織部流
日本の茶道流派 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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織部流(おりべりゅう)は、茶道流派の一つ。古田織部(重然)に始まる武家茶道の一派である。 現在の織部流は、「織部流古織会」、「式正(しきせい)織部流(織部桔梗会)」、「織部流扶桑派」、「古田織部流(正伝会)」がある。「式正織部流」・「織部流扶桑派」・「織部流古織会」<式正(しきせい)茶法>と、古法の「織部流古織会」草庵(侘)茶法と同奥伝<式正(しきしょう)茶法>また「古田織部流(正伝会)」の点前とでは、大きな違いが見られる。 織部とは、古田織部の「織部助(正)」という官途名からである。織部流は安土桃山時代末期から江戸時代前期に大流行した。織部は豊臣秀吉の御咄衆、そして初期の江戸幕府の茶の湯を司り、2代将軍徳川秀忠(1579年―1632年)に至っては茶の湯指南役として直接指導した。「柳営茶道」の元祖である。織部は大坂夏の陣の時、豊臣方に内通したとされ切腹。古田家は御家断絶となったが、秀忠は織部の茶の湯を愛したため幕閣をはじめとする諸大名、公家、僧侶たちもそれに倣い、織部流は秀忠が亡くなるまで柳営茶道の中心であった。その後も織部流は諸藩で用いられ、遠州流・宗和流・石州流・宗旦流などが台頭するまで全盛であった。 江戸幕府のほか、特に加賀藩、仙台藩、尾張藩、熊本藩、薩摩藩、長州藩、徳島藩、広島藩、福井藩、秋田藩、盛岡藩、久留米藩、飛騨高山藩、岩国藩などで用いられ、福岡藩、長門長府藩に至っては江戸時代後期まで続いている。 江戸時代中期に福岡藩の大番頭・槙宗空(直村)が豊後岡藩にいた古田織部血縁の古田淵黙に織部流茶法を伝授し、淵黙の子孫・古田宗関(重名)は明治維新の時に上京して、これまで豊後古田家において「古織流」「古織伝」と称されていたものを「織部流」と称し織部流茶道を一般に広く公開した。宗関の弟子には、娘の古田素春(咲子)、岡崎淵冲(惟素)、原宗改(鉄石)らがいた。 明治31年(1898年)に宗関は「茶道温知会」を創設し衰退する茶道の普及を志すも大正2年(1913年)に没し、娘の素春(古田家十五代)が大正6年(1917年)、孫の辰雄(古田家十六代)が大正8年(1919年)と続けて亡くなり、豊後古田家は絶家となって「茶道温知会」は消滅した。 弟子の岡崎淵冲は「織部流淵冲派」、原宗改は「式正織部本流」を称して弟子に教授した。宗改は侘茶を嫌い(真行草のうちの)真の茶道を専らとした。昭和時代初期に至り宗改の弟子・秋元瑞阿弥が千葉で「式正織部流」という、すべて「茶碗台」を用いる茶道を創流し「織部十六世」を称した(『流祖古田織部正と其茶道』)。また、昭和30年(1955年)に独自の研究と研鑽を積んだ見中斎米山(中村米三郎)が「織部流扶桑派(扶桑織部)」を西陣興聖寺住職・日種譲山(胎雲)と清水寺中興大西良慶のもとで創流。以後清水寺が扶桑派の後ろ盾となる。米山は譲山とともに織部木像を据え、下り蹲踞を作るなど、興聖寺を織部ゆかりの寺にさせた人物である(『見中斎米山』)。 瑞阿弥の弟子には娘の秋元瑞雲(清子)、西陣興聖寺住職・浅野牧仙(王雲斎)がいた(浅野牧仙「織部流」『日本の茶家』400頁)。瑞雲は織部桔梗会会長として娘の瑞燕(成子)に「式正織部流」を継承する。浅野牧仙(玉雲斎)は「織部流十七世」として織部流の更なる発展のために織部流を新たに「織部流古織会」と名称し織部流茶道の点前の統一と共に全国に織部流の普及を図った。現在は興聖寺派管長・長門玄晃(槐安)が「織部流十八世」として全国の織部流の普及活動に努めている。(『古田織部 茶道織部流』織部流古織会発行)(最高裁判所・民事裁判「織部流事件」 令和2年(行ケ)第10055号 審決取消請求事件) 淵冲の著作物・資料の一部は子孫から興聖寺に寄贈され現在「織部流古織会」が所蔵している(『古田織部 茶道織部流』織部流古織会)。 平成時代になって淵冲派の所作を基にし、桃山時代から江戸時代前期の茶書に記されている古田織部在世期の所作・手順の復元をした「織部流温知会」が古田織部美術館館長・宮下玄覇によって発足された。そして令和5年(2023年)には、毛利秀元伝来の織部流所作・手順を加味し「古田織部流(正伝会)」と改称され現在に至っている。