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日本のプロレスラー (1963-) ウィキペディアから
蝶野 正洋(ちょうの まさひろ、1963年〈昭和38年〉9月17日 - )は、日本の男性プロレスラー、YouTuber。アメリカ合衆国ワシントン州シアトル出身、東京都(渋谷区、三鷹市)育ち。血液型O型。
蝶野の父は愛媛県新居浜市出身で、大手製紙会社の会社員。母は愛媛県大洲市出身、医者の家系でお嬢様育ちの優しい人柄という良家であった。兄と姉がいる。そんな中、英語堪能な父の赴任先となったアメリカ合衆国ワシントン州シアトルで蝶野は3人きょうだいの末っ子として生まれた。2歳半で帰国し、以後は神奈川県川崎市多摩区、東京都渋谷区、三鷹市で少年時代を過ごす。アメリカ国籍と日本国籍の多重国籍であったが、すでに帰化[要出典]している。
目黒区たちばな幼稚園、渋谷区立猿楽小学校、三鷹市立北野小学校、三鷹市立第五中学校、三鷹第六中学校、東京都立永山高等学校卒業。渋谷区で過ごした小学校時代までは周囲をエリート家庭に囲まれた優等生で過ごしていたが、小学6年で三鷹市に転校した初日、隣のクラスの番長が挑んできた腕相撲勝負に勝ったことで蝶野は番長となってしまい、中学に入学後に頭はアイロンパーマに剃り込み、制服ズボンはボンタンと不良街道を突き進んだ[2]。その一方で、新設された中学にサッカー部がなかったため、蝶野が部を立ち上げるなどサッカー部の活動には熱が入っていた。蝶野もサッカー推薦での私立の強豪高校への入学を希望したが、筆記テストで点数不足だったため不合格、挫折を味わう。あげくに警察沙汰の暴行事件を起こし全てが水泡と消えた[3]。蝶野は、二次募集で受かった高校に入学後もサッカーを続けるが、ここでも暴力沙汰で停学を繰り返し、サッカーでは完全に挫折。高校時代まで三鷹の暴走族に所属し、深夜になるとベランダからこっそり家を抜け出して特攻服姿でオートバイに乗り暴走行為を繰り返していた[4]。「三鷹の蝶野」の存在はその方面ではよく知られた存在で[5]、その名前は当時ブラックエンペラーの総長だった宇梶剛士の耳にも届いていたという。高校卒業後、浪人中に「ワールドプロレスリング」で長州力対藤波辰巳の試合を見てプロレスに興味を抱き、トレーニングを開始。新日本プロレスに入門を許可された後、親を説得する材料として神奈川大学に合格するが、大学は入学式にだけ出席し、そのまま新日本プロレスに入門した。蝶野は「荒れていた自分を更生できるチャンス」と捉えていたが[6]、両親ともプロレス入りには反対だったため蝶野は、「厳しい世界で自分を試したい、半年だけでいいからチャンスをください。レスラーとして芽が出ないなら大学へ行くから」と両親に頭を下げて説得[7]。母親は「プロレスを辞めたときのために退学になっていてはいけないから」と蝶野には黙って毎年4月に大学の教務課を訪れて学費を払い続け、学籍を8年間残していた[8]。
1984年4月、蝶野は武藤敬司と同日に新日本プロレスへ入門し、同年10月に埼玉県で行われた興行でプロデビューした(初戦の相手は、同じくこの試合でデビュー戦を迎えた武藤。)[9]。1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝。優勝条件の海外武者修行に、同年春に出発。オーストリアのグラーツトーナメントを初参戦に、ウィーントーナメント、ドイツ転戦ではハノーバートーナメント、西ベルリントーナメント、ブレーメントーナメントに参戦。グラーツ、ブレーメンは、オットー・ワンツがプロモートする大会。キャッチ・レスリング・アソシエーション(CWA)に参戦した。ドイツ(当時西ドイツ)ブレーメンで、現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会った。
