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大日本帝国海軍の戦闘機 ウィキペディアから
紫電改(しでんかい)は、太平洋戦争期における大日本帝国海軍の戦闘機である。紫電(N1K1-J)の二一型以降が紫電改と呼称される。この項では紫電改と紫電をまとめて紹介する。
川西 N1K2-J 紫電改
局地戦闘機紫電は、水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化したもので、紫電二一型は強風にちなんだ中翼配置の紫電を低翼に再設計した機体であり、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴であった。この機体は後述するように日本海軍、ひいては日本軍の戦闘機の中で最優秀の一つとされる。精鋭が集められた第三四三海軍航空隊の通称"剣部隊"に集中配備されたこともこの機体の名声が高まった要因と言える。
昭和19年4月7日内令兵第27号「航空機の名称」では「試製紫電改」は「試製紫電の機体改造及兵装強化せるもの」として定義づけられており、昭和20年4月11日海軍航空本部「海軍飛行機略符号一覧表」における二一型以降(紫電改)は、「試製紫電改(二一型)」「試製紫電改甲(二一甲型)」「試製紫電改一(三一型)」「試製紫電改二」「試製紫電改三」「試製紫電改四」「試製紫電改五」が該当する。
「紫電改」の名称は、兵器名称付与標準に基づき兵器採用前の試製機として「試製紫電改」とされたもので[1]、「仮称紫電二一型」とも称し、兵器採用により「紫電二一型」となった。
日本海軍の搭乗員からは「紫電」と「紫電改」の呼称の他に[2]、紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼称されることもあった[2]。三四三空の戦時日記でも「紫電改」「紫電二一型」の両方の記述があり、呼称は統一されていなかった[3]。
連合軍側のコードネームは"George"(ジョージ)。紫電改は正面から見ると低翼であることがわかるため、紫電一一型とは別機と認識され、さらに戦時中には情報不足から、疾風や零戦などの他機種と誤認報告されており、戦後になってから紫電がGeorge11[4]、紫電改がGeorge21と分類されて呼ばれた。
1941年(昭和16年)末、川西航空機(以下、川西)は水上機の需要減少を見込み、川西龍三社長の下、次機種制作を討議した[5]。川西社内で二式大艇の陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、川西十五試水上戦闘機(「強風」)の陸上戦闘機化の三案を検討した結果、十五試水上戦機陸戦案が決まった[6]。川西の菊原静男設計技師は12月28日に海軍航空本部を訪れ、技術本部長多田力三少将に計画を提案。三菱で開発の進められていた局地戦闘機「雷電」と零戦の後継機「烈風」の開発遅延に悩んでいた日本海軍は[7]川西の提案を歓迎し[8]、その場で承認された[6]。しかし海軍技術者から陸上機製作の経験が浅い川西の技術力に対して疑問の声があがったため審議会が開かれ[6]、1942年(昭和17年)4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた[6]。
完成を急ぐため可能な限り水上戦闘機「強風」の機体を流用することになっていたが、実際には発動機を「火星」から大馬力かつ小直径の「誉」へ換装したこと、尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった[6]。しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、翼型も航空研究所で開発されたLB翼型(層流翼)が強風より引き継がれている。自動空戦フラップも装備していたが、初期段階ではトラブルに見舞われた(後述)。
1942年(昭和17年)12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)で初飛行を行ったが[9]、当初から「誉」の不調に悩まされた。川西は「紫電ではなくエンジンの実験だ」という不満を抱き[10][11]、志賀淑雄少佐(テストパイロット)も「完成していなかった『ル』(誉の略称)の幻を追って設計された」と述べている[12]。搭乗員の岩下邦夫大尉はエンジンの不調と共に紫電の操縦席に排気ガスが入ってきて苦労したという[13]。
紫電は「強風」の中翼形式を継承しており、降着装置の主脚にある程度の長さを必要としていたが、長すぎると格納時に多くの空間を占有するのが問題となった。そこで主脚を二段式とし油圧で伸縮する機構を採用した[6][14][15]。試作型では主脚を縮めるのに1-2分かかり、後に20秒に改善された[16][13]。ブレーキの効きが左右で違うこともあり、ベテランパイロットであっても安心して着陸できなかった[17]。脚部収納にかかる時間は、零戦が12秒に対し紫電改は9秒と若干短縮されている。
