玉城 朝薫(たまぐすく ちょうくん、康熙23年8月2日(1684年9月11日) - 雍正12年1月26日(1734年3月1日))は琉球王国の官僚、劇作家、演出家。組踊を創始した。
向氏辺土名殿内十世で唐名は向受祐(しょうじゅゆう)、童名を思五郎といい、尚真王の三男:尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。
中国からの冊封使をもてなすために踊奉行に1718年任命された。奉行職就任後は翌年の重陽の宴にあたり初めて組踊を創作し、上演した。また歌三線にもすぐれ、湛水流を向日長・新里親方朝住に学び、それを子の向廷瑛・奥平親雲上朝喜に伝えた。
なお朝薫が創作した組踊は朝薫の五番とよばれ、「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」「銘苅子(めかるしぃ)」「孝行之巻(こうこうのまき)」「女物狂(おんなものぐるい)」「二童敵討(にどうてきうち)」がそれである。
墓所は浦添市前田にある「玉城朝薫の墓」。
父:向明禄・玉城里之子朝致の長男として生まれる(母は真鍋)。父が25歳という若さで亡くなったため、祖父:向国柱・玉城親方朝恩の跡を継ぎ9歳にして玉城間切の総地頭となった。室に馬氏浦添親方良意の娘:真加戸をむかえているが、四男三女をもうけたあと離婚。のち継室として大里間切の照屋筑登之親雲上の娘:武樽をむかえ、計五男五女をもうけた。
- 父:向明禄・玉城里之子朝致
- 母:章氏真鍋 (朝薫を産んでのち家を出て、阿天麟・与儀親雲上守包に嫁ぐ)
- 室:馬氏真加戸
- 長男:向廷瑚・玉城親雲上朝嘉
- 長女:思乙 (翁氏安谷屋親方盛孟に嫁ぐ)
- 次男:朝雄 (向氏砂辺里之子親雲上の嗣子となる)
- 三男:向廷瑛・奥平親雲上朝喜
- 四男:向廷璋・玉城里之子朝忠
- 次女:真鍋 (向氏与世川里之子親雲上朝英に嫁ぐ)
- 三女:思乙 (向文源・与世山親方朝昌に嫁ぐ)
- 継室:無系武樽
- 四女:思武太 (毛続熙・豊見嶺親方盛幸に嫁ぐ)
- 五女:松金 (向氏越来按司朝頴に嫁ぐ)
- 五男:向廷瓚・玉城朝常 (夭死につき位階称号無し)
- 1684年(康熙23)8月2日 生まれる。
- 1688年(康熙27)2月22日 父:向明禄・玉城里之子朝致が亡くなる。
- 1692年(康熙31)1月19日 祖父:向国柱・玉城親方朝恩が亡くなる。
- 1月27日 祖父の跡を継ぎ、玉城間切総地頭となる(→玉城里主朝薫)。
- 1696年(康熙35)8月20日 御書院小赤頭となる。
- 1698年(康熙37)8月8日 御書院若里之子となる。
- 1703年(康熙42)8月16日 カタカシラを結う。
- 1704年(康熙43)7月8日 尚氏美里王子朝禎とともに、小姓として薩摩へ上国する。
- 1705年(康熙44)5月13日 尚氏越来王子朝奇とともに、小姓として薩摩へ上国する。
- 1706年(康熙45)1月28日 薩摩藩主 島津吉貴の上意により、軒端の梅を舞う。
- 4月8日 帰国。
- 11月17日 御書院当足役となり、黄冠に陞る(→玉城親雲上朝薫)。
- 1710年(康熙49)7月2日 尚氏美里王子朝禎とともに、与力として上国する。
- 月日不詳 島津吉貴が江戸へ赴くにあたり、毛光国・江田親雲上盛常、毛氏新城親雲上安房とともにお供することを申しつけられ、通訳の任にあてられた。またこのとき何処でも日本語を話してよいと許しを受けた。
- 1711年(康熙50)3月22日 帰国。
- 1712年(康熙51)7月17日 尚益王の薨去を知らせる飛脚使として上国する。
- 1713年(康熙52)3月5日 帰国。
- 1714年(康熙53)5月26日 尚氏与那城王子朝直、尚氏金武王子朝祐とともに、座楽主取兼通訳として上国する。
- 1715年(康熙54)4月1日 帰国。
- 1716年(康熙55)12月17日 那覇港の浚渫脇奉行となる。
- 1718年(康熙57)閏8月26日 冊封使の来琉にあたり踊奉行となる。
- 1719年(康熙58)9月9日 重陽の宴にて組踊「二童敵討」と「執心鐘入」を上演。
- 1720年(康熙59)5月15日 御物奉行吟味役となる。
- 1722年(康熙61)2月24日 申口方吟味日帳主取となる。
- 1723年(雍正1)2月23日 日帳主取となる。
- 6月30日 雍正帝の即位と進貢船の覆破を伝える使者として上国する。
- 9月24日 帰国。
- 1724年(雍正2)6月15日 御物奉行吟味役となる。
- 1725年(雍正3)2月2日 御物奉行となる。
- 1728年(雍正6)2月1日 紫冠に陞る(→玉城親方朝薫)。
- 1729年(雍正7)6月27日 年頭慶賀使として上国する。
- 1730年(雍正8)11月12日 帰国。
- 1734年(雍正12)1月26日 死去(享年51)。