1987年12月、ヨーロッパ武者修行を終え、北米に転戦。アメリカ合衆国カンザスシティに転戦、1988年春にカナダのニューブランズウィック州モンクトンに転戦、1988年秋アメリカ合衆国アラバマのNWAテリトリーと北米を転戦[9]。武者修行中に、2度の短期凱旋もしている。1989年二度目の欧州遠征でオーストリアグラーツトーナメント、ウィーントーナメント、ジンバブエにも遠征した。1989年秋、新日本プロレスから正式に帰国命令を受け、帰国前にアメリカ合衆国バージニア州ノーフォークのルー・テーズ道場で最終調整の短期合宿をし、日本に帰国。ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック(STF)は、この時ルー・テーズに伝授された。
1988年7月が1回目の短期凱旋で、新日本プロレス有明コロシアム大会に参戦。帰国直前、蝶野はプエルトリコで武藤、橋本とともに「闘魂三銃士」を結成し凱旋。なお、闘魂継承を最も意識したのは橋本で、蝶野、武藤の2人は乗り気でなかった。1989年4月、プロレス会初の新日本プロレス第1回東京ドーム大会参戦が、蝶野の2度目の凱旋帰国となった。IWGP王座決定トーナメントに出場し、ビッグバン・ベイダーに準々決勝で破れた。この後は、ドイツブレーメンを拠点に、オーストラリア遠征、アフリカのジンバブエ遠征に参戦。正式な帰国は1989年秋であった。
1989年10月に新日本に戻ってからは、1990年2月10日に新日本プロレス2度目の東京ドーム興行のメインイベントにおいて、橋本とのタッグでアントニオ猪木・坂口征二組と対戦し、4月27日に武藤とのタッグでIWGPタッグ王座を獲得、12月26日に師匠でもあるテーズを破った(なお、この試合がテーズの最後の試合となった。)[9]。翌1991年、新日本プロレスの夏期興行G1 CLIMAXの第1回大会において素晴しいパフォーマンスを見せた蝶野は、メインイベンターとしての地位を確立した(決勝では武藤を破り優勝)[9]。
蝶野は1992年にも再びG1 CLIMAXで優勝し、同時にNWA世界ヘビー級王座を獲得した。このG1連覇により、蝶野は「夏男」と呼ばれるようになった。1992年9月23日横浜アリーナ大会、スティーブ・オースチンとのNWA世界ヘビー級王座初防衛戦において防衛。古傷の首を悪化[9]。1993年1月4日、グレート・ムタとのNWA・IWGPダブルタイトル戦で敗戦した。3連覇が掛かった1993年の第三回G1 CLIMAXでは準決勝で馳浩に破れた。1994年1月、橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦したが敗戦した。1994年8月、G1クライマックス決勝でパワーウォーリアーを破り、3度目のタイトルを手にした。
1994年のG1 CLIMAX優勝後、蝶野は「武闘派宣言」によって入場テーマ曲も変えてヒールターンを果たす。この頃から蝶野は黒を基調としたコスチュームに一新し、馳浩を大流血に追い込んだ末出血する頭部を掻きむしりながらのSTFで破った。テーマ曲など現在まで続くスタイルを確立した。週刊プロレスはこの蝶野を「BLACKJACK」と称した。1995年に天山広吉、ヒロ斎藤とヒールユニット狼群団を結成。1996年に新日本と提携していたWCWに参戦、ハルク・ホーガンが率いるnWoに加入し、帰国後にその日本支部としてnWo JAPANを結成。蝶野もその総帥としてグレート・ムタ(すでに武藤として活躍)ら日本人、外国人メンバーを次々と増員し、「nWo Tシャツ」が大量に売り上げられるなど、一大ムーヴメントを起こし、同年「プロレス大賞MVP」を受賞した。1998年8月8日、大阪ドームで藤波辰爾を破り8回目の挑戦にして遂に悲願のIWGPヘビー級王座初戴冠を果たした。しかし、首の負傷により防衛戦を行うことなく王座を返上、長期欠場に入った。