また着陸時には引き込み脚部のトラブルにより、三四三空戦闘301隊では1945年(昭和20年)1月1日から8日にかけて、3日に1機の割合で脚部故障により紫電を失っている[17]。
離着陸時の事故の多発、前方視界不良、連合国軍の新鋭機に対する速度不足などの問題は紫電につきまとった。計画では最高速度653.8km/hを出すはずだったが、実測値は高度5,000mで570.4km/hであった。上昇力は5,000mまで5分32秒 [18]、航続距離(増槽なし)全力30分+巡航(高度3,000m、360km/h)で2.8時間という性能だった[19]。速度低下の原因は、オクタン価が100の燃料を節約するため92オクタンで代用したこと、翼下面に20mm機銃をおさめたポッドを装着したことによる抵抗力の増大等が指摘される[19]。しかし試作機は、問題未解決のまま1943年(昭和18年)7月24日に軍に領収され、8月10日に「紫電一一型」として量産が命じられた[19]。これは、従来の海軍主力戦闘機である零戦では英米軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなってきたこと、ようやく完成した雷電の実戦配備が遅れていたことが主な原因である[20]。だが、紫電の操縦参考書には「紫電は強風を急速に陸上戦闘機に改設計したものだから、計画と設計の不備により、改善の余地大なり」と記されていた[21]。
紫電は、第一航空艦隊で新編成される10個航空軍のうち4個(三四一空、三四三空、三四五空、三六一空)が紫電装備を予定するほどの期待を集めたが[22]、1944年(昭和19年)1月に紫電を優先配備することが決まっていた第三四一海軍航空隊でさえ、零戦との交替は遅々として進まず、7月の時点でも編隊飛行訓練を九三式中間練習機で行っていた[23]。紫電の生産は遅れ、三四三空は零戦で戦い、三四五空、三六一空は紫電の供給もなく解隊された。
1944年(昭和19年)8月から9月にかけて三四一空が台湾・高雄に進出し、10月にはウィリアム・ハルゼー提督率いる第38任務部隊を迎撃した。10月12日、紫電31機と米軍機60機が交戦し、米軍機撃墜10、紫電14機喪失という初陣であった[23]。10月15日まで台湾沖航空戦を戦った。11月、三四一空と二〇一空はフィリピンに進出してレイテ沖海戦に参加する[23]。紫電は米軍新鋭機との空中戦、強行偵察[24]、米魚雷艇攻撃など多様な任務に投入され、機材と搭乗者双方の疲弊により消耗していった[25]。1945年(昭和20年)1月7日、三四一空から特攻機・直掩機ともに紫電で編成された特攻隊が出撃した[26]。こうして三四一空は装備する紫電を全て失い[27]、フィリピンから台湾へ撤退した[28]。
宮崎勇は、零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機であったと評する[29]。三四一空飛行隊長だった岩本邦雄や二〇一空搭乗員だった笠井智一は、紫電はF6Fには手も足も出なかったという[30]。初めて紫電を見た笠井は、紫電がF4Fと酷似していたと証言。陸軍の誤射で撃墜された機体や、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあるという[31]。
紫電一一型は川西の設計陣にとっても満足できる戦闘機ではなく、紫電の試作機が飛行してから5日後の1943年(昭和18年)1月5日には、紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した[32]。海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機改 N1K2-J」の試作を指示した[32]。12月31日、試作一号機が完成した。
この試作機は主翼配置を中翼から低翼とし、また胴体全体を「誉」の直径に合わせて絞り込んだことで離着陸時の前下方の視界も改善された[32]。胴体は400 mm延長され、水平尾翼は400 mm取り付け位置が下げられており、全長が460 mm増大、紫電に比べてスマートな印象となっているが、重量は250 kg増加した[33]。トラブルが多かった二段伸縮式主脚も、主翼の低翼化に伴って全長を短縮できたため、廃止された。同時に部品点数を紫電一一型の2/3に削減して、量産性を大幅に高めていた[32]。
試作機は主翼配置が中翼から低翼式に変更されたが、主翼の外形は強風・紫電一一型と同様であった[32]。また紫電一一型・紫電一一甲型(N1K1-J、N1K1-Ja)までは20mm機銃を主翼内に各1挺、両翼下面に各1挺を主翼下面に直接取り付けていた(ガンポッドではない)。紫電改では紫電一一乙型(N1K1-Jb)と同様、4挺とも翼内装備としている。また零戦が採用した「操縦索の剛性低下」と同様、低・高速度域における操舵感覚と舵の効きの平均化を可能とする腕比変更装置が導入された。
