四条隆謌
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四条隆謌(しじょう たかうた,1828年10月17日—1898年11月24日),日本江户时代末期到明治时代的华族、陆军军人。官至陆军中将正四位勋二等侯爵,曾担任元老院议官、贵族院议员。是权大纳言四条隆生的三男,权大纳言醍醐辉久的孙子。名列安政勤王八十八廷臣之一。
经历
幕末,四条隆謌作为攘夷派公卿而活跃。文久2年(1862年)10月,任从四位上行侍从。八月十八日政变后官位被剥夺,与另外六名公卿一起流亡长州。明治元年(1868年),在戊辰战争中先后担任中国四国追讨总督、大总督宫参谋、仙台追讨总督、奥羽追讨平潟口总督等职务。明治2年(1869年)6月,因维新功绩被赐予永世禄300石。同年7月任陆军少将。
明治5年(1872年)1月,就任大阪镇台司令长官,明治7年(1874年)4月转任名古屋镇台司令长官,明治10年(1877年)5月兼任大阪镇台司令长官,10月免去兼职。明治13年(1880年)4月任仙台镇台司令官。明治14年(1881年)2月升任陆军中将,就任元老院议官。明治17年(1884年)7月成为伯爵,明治24年(1891年)升为侯爵,就任贵族院议员。明治26年(1893年)12月转入预备役。明治31年(1898年)11月逝世。
年谱
- 文久2年(1862年)10月(旧历) 侍从
- 明治元年(1868年)1月(旧历) 中国四国追討总督
- 2月(旧历) 参与职军防事务局親兵掛
- 4月(旧历) 左近卫权少将、三等陆軍将。
- 5月(旧历) 甲府表鎮撫使、駿府表鎮撫使。
- 6月(旧历) 大总督宮参謀
- 7月(旧历) 仙台追討总督
- 8月(旧历) 奥羽追討平潟口总督
- 11月 (旧历) 東京在职
- 明治2年(1869年)7月 陆军少将
- 明治4年(1871年)10月 大坂鎮台出差
- 明治5年(1872年)1月 大坂鎮台司令長官
- 明治7年(1874年)4月 名古屋鎮台司令長官
- 明治10年(1877年)5月-10月 兼大坂鎮台司令長官
- 明治12年(1879年)9月 名古屋鎮台司令官
- 明治13年(1880年)4月 仙台鎮台司令官
- 明治14年(1881年)2月 陆军中将、元老院議官(至1883年6月)。
- 明治17年(1884年)7月 伯爵
- 明治21年(1888年)12月 休職
- 明治24年(1891年)4月 侯爵、貴族院議員。
- 明治26年(1893年)12月 预备役
- 明治31年(1898年)11月 逝世
亲族
- 前妻 銈姫 黑田長溥的养女,亲父为奥平昌高,两人不和睦而无子女。
- 后妻 春子 銈姫逝世后,作为土方久元的养女迎娶京都祇园舞妓出身的春子。[1]
- 长男 四条隆愛 陆军少佐从二位勋三等侯爵,貴族院議員。
- 七男 一条实辉 海軍大佐正二位公爵,继承了一条家家督。
- 三女 加根子 三岛弥太郎之妻。
注释
- 《女聞き書き 徳川慶喜残照》,朝日新聞社(朝日文庫),ISBN 4-02-260359-3 大河内富士子(隆謌之孫)的回忆
参考文献
- 秦郁彦編,日本陸海軍総合事典第2版,東京大学出版会,2005年。
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