『第46回NHK紅白歌合戦』(だいよんじゅうろっかいエヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、1995年(平成7年)12月31日にNHKホールで行われた、通算46回目のNHK紅白歌合戦。
20:00 - 21:25および21:30 - 23:45にNHKで生放送された。
- この年NHKが行ったロゴマークの変更に伴い、紅白も今回より新ロゴマークを使用している。
- nhkワールドプレミアムはこの年から中継し始めた。その後、第60回(2009年)、第69回(2018年) にnhk新チャンネルで中継する。
- 両組司会は2年連続で上沼恵美子・古舘伊知郎が担当。総合司会は宮本隆治・草野満代が務めた(男女1人ずつによる総合司会の2人体制は史上初)。
- 古舘の白組司会続投は早々に決定したが、前回紅組司会を務め好評だった上沼はこの年初頭の時点で「あぁ、ほんとしんどかった。もう(紅白の)司会はしません」と公言しており、番組側はこの年の『思い出のメロディー』の司会を務めた竹下景子を紅組司会に起用するプランも立てていたという。しかし、この年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被災地・兵庫県三原郡南淡町(現:南あわじ市)出身である上沼に「もう1度元気な司会をしてもらおう」と交渉し、当初は拒否されたが「震災で被害に遭った人々を元気づけてほしい」と懇請したところ最終的に受け入れられた[1]。
- 上沼は前回の紅組司会の際、ベテラン歌手から「あんたみたいなもんが紅組の司会ってなんやの」という態度で迫られる経験をしたものの、今回はベテラン歌手から大事にされたと話している[2]。
- 宮本は1973年のNHK入局時に紅白の司会を務めることを目標としており、それが今回の起用で実現する格好となった[注釈 1]。宮本はこの時、「大晦日が来るのが怖かった」という[3]。当時28歳の草野は総合司会の最年少記録を打ち立てた。
- 前回同様、総合司会は極力登場せず、審査員紹介も含めて大半の進行を上沼・古舘の両組司会が担当した[4]。今回以後、両組司会が審査員紹介を行うケースは第59回(2008年)[注釈 2]までなかった。
- 江守徹(この年の大河ドラマ『八代将軍吉宗』のナレーター・近松門左衛門役)が近松の決めゼリフである「さればでござる」から始まるオープニングのナレーションを担当しており、そのまま江守により両組司会の上沼・古舘の紹介が行われた(通常、両組司会の紹介は総合司会が担当している)。対戦開始前に古舘は前回白組が敗戦したことに触れ、「昨年はですね私が至らなくて白が負けてしまいました。それ以来ずっとこの1年間その重圧に耐えかねるように生きて参りました」と話した後、「もし今日この(白組の)陣容で白が負けるということになりましたら、私土下座も辞さない覚悟です」と言い切った。その発言に対して上沼は「古舘さん、土下座なんて言わんと切腹しぃ」と付け加えた。
- 由紀さおり・安田祥子、前川清、田村直美、南こうせつの4組の歌唱は、阪神・淡路大震災の被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画とされ、審査の対象外とした。
- NHKが阪神・淡路大震災の被災地・兵庫県を中心に行った聴きたい歌のアンケートで1位になった「上を向いて歩こう」を南こうせつが歌った。南は当初、デビュー25周年記念曲の「ひと夏のしずく」を歌唱する予定だったが、変更された[5]。
- 前川の「そして、神戸」の曲中では神戸市のメリケンパークや六甲山からの夜景が生中継で流れた。本紅白の放送前には地元・神戸市の住民より前川に同曲の歌唱をリクエストする声が殺到(3000通の要望があった)したほか、本紅白で前川を大トリにしようとの署名活動も行われた(当時の新聞で前川が白組トリの本命との報道もされていた)。また前川の曲紹介時には上沼・古舘が揃って登場し、古舘が「この選曲は我々関係者の中でも議論を重ねました。しかし地元の方からのリクエストが圧倒的だったということで決断しました」と述べた後、上沼が曲タイトルの読み上げを行った。前川は「普通は舞台に出るときアガるんですよ。ところが、この時は冷静でいられた。何というか、後押しされるパワーを感じましたね」と語っている[6]。
- 紅組トップバッターを務めた酒井法子の曲紹介の際、紅組歌手が手話にて曲紹介をし、酒井は手話を交えて歌唱した。これは歌唱した「碧いうさぎ」が、酒井が主演した耳と口が不自由な主人公のドラマ『星の金貨』(日本テレビ)の主題歌だったことから。
- 岡本真夜はこの年のデビュー以降、テレビやラジオ等のメディア露出やライブを一切しなかったが、本紅白でメディア初出演となった。
- TOKIOのバックダンサーにV6が参加した。
- SMAPは、翌1996年5月にメンバーの森且行が脱退したため、6人では最後の出場となった(また、第1部での登場も今回が最後)。