「強風」以来の自動空戦フラップも装備し、改良により実用性を高めた。当時、川西航空機検査部のテストパイロットだった岡安宗吉はこれを評価している。開発者である田中賀之[34]によれば、紫電のテストパイロットである志賀淑雄は空戦性能の向上を評価したという[35]。試作機や初期量産型紫電において自動空戦フラップのトラブルが続出した[10][35][36]。この初期欠陥は順次改修され、実戦に配備された紫電、紫電改において故障は皆無であった[37]。紫電改のテストパイロットをつとめて空母「信濃」に着艦した山本重久は、紫電では信頼性が低かった自動空戦フラップだが紫電改では作動確実とし、1945年(昭和20年)2月17日における紫電改での実戦でも有効に活用して米軍機を撃墜している[38]。笠井智一兵曹も、4月12日喜界島上空の戦闘で米軍機と格闘戦を行い、自動空戦フラップの絶大な効果を体感した[39]。
零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し、本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり、更に自動消火装置を装備して改善された。米軍の調査によると、燃料タンクにセルフシーリング機能は無かったとされるが[40]、2007年(平成19年)にオハイオ州デイトンにおいて復元のため分解された紫電二一型甲(5312号機)の燃料タンク外側に防弾ゴムと金属網、炭酸ガス噴射式自動消火装置が確認できる[41]。操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで、実際には未装備だったとされている。笠井によれば、後部には厚さ10cmくらいの木の板しかなく、後方に不安を抱えていたという[42]。
1944年(昭和19年)1月、志賀淑雄少佐、古賀一中尉、増山兵曹らによって紫電改のテスト飛行が行われ、志賀は「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」と高い評価を与えた[32]。また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796.4km/hを記録し、零戦に比べて頑丈な機体であることを証明[43]。最大速度は11.1〜24.1km/h、上昇性能、航続距離も向上し、空戦フラップの作動も良好だった[43]。日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する[43]。1944年(昭和19年)度中に試作機をふくめて67機が生産された[43]。1945年(昭和20年)1月制式採用となり「紫電二一型(N1K2-J)紫電改」が誕生した。
そこで乙戦(迎撃戦闘機)でありながらも甲戦(制空戦闘機)としても使える紫電改を高く評価した海軍は開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定。1944年(昭和19年)3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示した[44]。航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立てた[44]。しかし空襲の影響で計画は破綻し、川西で406機、昭和飛行機2機、愛知2機、第21航空廠で1機、三菱で9機が生産されたに留まる[45]。 また、紫電改は強風を基に度々改造を重ねた機体故、性能的な陳腐化は零戦より早いと海軍は見込んでいた。実際に制式採用から僅か3,4ヶ月後の昭和20年5月頃には昭和21年以後を見越した次期主力機の開発が開始されていた。間に合わなかったものの、本機の更なる性能向上型の他に、凍結された陣風の試作再開などが検討されていた[46]。
本機は遠方から見るとF6Fとよく似ており、日本海軍パイロット自身が誤認しかけるほどだった[47]。味方から誤射されることもあり、1945年(昭和20年)3月20日には戦艦大和 が哨戒飛行中の紫電改(笠井智一搭乗機)を誤射した[48]。陸軍機も紫電改を誤射することがあり、笠井は疾風(四式戦)4機に空戦を挑まれ、交戦直前で陸軍機側が気付いたという[49]。同士討ちを避けるため、知覧町の陸軍基地に零戦五二型、紫電一一型、紫電改が出張して陸軍兵に実物を見せたことがある[50]。8月12日にも友軍地上砲火で3機が被弾、不時着している[50]。
