品を購入できたこと。一方で、経営者は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を厳しいものにしたといったこと。日本軍が借金を返済した慰安婦は帰国することができるようにせよとの命令書を発行したために一部の慰安婦は帰国を許されたことが記録されている。[要出典]
ただし、これらは、かなりの部分が経営者側に対する取材により、その言をそのまま採録した部分も大きく、とくに経営者側に有利な調査内容の部分についてはどこまで信用できるか疑問があるともされる。[要出典]
また、慰安婦が軍票で得た金額を当時の日本円と同等に評価して、現在の貨幣価値でいえば億近い金額を稼いだ慰安婦もいたとの論説もしばしば見られるが、実際には当時ビルマでは日本からは物資の供給能力がろくにないまま、日本側の必要物資を軍票で徴発したため、1945年春段階で物価が戦前の127倍、戦争末期には1856倍(ラングーンのケース)[172]になっていた。そのため、日本兵が貨幣として持つ軍票では事実上ものが殆ど買えなくなり、士官らがそれでも慰安婦を多少なりとも喜ばせるためチップをはずんだため、このような額になったとされる[173]。 慰安婦は故郷に送金することは可能であったが、京大の東アジア研究センターの研究によれば、地域や時期によって扱いは異なると考えられるものの、インフレの影響を遮断するため、原則として母国への送金や引出しは極めて制限されていた。ある例では、まず現地通貨での強制預金の必要があり、母国送金できるのはその1/69、引出・利用は本人が母国に戻ってきてから本人のみが出来ることに限られていたことが報告されている[114]。また例えば、現地除隊となった日本軍将兵の場合においても1日30円、1か月100円以内に引出額が制限される陸軍の通知が開戦後1年と経たない1942年9月に出されている[174]。
対日戦争に勝利した連合国の軍隊が日本の旧支配地域に進駐すると、治安の維持の為、慰安所が設置され、日本人女性が慰安婦として連合国の将兵の相手をした。
占領軍の性対策については警視庁が1945年8月15日の敗戦直後から検討し、8月22日には連合軍の新聞記者から「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が入った[175]。また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった[176]。8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣 近衛文麿は警視庁総監 坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画し、翌日の8月18日には橋本政実 内務省警保局長による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」との通達が出された[176]。
連合国軍(進駐軍)の為の特殊慰安施設協会は1945年8月22日に設置され、その他の地域でも慰安所、施設の設置が進められたが30日に上陸した進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した[177][178]。28日、9月2日開業予定の小町園慰安所には機関銃で武装したアメリカ軍兵士達が乗り込みすべての慰安婦たちを強姦した[179]。横浜では、100名を超える武装したアメリカ兵が開業前日の慰安所に乗り込み慰安婦14名を輪姦した[179]。
占領軍(米軍)は特殊慰安施設協会だけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が1945年9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した[180][12]。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた[12][181]。またGHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した[12]。
作家の早川紀代によれば、当時の慰安所は東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置された[182]。また右翼団体の国粋同盟(総裁 笹川良一)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を9月18日に開業している[183]。
