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1640-1714, 江戸時代前期の俳諧師 ウィキペディアから
野沢 凡兆(のざわ ぼんちょう、? - 正徳4年(1714年))は、江戸時代前期から中期の俳諧師。姓は野沢、越野、宮城、宮部ともいうが定かでない。別号に加生、阿圭。
俳号は初め加生と称し、元禄2年(1689年)の『曠野』、元禄3年(1690年)の『いつを昔』などに入集している[2][3]。
在京の松尾芭蕉に師事。凡兆と芭蕉との対面は、芭蕉が「笈の小文」の旅の後、京にあった元禄元年(1688年)初夏のころと推定されている[4][5][注釈 1]。芭蕉より抜擢され、向井去来と『猿蓑』の共撰を命じられた。元禄4年(1691年)7月刊の『猿蓑』には、芭蕉をも超え作者中最多となる発句41句が入集している[2][6][7][8]。
凡兆が《雪つむ上の夜の雨》の上五に置く言葉を迷っていたところ、芭蕉が《下京や》と置いたものの凡兆が不満気であったため、「兆、汝手柄に此冠を置くべし。若まさる物あらば、我二度俳諧をいふべからず。」と芭蕉が強い態度を示したという逸話は、『去来抄』に伝える『猿蓑』編纂時のものである[9]。
『猿蓑』に入集された《田のへりの豆つたひゆく蛍かな》の句は、そもそもは芭蕉の添削が入った凡兆の句であった。しかし、凡兆は「此の句見るところなし除くべし。」と言って評価せず、去来がこの句を「風姿あり」と評価しても、凡兆は頑なにこれを認めなかった。そのため、ついに芭蕉は、伊賀の連中の句に似たものがあるので、それを直してこの句としようと言って、伊賀の万乎の句として入集させた、というやはり『去来抄』に見える逸話も著名である[10][11]。
越智越人が「洛の凡兆は剛毅なれば」(『猪の早太』[12])というように、自我意識の強い人物で、師の芭蕉にすらたびたび批判的な態度を示す面があった[13][14]。
やがて芭蕉から離れた。各務支考の『削かけの返事』によると、岡田野水、越人が、凡兆を語らって芭蕉に八十村路通を讒訴したことで、芭蕉の不興を買ったのだという[15][16]。
さらに、その後、凡兆は罪に問われて投獄されたとされる。《猪の首の強さよ年の暮》の句は、獄中の作とされる。後年の書であるが、天明5年(1785年)刊の高桑闌更『誹諧世説』によると、罪ある人に連座したものという[15][17]。また、遠藤曰人『蕉門諸生全伝』によれば、その罪は抜け荷売買に関するものではなかったかという[2]。
元禄14年(1701年)、大坂の舎羅が編んだ『荒小田』には凡兆の句が39句入集しているが、『猿蓑』時代に比し精彩を欠いた[18][19]。
零落した晩年を過ごし、正徳4年(1714年)春、大坂にて没したとみられる[2][20][21]。志太野坡、服部土芳とは晩年も交流があった[22]。金沢の養智院に凡兆の墓なるものがあるが、信じがたいとされる[14][23]。
近代に入り、主観的な句風の俳人が多い元禄にあって、『猿蓑』時代の凡兆は、際立って客観的、印象鮮明な句風であったとして注目された[1][25]。
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