1943年(昭和18年)以降のF6FやF4U、P-51ら連合軍新鋭機の登場によって急速に現実問題化した零戦の旧式化にもかかわらず、零戦後継機として軍が本命視していた次期甲戦の烈風は1944年(昭和19年)になっても試作途中段階に留まっており、量産配備はまだ先との見積もりであった。これに業を煮やした海軍は紫電の生産ラインを多少改変すれば生産可能であった本機を機体分類上は乙戦のまま、1944年(昭和19年)4月の段階で零戦の後継機として選定し、生産を指示した。この決定の影響により、分類上は迎撃戦闘機である乙戦のままであったにもかかわらず、実戦では主な配備先の三四三空を始めとした部隊では零戦に代わる次世代『制空戦闘機』として運用されていく事になる。[51]
紫電改と同時期に開発され、同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」(以下、四式戦と略)と、紫電改の最高速度を仕様諸元上で比較すると、紫電改の方が劣っている。紫電改の試作時における最高速度は335ノット(620.4 km/h)[52]。全備重量での最高速度は321ノット(596 km/h)/ 5600m、上昇力は6,000mまで7分22秒であった[53]。四式戦初期試作機の最高速度624 - 640 km/h、さらに推力式単排気管に改造された四式戦の後期試作機は、初期試作機より10 - 15 km/hほど速い。当時、紫電や紫電改の発動機である誉二一型は運転制限のため出力が定格より1割ほど低い状態であった。不具合解決のため試作中だった低圧燃料噴射装置付き誉二三型が完成すれば性能は向上する予定だった[54]。もっとも、同様の運転制限は四式戦に搭載された誉(ハ45特)も受けており、条件は同等と言える。
同じエンジンを搭載し、自重も同等であるが、翼面積は紫電系列が23.5平方メートル、四式戦は21平方メートルであり、紫電改のほうが大きな翼をつけている。翼面荷重(kg/平方m)/馬力荷重(kg/PS)は強風150/2.5、紫電改170/2.2、四式戦180/2.0、零戦二一型107/2.5、零戦五二型120/2.3、烈風143/2.8、F6F167/2.6、F8F197/2.0 [55]。この数値のみで判断すれば、紫電改は四式戦より空気抵抗が増える分やや遅く、かわりに揚力が大きくて旋回性能がよいということになる。山本重久テストパイロットは、横旋回では零戦に苦戦、縦旋回戦闘では零戦に対し断然優位、零戦2機を相手にしても互角に戦え、加速性能・急降下性能ふくめ零戦より優っていたと評価している[56]。
1944年(昭和19年)12月10日、速水経康大尉が搭乗する紫電改が、紫電6機(笠井智一ら)と共に、F-13(B-29の写真偵察型)の迎撃に出動した[57]。これが紫電改の初陣とされる。1945年(昭和20年)2月17日、硫黄島攻略戦の前哨戦として米軍艦載機が関東地方に侵入(ジャンボリー作戦)。指宿少佐指揮のもと、岩下邦雄大尉、羽切松雄少尉、武藤金義飛曹長の紫電改隊、海軍航空技術廠(空技廠)から山本重久大尉、増山上飛曹、平林一飛曹が乗る試製紫電改が零戦48機、雷電、紫電11機と共に迎撃[58]。米軍機編隊を撃退した上で、岩下、羽切、山本、増久、平林が各1機、武藤が4機撃墜という戦果をあげ、紫電改隊は生還した[28]。零戦は11機、紫電は1機が失われた。
1944年(昭和19年)12月源田実大佐(司令)の制空権奪還という構想「戦争に負けているのは海軍が主役をしている海上戦に負けているからである。海上戦に負けるのは航空戦で圧倒されているからである。航空戦が有利に展開しない原因は、わが戦闘機が制空権を獲得出来ないからだ。つまり、戦闘機が負けるから戦争に負けるのだ」[59]によって松山基地で編成された第三四三海軍航空隊(通称「剣」部隊、以下「三四三空」とする)に紫電改が優先的に配備された。「紫電改」と腕の立つパイロットを組み合わせ、更に徹底的な改良が施された無線機(無線電話機)を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げ[28]、太平洋戦争中盤の1943年後半以降、劣勢の度を濃くしていった日本海軍戦闘機隊に、アメリカ軍を中心とした連合国軍の最新鋭戦闘機と互角に戦える新鋭戦闘機として紫電改は本土防空の任務についた。紫電改の配備が遅れたため、そろわない分は紫電で代用していた。1945年(昭和20年)3月19日、三四三空は初陣で米艦上機160機に対し、紫電7機、紫電改56機で迎撃して、米軍機58機撃墜を報告した(なお米軍側の記録では不時着含む機体の損失は14機、死亡8名である)。
三四三空の活躍で戦後は「遅すぎた零戦の後継機」として認知され、零戦、隼、疾風と並ぶ代表的な日本軍機として一般に認知される[60]。その経歴やネーミングから人気の高い機体である[60]。
五航艦の命令に従い、三四三空は紫電改で銀河・彗星等の特攻機の護衛任務に就いたが、もともと特攻戦は想定しておらず、紫電改の航続距離も不足しており[61]、奄美大島や喜界島付近にて特攻隊の前路哨戒の制空戦闘を実施した[62]。三四三空は通常の援護ではなく、紫電改で制空権を確保して突撃啓開することで経路を確保する戦法をとっていた[63]。
