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越前国に所在した藩 ウィキペディアから
高森藩(たかもりはん)は、江戸時代前期の短期間、越前国に存在した藩。藩庁は越前国丹生郡高森村の高森陣屋(現在の福井県越前市高森町)に置かれた。
1697年、紀州徳川家の松平頼職(後の徳川頼職)に3万石の領知が与えられて成立。同時に成立した頼職の弟・頼方(のちの8代将軍徳川吉宗)の葛野藩と同様に、紀州藩から派遣された少数の家臣によって領知の管理が行われており、当時は地元で「紀州領」と認識されていた[1]。頼職が紀州藩を継いだあと、本庄松平家が入ったが、1711年に無嗣断絶となった。
丹生藩(にうはん)とも呼ばれる。
元禄10年(1697年)4月11日、5代将軍徳川綱吉が紀州藩邸を訪問した際[2]、紀州藩2代藩主徳川光貞の三男・松平頼職(18歳。後の紀州藩4代藩主徳川頼職)と、四男・松平頼方(14歳。後の8代将軍徳川吉宗)にそれぞれ越前国内で3万石ずつが与えられ、大名として取り立てられた[1][注釈 1]。
兄の頼職に与えられたのは丹生郡内63か村[1]、弟の頼方に与えられたのは丹生郡・坂井郡内45か村(葛野藩)である。頼職・頼方に与えられた領知を検分するため、紀州藩から神谷与一右衛門(頼職から代官に任命された人物[1])と大畑才蔵[注釈 2]が派遣され、7月から8月にかけて巡察を行い、頼職領の陣屋は丹生郡高森村に置くことが決定された[1]。
高森藩で支配にたずさわった家臣は合計14人で[注釈 3]、葛野藩も同数である[1]。知行地63か村を北山組・平井組・樫津組の3つの組に分けて各組に組頭(大庄屋)を置いたが[1]、こうした郷村支配のあり方や年貢の収納方法については幕府領時代のものを踏襲したとみられる[1]。宝永元年(1704年)に藩は樫津組組頭の田中甚助に下河原村で新田開発を請け負わせているが、資金難や廃藩により失敗している[1]。
宝永2年(1705年)5月、頼職の兄で紀州藩3代藩主の徳川綱教が嗣子なく死去した[1]。このため、弟である頼職が跡を継ぐこととなり、6月に相続が認められた[1]。これにより高森藩は一旦廃藩となり、収公されている。なお、頼職は同年9月に死去し、弟の頼方が紀州藩を継いだために10月に葛野藩も廃藩となって領知は収公された[1]。
宝永2年(1705年)10月、遠州浜松藩主松平資俊の次男の松平宗長に、旧高森藩領のうち2万石が与えられ、高森陣屋を引き継いだ[1]。資俊は徳川綱吉の母である桂昌院の甥であり、宗長が新封2万石を与えられたのは同年6月に没した桂昌院の遺言によるという[1][5]。
松平頼職領時代(3万石)と松平宗長領(2万石)の差の1万石については、頼方に与えられて葛野藩は4万石に加増されたという説もあるが[6]、『福井県史』では幕府領のままであり、葛野藩廃藩後に幕府葛野陣屋の管轄下に入ったとされている[1]。
宗長は定府大名で領知に一度も赴くことなく、代官を派遣して藩領を治めた。宝永6年(1709年)に死去したため、弟の松平宗胡(6歳)を養子に立てて跡を継がせたが、宗胡も正徳元年(1711年)11月に死去したため、高森藩は無嗣断絶となった[1]。
旧高森藩領は幕府領となり、高森陣屋はそのまま近隣幕府領の管理拠点となった[7]。享保5年(1720年)、越前国内の幕府領を福井藩預所とした際に、高森代官美濃部勘右衛門は福井藩に約4万4800石の管理を引き継ぎ[7]、陣屋は廃止された[注釈 4]。
2万石 譜代
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