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黄金世代(おうごんせだい)とは、特定の分野において比較的狭い年齢層に突出した才能を持つ人材が集中することを指す言葉であり、英語の「golden generation」の和訳である。近年ではスポーツ分野で用いられることが多く、代表的な人物や生年・デビュー年などを使って「○○世代」、「○○組」と表現する場合が多い。
〇〇世代・〇〇組等、単独記事もしくはそう呼称している信頼できる情報源の明記なしに項目を追加しないようにしてください。 |
黄金世代に対して、golden ageという英訳をあてる例がしばしば見られるが、英語圏ではgolden ageは「老人世代」もしくは「黄金時代」(特定の分野が隆盛を誇った時期)という意味で用いられることが多い。ただし、稀にgolden generationも老人世代の意味で用いられることがある。
サッカーにおいては、U-20(20歳以下)ワールドカップ、U-17ワールドカップという世代別の世界大会が開催されていることが、サッカーを各世代で注目されやすいスポーツにしている理由だといわれている[1]。
また、日本サッカー協会にはトレセン制度という将来トップレベルの選手になれる可能性がある選手を発掘する制度があり、男子はU-12,U-14,U-16、女子はU-12,U-15,U-18のカテゴリーで実施している。この制度によって選抜されることは、ある意味その世代がトップとなったときのエリート候補であることを意味するという[2]。
現代において最もよく知られた黄金世代(葡: Geração de Ouro)のひとつは1969-1974年生まれで、1990年代に活躍したサッカーポルトガル代表の選手たちである。
1989年のワールドユース選手権ではパウロ・ソウザ、フェルナンド・コウトらを擁して優勝、さらに1991年に地元で開催された同大会にはルイス・フィーゴやマヌエル・ルイ・コスタらが出場し、ポルトガルは連覇を果たした。ジョアン・ピントは1989年度大会および1991年度大会の双方で代表メンバーに招集され、フェルナンド・ブラッサルドと共に連覇を経験した
彼らに続く世代も、1994年のUEFAU-21選手権準優勝、1995年ワールドユース3位、1996年アトランタオリンピックベスト4といった成績を残した。
1998年までワールドカップ大陸予選での敗退が続いていたポルトガルは2000年の欧州選手権でベスト4に進出し[3]、将来に期待を抱かせた。しかし2002年ワールドカップでは大陸予選を突破したものの、本大会ではコンディション不良から1次リーグ敗退に終わり、多くの黄金世代が大会後に代表から引退した。
2004年、地元ポルトガル開催での欧州選手権は決勝まで進出したが、ギリシャに敗れた[4]。このとき代表に留まっていた黄金世代はフィーゴ、ルイ・コスタ、コウトのみであり、同大会後に代表から引退した。ポルトガルにおいて「黄金世代」と称された世代の全員が代表を退き[注釈 1]、A代表としては優勝を経験しないままキャリアを終えた。
2006年のワールドカップ、2008年のEUROではミロスラフ・クローゼ、ミヒャエル・バラック、バスティアン・シュヴァインシュタイガーらが躍動し、好成績を納めていた。
2010年の南アフリカワールドカップではGKにマヌエル・ノイアー、ミヒャエル・バラックに代わる司令塔にメスト・エジル、右サイドMFにトーマス・ミュラー、中盤の底にトニ・クロース、左サイドバックにジェローム・ボアテングが加入。イングランドやアルゼンチンといった強豪国に圧勝し、チームの強さを押し上げていった。
2014年のブラジルワールドカップではベテランと若手が融合したチームで本大会に臨み、ドイツ再統一以降、初となる優勝を果たした[5][6]。
ロシアワールドカップでも優勝候補と見られていたが、結果はグループリーグ最下位で敗退。この大会を最後にメスト・エジルら黄金世代の選手数人が代表から退いた。
2010年代のサッカー界では、ベルギーの1986年以降に生まれた選手たちが黄金世代(蘭: gouden generatie、仏: génération dorée)として躍進している。なかでもエデン・アザール、ロメル・ルカク、ドリース・メルテンス、マルアン・フェライニ、ケヴィン・デ・ブライネ、ヴァンサン・コンパニ、ティボ・クルトゥワらはベルギーサッカー界の育成改革の成功例として「赤い悪魔」の主力選手となり、各々が欧州各国のビッググラブで活躍している。