復帰後の1999年、AKIRA、ドン・フライらと共にTEAM 2000を結成。武藤率いるnWoと抗争を開始し、2000年に武藤との決着戦に勝利。nWoを消滅(実際にはWCWとの提携解除に伴いnWoの使用権が消滅したため。)させ、nWoの残存勢力を吸収し組織を拡大。同年、所属選手の大半が離脱し、存続の危機に陥った全日本プロレスから渕正信が新日本に登場。蝶野がマイクパフォーマンスで応戦し、対抗戦の口火を切った。単身全日本プロレス日本武道館大会に歴史的参戦。渕とシングルマッチを行い勝利後、「お前ら家に帰ってマスでもこいてろ!」とアピールし全日本ファンを敵に回した。
2001年には、武藤が率いるBATTと抗争を繰り広げた。2002年、蝶野は4度目のG1チャンピオンとなった。また札幌大会で猪木に指名され、蝶野は新日本プロレスの現場責任者となった[9]。2002年5月2日の東京ドーム大会でプロレスリング・ノアの三沢光晴と初対決。30分ドローに終わる。この東京ドーム大会は、蝶野の現場監督就任の最初仕事になった。8月には4度目のG1優勝を果たした。大会後、魔界倶楽部、高山善廣、藤田和之ら外敵との抗争に入り新日本隊に合流し、TEAM 2000は自然消滅。猪木派vs新日蝶野派の図式、総合推進派vsプロレス推進が進んだ。2003年にノアに初参戦、三沢と組み小橋建太・田上明組と対戦。ノアの有明コロシアム大会に来場し、蝶野も自ら「ミスタープロレス対ミスタープロレス」と称し、小橋の持つGHCヘビー級王座に挑戦を表明、5月2日の新日本東京ドーム大会で対決した。試合には敗れるも、蝶野は小橋のハーフネルソンスープレックス6発を受けきって見せ、小橋と共にファンの大喝采を受けた。
2005年には、ヒールユニットであるブラック・ニュー・ジャパンを結成。この頃から、猪木派の強行な新日本への内部介入が表面化していった。しかし8月、G1で藤田和之を破って5度目の優勝を果たし、同年に急逝した橋本に優勝を報告した。だがこの時の藤田との戦いで右目が斜視になり、後にそれが限界に達して引退に追い込まれることとなった[10]。長州力が新日本に戻ってくると反長州を掲げ抗争を開始し、2006年には新日本社長のサイモン猪木と抗争を開始する。サイモン社長の起用は歓迎と同情をしていた。その理由としては、蝶野が知らないところで社長候補として利用されていたためである。だが、同年年末の猪木、ユークス間の株式譲渡で筆頭株主に成ったユークスには否定的だった。それまで実質的なオーナーであったアントニオ猪木が新日本から身を引いたことで張り合いがなくなった蝶野は、次第に最前線からフェードアウトする[10]。
2007年1月4日、蝶野は東京ドーム大会で武藤とタッグを結成して勝利。G1 CLIMAXにおいて真壁刀義に敗れた後、リング上にて長州、越中詩郎、マシン、ライガーを呼び出し、新軍団結成を呼びかけた。
2007年9月1日 - 2日、幕張メッセ国際展示場・11ホールにおいて「蝶野王国2007 in 幕張」を開催。長州率いる『LOCK UP』、藤波率いる『無我ワールド・プロレスリング』、新日本プロレスの3団体合同興行となった。これと同時に三田証券と組んでイベントを証券化することも発表された。資金調達の手法としてファンドの活用を行うことは、プロレス界にとって初めてのことであった。
2008年から、蝶野が自らGM(ゼネラルマネージャー)を務める「PREMIUM」興行を開催。
2009年1月4日、東京ドーム大会でケビン・ナッシュ、カート・アングル、長州力と日米レジェンドタッグを結成、真壁が率いるヒールユニットG・B・Hに勝利を収めた。10月3日、ノア・大阪府立体育会館で行われた三沢光晴追悼興行に参戦した。かつて蝶野と戦った小橋と、GHC王者の潮崎豪とタッグを結成した。10月12日、蝶野正洋25周年特別興行「ARISTRIST IN 両国国技館」を開催。蝶野も小橋と武藤とタッグを組み、メインイベントに登場して勝利した。
2010年1月4日の東京ドーム大会を最後に、蝶野は首や両膝の治療と本人曰く「体のリビルド」のために長期休養に入った。1月21日に自身の25周年記念パーティーを行い、これに先立って行った会見の中で、蝶野は2010年1月末をもって新日本プロレスを退団し、アリストトリスト所属のフリーランスとなった。退団理由として本人が後に、25周年特別興業の際の会社の対応が素っ気なく、自分から契約更新を見送ったと語っている[10]。