紫電は、沖縄戦で偵察十一飛行隊、偵察十二飛行隊に配備され、台湾から出撃した。ここでは制空任務だけでなく、強行偵察、戦果確認、索敵任務に投入された。本土防空戦にも数多くの紫電が参加した。5月29日は戦闘403飛行隊6機の紫電がB-29を迎撃して2機を撃墜、7月8日には16機の紫電が50機のB-29、250機のP-51マスタングを迎撃して4機を撃墜するなど[64]、劣勢ながら奮戦している。1945年(昭和20年)2月17日の米機動部隊艦載機との戦闘では、紫電に搭乗していた山崎卓(上飛曹)が横浜市杉田上空で落下傘降下[65]、山崎は降下の後に暴徒化した市民によって殺害され、以降日本海軍ではパイロットに味方であることを示すため、飛行服及び飛行帽に日の丸を縫い付けることとなる。尾翼にカタカナのヨ-のマークをつけた紫電は横須賀海軍航空隊に配備され終戦まで京浜地区の防空にあたる。
第三航空艦隊では、三四三空に配備されていた機体を除く全ての紫電改、紫電を集め、彩雲、百式司偵と共に爆装することで、米護衛戦闘機や対空砲火の高速突破による高い命中率(命中率25パーセント)を期待している[66]。もっとも紫電改の生産数が月70機を越えることはなく、計画は中止となった。
1945年(昭和20年)10月16日に米軍に引き渡すための空輸の際[67]、米軍のハイオクガソリンを用いて全速で飛ぶ紫電改3機(志賀淑雄少佐、田中利男上飛曹、小野正盛上飛曹が示し合わせて実行。武装撤去、弾薬未搭載のため軽量)に、実弾を装備した監視役の6機のF4Uは置き去りにされそうになったという[68]。
紫電改で戦った搭乗員からの評価は高く、三上光雄は「軽戦に対する重戦でありながらも零戦の塁を摩する」「零戦は軽戦、紫電改は重戦と言うべく十分使えた」、磯崎千利、松場秋夫は「零戦同様に使えた」と評し、磯崎は最大の欠点として高速ダイブ中の戻りに対する強度不足を挙げている[69]。笠井智一、佐藤精一郎は失速性その他に注意しながらも紫電改で戦えたことを最高の誇りとし、20mm4挺の威力と包路線型フラップの効用を評価した[69]。岩下邦雄や笠井智一はF6Fと互角に戦える素晴らしい機体として歓迎した[70]。笠井によれば、紫電改にとって最も手強かった米軍戦闘機はF6Fで[49]、紫電と紫電改には雲泥の差があり、紫電改配備後の訓練搭乗機に紫電を指定されると、全員が気落ちしたという[57]。本田稔は、当時の若年搭乗員で12機編隊着陸が一様にできた操縦性、腕比利用による高低速両用の操縦性を評価し、戦後の三菱テストパイロットとしての外遊資料から大戦末期における双璧は紫電改とP-51であると述べている[69]。紫電改のテストパイロットだった志賀淑雄は紫電改は猪のように何にでも食いついていけるおてんば娘で使える機体だと思ったという[71]。当機での実戦経験はないが教育に関わった坂井三郎は、航続力がない点からみれば九六艦戦時代に逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計(空戦フラップ)が施された優秀な戦闘機と評していた[72]。しかし、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と評して批判的になった[73]。坂井は、三四三空に教官として着任した際に『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』(一一型を紫電改と間違えている)を制作したとして、空戦フラップを「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」など批判するが、「水銀の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀は常温で酸化しない)」などの非科学的な内容を含んでいる[74]。
米技術雑誌『ポピュラーメカニクス』では、米空軍の試験で紫電改のマグネトーを米製に替え、100オクタン燃料を使って空軍で飛行した結果、速力はどの米戦闘機にも劣らず、機銃威力は一番強いと紹介された[75]。 ピエール・クロステルマンの著書「空戦」では、紫電改が高度6,000mでP-51マスタング44年型と同程度のスピードを発揮したことからマスタング44年型のカタログスペックを基準とした最高速度時速680km/h説を採用しており、当時の連合軍の空軍関係者はその程度の速度と認識していた。また、川西航空機設計課長だった菊原静男によれば、1951年(昭和26年)に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評したという[76]。
