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日本の博物学者・官僚 ウィキペディアから
田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期の博物学者、動物学者、植物学者、農学者、園芸学者、物産学者。錦鶏間祗候、男爵。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
「日本の博物館の父」として知られる[1]。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった[2]。市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。
1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏[3]の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。隆三は1834年に長崎に留学して蘭学を修めており、医学のみならず本草学、舎密学(化学)などにも関心が深く、芳男もその影響を強く受けることになった。また、隆三は芳男に漢学を身に着けさせ、特に「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」と教え諭した[4]。兄が病死したため、家督と医業を継ぐことになった。
1856年(安政3年)秋、名古屋に出て尾張藩御典医で博物学者としても著名であった伊藤圭介の門下に入り、千村五郎・柳河春三らと共に書生として種痘などの西洋医学を身に着けたほか、博物学や本草学を学んだ。しかし、1858年には故郷の飯田に帰った。ただ、自宅で本草学や博物学の研究を行ったり、時には名古屋に出て伊藤圭介のもとで学問をしていたという[5]。
1862年(文久2年)、伊藤圭介が幕府の蕃書調所(間もなく洋書調所に改組)に招聘を受けることなり、芳男はその助手として出仕し、物産学・本草学の研究開発に当たることとなった[6]。芳男のその後の述懐によると、この際採用された人物の多くは、師である伊藤圭介を含めて、ダイコン、ニンジン、ゴボウなどといった日用産物の殖産には関心がなく、芳男が物産所でもっぱらこの研究に従事することとなったという[7]。この間、圭介の伴をしてシーボルトを訪ねている[8]。開成所付置の物産所で殖産興業の発展を探った。その後師は高齢により職を辞して故郷に帰り、その後任となった。1865年(慶応元年)、幕府はパリ万国博覧会に正式参加表明し、万博に昆虫標本の出品を決定することとなった。翌1866年(慶応2年)、芳男は幕府からパリ万国博覧会への出張と昆虫標本採集と製作を命じられ、関東一円に赴き博物学者の子阿部為任と採集を行った。同年11月、パリに向けて出港し、シンガポールやスエズ運河を経由して到着している。1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に出張。自ら採集した昆虫標本が現地の研究者に高く評価された[9]。
1867年(慶応3年)帰国した。翌年には戊辰戦争が起こり、5月には上野戦争があったが、芳男はこれには関わらず、研究や整理に没頭した。
東京が明治新政府の所有となると、洋書調所は開成所に解消され、芳男は御用掛として任命されて大阪舎密局の建設に従事した[10]。大阪の大阪城跡地に理化学専門の高等教育研究機関「舎密局」開設準備にとりかかるが、舎密(けみ)局と呼ばれたこの施設を、科学だけでなく物理学等その他の自然科学全般を研究対象にする組織機関として、博物館、という名称を提案する。さらにこのとき植物園や温室などを附設することを提言、この施設を「遊歩所」、「園囿」と名づけている。この施設の構想案では7つのゾーンに分割し、幾何学的洋風庭園など、今日のリサーチパーク的な植物施設を構想している[11]。
1869年(明治2年)5月、舎密局は開設されるが、予算の関係上他の施設は実現できなかった[12]。
1870年(明治3年)3月、大学南校物産局に転任となり、東京に戻った[13]。ここでは後に博物館の創設に共に従事する町田久成と同僚となっている。
1870年(明治3年)[年号要検証]、物産局を創設。のち勧業寮、農商務省、農林省・商工省、通産省を経て経済産業省に発展する。また、物産会すなわち殖産興業を主な目的とした博覧会の開催に度々かかわる。
1872年(明治5年)、九段坂上招魂社境内で小規模博覧会(物産展)を実施。この年文部省が発足、湯島聖堂(旧幕府昌平坂学問所)が文部省所轄となり、文部省博物館として改組、物産展の展示物収用されると同時に同博物館に移籍した。同年東京府に、園樹の植え替え付につき建議を提出(造園修景大辞典5巻による)。
1872年4月(明治5年3月)、翌年開催のウィーン万国博覧会への公式参加に伴い、全国各地から取り寄せた出品予定品を公開するため、湯島聖堂大成殿で湯島聖堂博覧会を実施する。
1873年、佐野常民らともにオーストリア・ウィーンで開催されたウィーン万国博覧会に派遣される。
1875年(明治8年)、博物館、動物園などをもつ公園の設立に尽力し、上野の博物館・動物園の建設のために町田久成らとともに力を注いだ。町田が初代博物館長を務め、後に田中が職に就く。こうして上野公園設計に携わり、博物館と動物園を設置した。
同年刊行された田中芳男訳纂『動物学初篇哺乳類』は簡略な図解であるが、分類階級の訳語として、classに「綱」、orderに「目」、familyに「科」、genusに「属」、speciesに「種」の訳を用い(磯野1986)、これが今日に及んだ[2]。
農商務省博物局長を務めた後、省を退職し、元老院議官、貴族院議員などの任に就く。
1878年(明治11年)駒場農学校の設立に参画する。1881年(明治14年)大日本農会結成に参画し、1882年に大日本水産会と大日本山林会の創設に尽して日本での農学と農林水産業の発展に貢献。
1890年(明治23年)9月29日 貴族院勅選議員に任じられる[14]。10月20日 錦鶏間祗候となる[15]。
1893年(明治26年)、日本園芸会副会長として、小平義近らと日比谷公園設計案を提出したが採用されず。
1915年(大正4年)12月1日、男爵を叙爵[16]。生涯、農林水産業や博物学の発展振興につとめた。 1916年(大正5年)6月22日、東京市本郷区本郷金助町(現在の東京都文京区本郷三丁目)で永眠。墓所は谷中霊園にある。
1999年(平成11年)9月に、飯田市美術博物館で開催された「田中芳男展」に契機に、平成12年4月に「田中芳男を知る会」が設立され、年6回の学習会や出版活動、市公民館で関連資料の展示などが行われるようになった[17][18]。
2007年(平成19年)に、飯田市の有志により「田中芳男の胸像等制作を願う会」が設立され、飯田市美術博物館および国立科学博物館に設置する田中芳男の胸像制作のための募金活動が始まった[19]。2008年(平成20年)に、田中芳男の生誕百七十周年と飯田市美術博物館の開館二十周年を記念して、両館への寄贈を実現させた[20]。
2016年(平成28年)8月30日〜9月25日、国立科学博物館で没後100年記念企画展開催。前日には、胸像の除幕式が行われた[21]。
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