1951年9月8日に連合国諸国とのサンフランシスコ講和条約締結後も在日米軍による犯罪は続いた[184]。(「占領期日本における強姦」参照)
朝鮮半島においては、連合軍による軍政が敷かれ慰安所、慰安婦ともにアメリカ軍に引き継がれた[185][186]。
朝鮮戦争では韓国人女性が慰安婦として韓国政府の政策により集められる(韓国軍慰安婦)とともに、日本人慰安婦も在日米軍基地周辺、また朝鮮半島へも日本人慰安婦が連れて行かれたこともあった[187][184]。
朝鮮の端川で母や未亡人らが終戦後のソ連軍による強姦や暴行から娘らを無事に先に逃すために邦人男性に託して自らは慰安婦人会を作って残留すると語ったという話[188]、また「戦勝国民化」した朝鮮人が反旗を翻し海州市では男性官公吏は強制労働をさせられ女性は慰安隊にさせられているといった話が、戦後間もない国会で引揚者から語られている[189]。
日本領となっていた満州や朝鮮半島に進軍してきたソ連兵が強姦行為を各地で繰り返していた為、通化市では一定の女性を慰安婦として用意し彼女らを相手とすることでソ連軍の了解を取り付けたという話[190]や、開拓団においては大古洞開拓団(三江省 通河県)ではソ連軍の要請を受け2名の志願者が慰安婦として提供されたという話[191] 、その他にも女性が慰安婦として提供された黒川開拓団や郡上村開拓団の例がある[192]。(「引揚者#ソ連軍占領下地域」「強姦の歴史#戦時の強姦」も参照)
慰安婦問題にはさまざまな認識の差異や論点があり、日本・大韓民国・アメリカ合衆国・国際連合などで1980年代ころから議論となっている。慰安婦は当時合法とされた公娼であり民間業者により報酬が支払われていたこと、斡旋業者が新聞広告などで広く募集をし内地の日本人女性も慰安婦として採用していたことなどから国家責任はないとの主張がある一方、一般女性が慰安婦として官憲や軍隊により強制連行された[193]性奴隷の例があるとの主張もある[194]。
1992年2月25日、NGO 国際教育開発(IED)代表で弁護士の戸塚悦朗が国連人権委員会で日本軍慰安婦問題を取り扱うように要請し、これが国連での初めての慰安婦問題提起であった[195]。
全ての博物館で、慰安婦が旧本軍による性奴隷的扱いを受けたとする内容になっており、その人権問題を提起している。
2005年8月、NPO法人「女たちの戦争と平和人権基金」が東京都新宿区のビルの一室に「女たちの戦争と平和資料館」を開館。主に旧日本軍の慰安婦と、戦時下における女性への暴力をテーマとしている。
2005年6月に『上海日軍慰安所実録』を刊行した上海師範大学「中国慰安婦問題研究中心」所長の蘇智良は中国慰安婦記念館の設立を訴えた[196]。この訴えに応じて2007年7月5日、上海師範大学内に「中国従軍慰安婦資料館」が開館した[197]。2016年10月23日、上海師範大学内に「中国『慰安婦』歴史博物館」が開館。同時に中国人と韓国人の慰安婦像が設置された。韓国人の慰安婦像はソウルの日本大使館前のものと同じ椅子に座った少女像で、中国人慰安婦像も同様に椅子に座っている。[198]
2015年12月1日、南京に「南京利済巷慰安所旧址陳列館」が開館。2階建て建物8棟で構成されている。広場には慰安婦3人の像が鎮座している[199]。
2012年5月5日、韓国の民間団体韓国挺身隊問題対策協議会はソウル市麻浦区に日本軍慰安婦問題について展示する「戦争と女性の人権博物館」[200] を、3億円(35億ウォン)をかけて建設し[201] 開館した[202]。日本でも日本建設委員会が結成され、多数の運動家・運動団体や研究者が呼びかけ人となり[203]、自治労、JR総連、NTT労働組合大阪支部などが寄付した。
2016年12月10日、台湾初の慰安婦博物館「阿マの家 平和と女性人権館」が台北市に開館した。
1994年8月31日、日本の村山富市首相が談話で慰安婦問題にふれ、政府と国民が協力して解決にあたることを推進。1995年7月18日、「アジア女性基金」への拠金を呼びかけ、政府が4.8億、民間募金5.65億に加え基金の財産より500万を加え5.7億を償い金として、更に5年で8.3億円の政府資金で医療福祉支援事業を実施。 橋本龍太郎首相(当時)および小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎歴代首相の連名の「お詫びの手紙」とともに、「償い金」として一人当たり200万円を支給。 「医療福祉支援金」は、当時の物価水準を検討して、韓国と台湾について一人当たり300万、フィリピンについて120万、また別方式でオランダに300万。 インドネシア では同国政府の方針により「高齢者社会福祉推進」事業に政府資金により3.7億を支援した。[204]