スミソニアン博物館に展示されている紫電改の説明文に「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」とされながらも「B-29に対する有効な邀撃機としては高高度性能が不十分であった」と書かれているように、局地戦闘機としては高高度性能が優れているとは言えなかった[77]。これは日本機に共通する欠点で、排気タービン過給器(ターボチャージャー)や二段式機械過給機(スーパーチャージャー)を実用化できなかったためである。なお、この紫電改の高高度性能不足の対策として、一時は生産中止されそうになった雷電の生産促進がなされている。主力戦闘機として大生産計画が立てられたものの、実戦配備がB-29による本土爆撃が本格化した1944年(昭和19年)末であったこともあって紫電改の生産数は約400機に留まり、「大東亜決戦機」として3,000機以上生産され、文字通り大戦末期における陸軍の主力戦闘機となった四式戦とは対照的と評価されることがある[78]。近藤芳夫(疾風開発者)は「疾風は一撃離脱のキ44(鐘馗)が原点。紫電改は空中格闘戦に拘っていた」と述べている[55]。
『The Illustrated Directory of Fighters』(Mike Spick著)P.218によると、N1K2-J(紫電改)は高度19,030フィート(5,800 m)において最高速度416マイル(669 km/h)、海面高度において最高速度358マイル(576 km/h)、上昇率は高度20,014フィート(6,100 m)まで6分6秒との性能が記載されている。これらの数値は連合軍による鹵獲機での試験データに基づく数値と注釈で触れられているが、元となった試験情報の出典など詳細は不明である。英国のブランドフォード社の『原色航空機百科』(K.マンソン著)[79]では「太平洋戦線に出現した日本機中、最もすばらしいもののひとつであった」と高く評価されている。
強風から引き継いだ主翼[80]は翼根の取付角が4度[81]と戦闘機としては異例に大きい。飛燕が0度[82]、Fw190が3度[83]で大半の戦闘機がこの範囲におさまっている。一般に水上機は陸上機に比べ翼面荷重を低くされるが、高速を要求された強風は高めに設計され、離水性能を確保するためプロペラ圏内の主翼取付角を欲張ったと思われる。その結果、初飛行した強風はフラップを納めた途端に翼根失速の乱流が水平尾翼を叩いて振動を起こしており[84]、中翼でありながらフィレットを大型化する対策を講じている[85]。低翼の紫電改はさらに大型のフィレットを要し[86]空力と重量で不利益となった。なお、同じ川西航空機で最初から陸上戦闘機として設計された J6K1陣風 の主翼取付角は2度[87]である。またA-1スカイレイダーの主翼取付角は本機と同じ4度だが翼根にNACA2417という旧来翼型を使っており、胴体下部を角型断面としてフィレット無しで済ませている。左右フラップ間の内寸は胴体幅と同じであり、フラップの幅、面積がフィレットの存在で減少した強風、紫電(改)とは好対照を成す。
紫電は試験の為に数機が米国に輸送されたが、現存しない。
紫電改は3機が米国に輸送され[89]、スミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館、ペンサコーラ海軍航空基地内 国立海軍航空博物館、ライト・パターソン空軍基地内 国立アメリカ空軍博物館にそれぞれ展示されている。日本国内では、1978年(昭和53年)に愛媛県の久良湾から引き揚げられた機体が南予レクリエーション都市内の紫電改展示館で保存されているほか、鹿児島県阿久根市沖に林喜重少佐の機体が沈んでいる。
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存施設/管理者 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
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二一型 | 4画像
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日本 | 南予レクリエーション都市内 紫電改展示館[90] | 公開 | 静態展示 | 1978年(昭和53年)11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1機の紫電改が発見され、翌1979年7月に引き揚げられた[91][92]。
1945年(昭和20年)7月24日に約200機のアメリカ軍を迎え撃つため三四三空の約20機が発進、豊後水道上空で会敵し戦闘となった[91][93]。その戦闘による未帰還機6機のうちの1機で、戦闘301隊の所属機体とされる[94]。 エピソード