ベルギー代表は、1980年欧州選手権準優勝、1986年ワールドカップ・メキシコ大会4位などの成績を収めてきたが、オランダと共催したEURO 2000で「開催国のグループリーグ敗退」という失態を犯し、2002年ワールドカップ・日韓大会を最後に、EUROとワールドカップの本大会出場から遠ざかった。ベルギーサッカー協会は2000年代はじめよりフランスやオランダの育成システムを取り入れ、スカウティングの強化、育成環境の整備、指導方法の統一などを行った。ブリュッセル大学と共同で開発した育成部門査定システム「フットパス」はドイツやイングランドのリーグでも採用され、日本のJリーグでも2015年より導入された[7]。ワロン(フランス語圏)対フラマン(オランダ語圏)というベルギーの社会構図は代表チームにも影響してきたが、モロッコ、マリ、コンゴ、コソボなどの移民第二世代の選手の増加が多様性をもたらしている[8][9]。
若きタレント集団は3大会ぶりに出場した2014年ワールドカップ・ブラジル大会でベスト8に進出。60位台に低迷していたFIFAランキングも、2015年11月に初めて1位に立った[10]。だが、EURO 2016ではベスト8で格下のウェールズと対戦して敗れ、個人の能力頼みで組織力がない欠点を露呈した[11]。
ロベルト・マルティネス監督の就任後は2016年9月以降無敗、9勝1分け(総得点43点)で欧州予選を通過し、2018年ワールドカップ・ロシア大会では1986年のベスト4を上回る3位を獲得した。
旧ユーゴスラビア連邦の崩壊後、1991年に独立したクロアチアはダヴォール・シュケル、ズボニミール・ボバン、ロベルト・プロシネチキ、アリョーシャ・アサノビッチ、ズボニミール・ソルドら豊富なタレントを擁し、EURO'96でベスト8進出、初出場の1998年ワールドカップ・フランス大会で3位(シュケルは大会得点王)という快挙を達成し、紛争に疲弊した国民を喜ばした。
当時少年だったルカ・モドリッチ、イヴァン・ラキティッチ、マリオ・マンジュキッチ、ニコラ・カリニッチ、イヴァン・ペリシッチらは新たな黄金世代(クロアチア語: Zlatna generacija)として期待されたが、2010年ワールドカップ・南アフリカ大会は本大会出場を逃し、その後の大舞台もEURO 2016のベスト16が最高であった。そして主力選手が30歳前後になった2018年ワールドカップ・ロシア大会ではマテオ・コヴァチッチ、アンテ・レビッチら若手が加わり、ハードワークと結束力を武器に決勝戦へと進出した。決勝でフランスと対戦して敗れはしたものの、準優勝という過去最高の快挙を達成した。
日本のサッカーにおける黄金世代は、「79年組」とも呼ばれ、元々は1994年に開催されたU-16アジアユース選手権カタール大会の優勝した事からこう呼ばれるようになった。この大会の主な参加選手は小野伸二、稲本潤一、高原直泰、酒井友之、播戸竜二、辻本茂輝、手島和希、本山雅志らであるが、[12]U-16アジアユースには出場しなかったものの、その後に準優勝したU-20ワールドユースに参加した中田浩二、遠藤保仁、加地亮、小笠原満男らも含んで呼ばれる。中でも小野、稲本、高原の三人はこの世代を代表する選手であり、海外でも成功を収めた数少ないプレーヤーでもある。
1993年12月、滋賀県立守山高等学校サッカー部監督(当時)の松田保がU-15日本代表の監督に就任した。当初、松田は1978年生まれの選手達を中心に当初は結成しようとしたが、メンバー編成には8月1日以降生まれという制限があった為に、1979年生まれ以降の選手達までに選択肢を広めざるを得なかった。そこでチームを高原や小野、稲本らを中心にU-15日本代表を編成し、1年後の1994年にU-17日本代表としてU-16アジアユース選手権カタール大会に出場した。
同大会のグループリーグこそはUAE代表(2-5)とイラク代表(0-1)に負けたものの、韓国代表(3-0)とバーレーン代表(3-0)に勝利して、準決勝へ進出すると、準決勝のオマーン代表(4-3)にVゴールで勝利して決勝に進出し、決勝のカタール代表を(1-0)のVゴールで下し、同大会での初優勝と自力での世界選手権出場という2重の快挙を成し遂げた。
しかし、4年後に清雲栄純が代表監督に迎えて出場したU-19アジアユース選手権タイ大会では、グループリーグこそは3戦無失点という好成績で決勝トーナメントに進んだものの、決勝では韓国代表(1-2)に敗北するという苦汁をなめた。