日本政府は、アジア女性基金設立から解散までの間に約48億円の資金を拠出した。 [205]
日本の市民組織の支援による施設。非政府系NGO「リラフィリピーナ」(フィリピンの慰安婦被害者の会)が運営。 「ロラ」とはフィリピン語で「おばあさん」の意味で、施設はフィリピン人元「従軍慰安婦」と彼女らを支援する市民たちの活動拠点である。 日本の女性組織によるロラズハウス基金を通して施設が購入された。 [208]
居住者の証言集「Lolas'House」(Curbstone Books、2017)の作家、フィリピン系アメリカ人のマリア・エヴェリーナ・ガラン(英語: M. Evelina Galang)は、FRIEND OF LOLAS を通して元慰安婦への支援を行なっている。
61名にアジア女性基金から事業実施 1人当たり500万円[205]
韓国では1991年の金学順の証言までは慰安婦について特別な支援は無く、会見当時の金学順自身も生活保護によって生活を支えていた。 1984年に元慰安婦の裵玉水(ペ・オクス)について、中央日報や女性誌「レディキョンヒャン」の記事となり、TBS報道特集でインタビューが放送されたが世論が動くことはなかった。[209]
元慰安婦による日本政府への提訴以後、韓国政府は真相究明後に日本による補償を求めてきた。 1993年、政権交代した金泳三大統領は、(女性アジア基金による補償を拒否した上で)日本には物質的補償を要求せず韓国政府が行うと発言。 これまでの指針を変更し、日本側が真実を明らかにすることを重視する姿勢をしめし、生活支援金を支給することとした。 [210]
1993年3月29日、国内の慰安婦申告者135人に対して5万ウォンの生活保護基本金と、生活保護対象者に指定して毎月15万ウォンの支援金を支給することを発表。 また海外在住の被害者にも毎月5万ウォン を支給する。 [211] 同年8月5日より支給が開始され対象者には支給金とともに医療保険と永久賃貸住宅入居が与えられた。[212]
1996年、村山富市首相の主導で、政府と国民の協力による補償としてアジア女性基金の償い事業が開始された。 しかし韓国政府はその協力要請に対して「日本政府が国際法的責任を認める」ことを求め要請を拒否した。 [213]
金大中大統領は、現在生存している152人に対して、政府から1人あたり3千ウォン、民間募金から650万ウォンを支給するとした。 日本の民間団体による補償では、日本政府の道義的責任と謝罪要求が放棄されることにはならないと反発しての決定。 [214]
大韓民国では、「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援および記念事業等に関する法律」(法律第9932号、2010年改正)に基づき[215][216]、日本により強制動員され、「慰安婦」としての生活を強いられた被害者に対し、国家が人道主義の立場から保護・支援を行う[217]。生活安定支援対象者になろうとする者は女性家族部長官に登録申請をし(第三条第一項)、国家は生計給与、医療給与、生活安定支援金の支給、看病人支援を行う(第四条第一項)[215][216]。女性家族部に置かれた審議委員会が、生活安定支援対象者登録申請事項の事実の有無の認定などを行う(第六条第一項)[215][216]。国家および地方自治団体は、①記念事業、②歴史的資料の収集、保存、管理、展示と調査、研究、③教育、広報および学芸活動、④国際交流および共同調査、の事業を行うことができる(第十一条第一項)[215][216]。
かつて日本軍の慰安婦であったとする韓国人女性数名と、韓国と日本の若者を中心としたボランティアスタッフが共同生活を送っている民間施設「ナヌムの家」が韓国 京畿道 広州市にある。ナヌムは朝鮮語で「分かち合い」、ナヌメチプで「分かち合いの家」の意。「被害の歴史を昇華させ、世界的な歴史と平和、人権の聖地にすること」を目的に掲げている[218]。日本軍「慰安婦」歴史館が併設されており、韓国側の立場に基づく慰安婦の説明の他、日本による朝鮮半島の統治や太平洋戦争についても韓国側の歴史観を紹介している。
日本軍の慰安婦が登場したり、あるいはテーマにした各国の映画・ドラマ・ドキュメンタリー。
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