機首部分を除き損傷のない状態で発見されているので[95]、パイロットは戦闘中に機体の不調によって着水を決意し、波の静かな久良湾に洋上着水したものと思われる[96]。目撃者によると、スムーズな着水であったが、機体はすぐに水没してしまったということ。以来、久良湾の海底には戦闘機が沈んでいるという言い伝えが残され、それが後年のダイバー探索による発見に繋がった。 フットバーの位置が一番手前にあることから搭乗者の身長は低く、「空の宮本武蔵」と言われた武藤金義中尉(戦死後昇進)機もしくは米田伸也上飛曹機の可能性があるが決定的証拠はなく[97]、特定には至っていない。武藤夫人は未帰還パイロット6名共通の遺品とすべきと述べている[91]。引き上げ時、操縦席に遺骨はなかった[98]。この紫電改が水没した7月24日、付近の横島で20歳前後の日本軍搭乗員の遺体が回収されたが、関連性は不明である[99]。 引き上げには不発弾を懸念する宿毛海上保安部から懸念が寄せられたが、当時は参議院議員となっていた源田実元大佐・三四三司令が各方面に交渉し、また愛媛県議会も回収予算捻出を決定したことで回収が可能となった[100]。この機体は回収後に、遺族の意思により引き揚げ時の原型を維持する程度に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として愛南町にある南レク馬瀬山公園の紫電改展示館に保存・展示されている[91]。 |
二一型 | 日本 | 鹿児島県阿久根市折口浜沖 | 1945年4月21日、折口浜の海岸に不時着水した機体で、林少佐は着水時の衝撃で頭蓋骨を骨折し死亡した[101]。2019年(令和元年)に100m沖合の水深2m[101]から3m[102]に機体が沈んでいるのが撮影された。地元の市民グループが2024年(令和6年)4月と7月に機体の状態を調査しており[103]、2025年(令和7年)の終戦の日までの引き揚げを計画している[102]。 | |||
二一型 | アメリカ | ペンサコーラ海軍航空基地内 国立海軍航空博物館[104] | 公開 | 静態展示 | 川西5128号機[105]。本機は源田実大佐が率いた三四三空に所属の紫電改のうちの1機。胴体に無名のパイロットによる俳句が刻まれている。 | |
二一甲型 | アメリカ | ライト・パターソン空軍基地内 国立アメリカ空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | 川西5312号機。[107][108]本機のレストアは2009年春に完了した[108]。 | |
二一甲型 | アメリカ | スミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館別館[109] | 公開 | 静態展示 | 川西5341号機。[110] | |
福岡県築城郡築上町の小原地区には、二一型のプロペラが保存されている[111]。1945年8月8日の八幡大空襲の際に出撃した24機のうちの1機で、午前10時15分に4機のP-51との戦闘で撃墜されて同地に墜落した[112]、横堀嘉衛門上等飛行兵曹(戦死後昇進)の機体であることが判明している[111]。プロペラは墜落直後に地元集落の男性が持ち帰ったとされ、P-51による弾痕が残る。2019年に空中戦のガンカメラ映像が見つかった[112]ほか、2022年(令和4年)には「小原墜落紫電改プロペラ」の名前で築上町の文化財に指定された[113]。小原地区では、毎年3月に横堀兵曹の慰霊祭を行っている[111][112]。
制式名称 | 紫電一一型 | 紫電二一型 |
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機体略号 | N1K1-J | N1K2-J |
全幅 | 11.99m | |
全長 | 8.885m | 9.376m |
全高 | 4.058m | 3.96m |
翼面積 | 23.5m² | |
翼面荷重 | 165.96 kg/m² | 161.70 kg/m² |
自重 | 2,897kg | 2,657kg |
正規全備重量 | 3,900kg | 3,800kg |
発動機 | 誉二一型(離昇1,990馬力) | |
最高速度 | 583km/h(高度5,900m) | 610km/h(高度6,000m)[114] |
実用上昇限度 | 12,500m | 11,250m[115] |
航続距離 | 1,432km(正規)/2,545km(過荷) | 1,715km(正規)/2,392km(過荷) |
武装 | 翼内20mm機銃2挺 主翼下ポッド20mm機銃2挺(携行弾数各100発) 機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各550発) | 翼内20mm機銃4挺 (携行弾数内側各200発、外側各250発)計900発 |
爆装 | 60kg爆弾4発、250kg爆弾2発 | |
生産機数 | 1,007機 | 415機 |
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