チャルディラーンの戦い
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チャルディラーンの戦い(チャルディラーンのたたかい、Battle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも)とは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシアとの戦い。
概要 チャルディラーンの戦い, 交戦勢力 ...
チャルディラーンの戦い | |
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戦争:オスマン・ペルシア戦争 | |
年月日:1514年8月23日[1] | |
場所:ヴァン湖北部 チャルディラン平原[1] | |
結果:オスマン帝国軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
オスマン帝国 | サファヴィー朝 |
指導者・指揮官 | |
セリム1世 | イスマーイール1世 |
戦力 | |
60,000人[2]から212000人[3] 鉄砲隊・砲兵・イェニチェリ等で構成[4] |
12,000人[3]から40,000人[4][5] |
損害 | |
2,000人未満 | 約5,000人 [6] |
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鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦いにたとえられる[7][8]。
ただ、後述に記す通り兵力差が物をいった戦いとも思われる。
サファヴィー朝軍4万に対して、オスマン帝国軍は6万から20万の大軍を擁し、軍の質も高かった。戦いはオスマン帝国軍の勝利で終わり、大将のイスマーイール1世自身も捕らえられる寸前で退却した。彼の妻たちもセリム1世に捕獲され[9]、そのうちの一人がセリムの側近と婚約させられると[10]、イスマーイールは政治への興味をなくし、帝国の統治に関与しなくなった[11]。
この戦いは、サファヴィー朝軍のクズルバシュの最強神話を打ち崩した[12]だけでなく、両帝国間の勢力範囲を画定させ、クルド人の帰属をサファヴィー朝からオスマン帝国へと切り替えた点[13]でも、歴史的な重要性をもつ。
一方でこの戦いは、1638年にゾハブ条約(Treaty of Zohab)が締結されるまでの124年間に 及ぶ両帝国間の抗争の始まりに過ぎなかった。
地名Chaldiranに関して、日本語の文献では「チャルドランの戦い」という表記する場合もある[14]。