- 浜田雅功(ダウンタウン)と小室哲哉によるユニット・H Jungle with tの演奏中に、浜田の相方である松本人志がゲイシャ・ガールズの扮装で登場[7]。歌っている浜田にかつらや着物を被せたりした。浜田は初出場決定時の会見で松本の応援ゲスト出演はないと語っていたが、スポーツ紙報道で登場の可能性が取り沙汰された(松本自身はフジテレビ系列『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』内で「何で浜田の応援に行かないといけないのか!?」と述べていた)。なお、ダウンタウンはここ2年間紅白の裏番組『ダウンタウンの裏番組をブッ飛ばせ!!』(日本テレビ系列)の司会を務めていたが、浜田が本紅白に出場したことからそちらの司会を外れる格好となった(同番組は『裏番組をブッ飛ばせ!!'95大晦日スペシャル』と改題・司会交代で放送された)。歌唱後、ダウンタウンの2人は上沼・古舘・小室とトークを行い、浜田の「お前何してんねん!」というツッコミに対し松本は「(裏番組の)『野球拳』行かんとあかんから、呼びに来たんや」と返し、最後には「はい、コマーシャル」とボケた[8]。松本は浜田に自分が紅白に出演することを知らせていなかった[7]。松本は後に出演理由として、紅白に自身と仲のよい放送作家が参加していたことと、「たぶん、今回が出演できる最初で最後の機会だと思った(要約)」ことを挙げている[7]。「自分で歌うたって出ることはまずないでしょうから」とも語っていたが[7]、松本は6年後の第52回(2001年)に歌手としての出場を果たしている(Re:Japanとして)。
- この年「上沼とつんく(後のつんく♂。シャ乱Q)が似ている」として話題になった。本紅白では小林幸子の曲紹介前にツーショットで登場。2人の初共演が実現した。
- 紅組トリに和田アキ子、白組トリおよび大トリに細川たかし(この年デビュー20周年)と同い年同士の歌手がトリに起用された。
- 13対4で白組が優勝(客席審査は1階席→紅組:213、白組:297、2階席→紅組:305、白組:674、3階席→紅組:233、白組:444、ゲスト審査員は紅組:4、白組:7でいずれも白組が優勢)。古舘は優勝旗を掲げ、「1年経つとこんなにも心境が変わるのかというところです」と感想を述べた。一方、上沼は前述のオープニングでの古舘の発言にかけ、紅組歌手について「紅組の皆さん、申し訳ありません」と謝罪した後にひざまずいた。そして、この回からNHKアナウンサー以外が紅組司会を務めた回での紅組優勝が第61回(2010年)までなかったが、第62回(2011年)で切れることになり、第66回(2015年)、第67回(2016年)、第71回(2020年)、第72回(2021年)にさらに4回起きることになる。
- エンディングでは、毎年「蛍の光」演奏後にステージ上手・下手のキャノン砲から紙テープを発射する特効で終わるのが恒例だが、この年のみ紙吹雪と共に風船が大量に降って華やかなエンディングとなった。
- ビデオリサーチ調べ、関東地区における瞬間最高視聴率は米米CLUB出演時に記録された60.3%である[9]。
- 出場歌手のバックコーラス担当として現役大学生によって結成された合唱団、「東京シティ合唱団」と「Revolution」が出演した[10]。
- 審査員を務めた古田敦也の後ろの席に、この年入籍した中井美穂が座っており、古舘とトークをする場面があった。
- 翌年の第47回の司会陣に関し、古舘・宮本・草野は続投した一方、上沼は古舘との確執を理由に続投要請を拒否し、紅組司会は松たか子(同年の大河ドラマ『秀吉』の出演者)に交代となった[11]。上沼の連続司会は今回までとなり、以後も紅組司会を担当していないが、第70回(2019年)でゲスト審査員を務めた。
- 上沼は本紅白で共演した小室哲哉の態度に不満を持ち、後の小室逮捕時に自身司会の読売テレビ『週刊えみぃSHOW』内で批判を行った[12]。ただし、上沼は小室の復帰後の関西テレビ『快傑えみちゃんねる』で、ゲストの木根尚登が小室とのエピソードを語った際、「この人(小室)はプロデューサーやわあ」と認める発言もしている[13]。
- 2007年下期の連続テレビ小説『ちりとてちん』の2007年12月28日放送分にて、ヒロイン・和田喜代美(貫地谷しほり)の実家で家族揃って本紅白を視聴するシーンがある。元々同作は、五木ひろしの出身地である福井県を舞台にしたもので、五木自身も出演しており、その出演部分が一部映し出された。また、同作のナレーションを上沼が担当していたこともあり、上沼の姿も併せて映し出された。
注釈
2020年に死去した為、最初で最後の「紅白歌合戦」出場。
2年後の1997年に、MAXとして紅白初出場を果たしている。
19年後の2014年に、正規の出場歌手として紅白初出場を果たし、そのメンバー第66回でも井ノ原快彦も司会を務めている。
翌1996年に、歌手として紅白初出場を果たしている。
出典
『毎日新聞』1996年12月27日付東京夕刊、7頁。
一方で上沼は第47回を台湾のホテルで視聴したことを明かした上で「古舘さんは3年連続。あの時めっちゃ腹立ったんです。あの人だけ3年だったでしょう。私は2年。2人でやってきて、1人古舘さんだけ残って3年目やらはった」「途中でシャワー浴びに行って泣きました、悔しくて」と思っていたことを語っている。
『読売新聞』1995年12月4日付東京夕刊、9頁。
- NHK『テレビ50年 あの日あの時、そして未来へ』(NHKサービスセンター 2003年2月)