私生活では、1991年12月にマルティナ・カールスと結婚している[27]。2006年7月に結婚15年目にして第1子[28] となる男児が誕生、2009年8月には第2子となる女児が誕生している。2010年、東京消防庁「救急救命普通講習」受講をきっかけに社会貢献活動に取組んだ。2011年の東日本大震災後は積極的に復興支援イベントに参加し、主催イベントもしている。 なお、妻のマルティーナとは2020年12月31日の「絶対に笑ってはいけない大貧民GoToラスベガス24時!」で初共演を果たした。
東日本大震災の被災地を巡る中、茨城県東茨城郡大洗町のイベントが元で同町を舞台としたアニメ『ガールズ&パンツァー』を知り[29]、蝶野もその縁で『劇場版』応援大使[30] や、さらに同作品の応援大使から転じて大洗大使にも就任し活動している[31]。2017年7月、茨城県からの要望で「いばらき大使」に就任[32]。
蝶野は新日本プロレスのシングル最強決定戦であるG1 CLIMAXで5度優勝していることから、「夏男」「ミスターG1」とも呼ばれる。ベビーフェイス時代に3度、ヒールターンしてからは2度優勝を果たしていて、しかも5回中4回がリーグ戦形式による公式戦を勝ち上がっての優勝である。
強面で威圧的な風貌と装飾品、胴間声の口調が特徴となっているが、若手時のプロレススタイルは別段特徴のないオーソドックスなストロングスタイルのレスラーであった。巡業を終え、ホテルに入り、また試合という単調な日常に危機感を募らせ陰鬱になっていた蝶野は、現状打破を試みて思案、模索し、現在の“ギャングスター”スタイルに行き着く。
遅刻癖があるため、本来より早く伝える集合時間を“蝶野時間”と言われている(PS2版レッスルキングダムクロストークDVDで暴露、収録当日も本来の集合時間より一時間早い時間を伝えられていた[39])。
高校時代、深夜に暴走族の集会に行くため特攻服を着て家を抜け出そうとしていると父親に発見された。「そんな日の丸着いた服でどこに行くんだ」と言われたが、「今日は夜におまつりがあるからこの格好なんだよ」と言ってごまかした[4]。また違う日に見つかった時には「清掃作業の手伝いに行くんだよ」という嘘もついたが、父は東京の暴走族がどんな格好をしているか知識がなかったので蝶野のいう嘘を疑わなかった。
新日での若手時代、『日本文化センターテレフォンショッピング』に出演したことがあり、体を鍛える器具を紹介した。ファンの間では伝説のCMと呼ばれている。
1999年12月、妻と二人三脚のブランド「ARISTRIST」(アリストトリスト)を設立。デザインコンセプトはブラックを基調とし、「ストリート・フォーマル・ファッション」をキーワードにアパレル以外にもサングラスから靴までトータルデザインを手がけている。現在、表参道に出店。
2007年10月6日に公開された松竹映画『未来予想図 〜ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜』を撮った映画監督・蝶野博は、従兄弟にあたる(蝶野の父の弟の息子)。
ARISTRIST(アリストトリスト)は、蝶野と夫人のマルティーナが二人三脚で始めたブランド。新日本プロレスと共同でブランド展開、1999年12月に法人設立。2000年7月代々木上原店に1号店をオープン。2002年2月恵比寿/2号店〜2006年2月下北沢/3号店〜2010年2月〜2017年の現在は4号店目。東京都渋谷区表参道でショップを構えている。蝶野が試合で着用する黒色のガウンとレッグガード付きロングタイツも夫人のデザイン。ARISTRISTは英語の「ARISTO(アリスト、意味は上流)」と「TRISTANO(トリスターノ、意味は庶民)」の2つの言葉を組み合わせた造語。
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