ただ、1999年に当時のA代表監督も務めていたフィリップ・トルシエを代表監督に迎えて出場したワールドユース選手権・ナイジェリア大会では、イングランド代表やポルトガル代表といった強豪チームを下して決勝まで進み、スペイン代表には惨敗(0-4)したものの、「準優勝」という成績を収めて、同大会における最高成績を収めた(もし、この快挙が無ければ、彼らが“黄金世代”と呼ばれなかった可能性は高い)。
2000年9月、1999年のワールドユース選手権ナイジェリア大会に引き続いてフィリップ・トルシエが五輪代表監督を務め、新たなメンバーに1977年生まれ(松田直樹、中田英寿、宮本恒靖、柳沢敦など、柳沢以外の3人は早生まれ)と1978年生まれ(中澤佑二、中村俊輔など。ただし、中澤は早生まれ)、オーバーエイジ枠(1974年生まれの三浦淳宏、1975年生まれの森岡隆三、1976年生まれの楢﨑正剛)の選手が加わった五輪代表はシドニー五輪に出場した。
グループリーグでは南アフリカ(2-1)とスロバキア(2-1)に勝利し、ブラジル(0-1)には敗北したもののグループリーグを突破した。しかし、準々決勝のアメリカ(2-2)ではPK戦で中田英寿が外してしまい(4-5)、敗れた(ベスト8)。決勝トーナメント進出という成績はメキシコ五輪以来となる32年ぶりの快挙として、「史上最強」と称された彼らはこの頃から世間の注目を大きく集めるようになった。
シドニー五輪後、同年10月に出場したアジアカップ・レバノン大会で優勝して本格的にA代表(日本代表)に定着した彼らは2001年に地元で開催されたコンフェデレーションズ杯で準優勝し、翌年に控えた地元開催のFIFAワールドカップ・日韓大会へ勢いづけた。
2002年6月、地元開催となったWC日韓大会ではベルギー(2-2)と引き分けるもロシア(1-0)とチュニジア(2-0)から勝利を収め、グループリーグ1位通過で決勝トーナメントに進出するが、トルコ(0-1)と対戦して敗れた(ベスト16)。日本サッカー協会は4年後にゴールデンエイジが年齢的に全盛期となることを見越し、その創造力を発揮させられると期待して新監督にジーコを招聘した。2004年に出場したアジアカップ・中国大会では、地元の中国人サポーターによる激しいブーイング行為の洗礼に見舞われるものの、前回大会に引き続いて優勝し同大会連覇を果たした。
ただ、2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会でのグループリーグ敗退を境に彼らの実力と人気は次第に下降し、2007年に出場したアジアカップ・タイ・マレーシア・ベトナム・インドネシア大会では準決勝で敗退して3連覇を逃した。この頃になると国内開催の国際親善試合であっても観客席がなかなか満員にならず、人気の面でも苦戦している。2010年のFIFAワールドカップ日本代表チームでは黄金世代と呼ばれた世代はまだまだ老け込む歳ではないにもかかわらず遠藤保仁、稲本潤一のみの出場にとどまった。
かつては各年代における代表実績に限らず、欧州リーグなどにおける活躍も突出している世代であった。
小野はUEFA杯優勝&アジア年間最優秀選手賞受賞を経験し、稲本はUEFAインタートトカップ決勝戦での欧州日本人初ハットトリック達成&優勝を経験した。高原直泰は、ブンデスリーガでの1シーズン2桁得点を挙げた。いずれも、日本サッカー界において歴史的快挙に値する実績を残している。
黄金世代人気はテレビ界にも反影し様々な特集が組まれる中、2002年から2006年までフジテレビで黄金世代の顔と言われている小野・稲本・高原に密着した特別番組『ワールドカップをめぐる冒険』が年に1度正月番組として放送されていた。
日本の女子サッカー界では、2011 FIFA女子ワールドカップで初優勝しロンドンオリンピックで銀メダルを獲得した日本代表を黄金世代と呼ぶことがある。ただし年齢の幅が広いため特定の年代を指す用語ではない。
またU-17女子日本代表が2010 FIFA U-17女子ワールドカップでU-17の女子サッカー史上最高となる準優勝という結果を残したことから、黄金世代と呼ばれた[17]。なお、4年後の2014 FIFA U-17女子ワールドカップでは、日本が初優勝を果たしている。
日本のプロ野球でも、各世代ごとに黄金世代と呼ばれる選手が輩出している。
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