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無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう, Musō Jikiden Eishin-ryū)とは、江戸時代に長谷川英信が開いた武術の流派である。土佐および信州で継承された。長谷川英信流ともいわれる。
土佐長谷川流、長谷川英信流、無双直伝流、無雙神傳流等さまざまな流派名が名乗られていた。しかし近年[いつ?]、信州で見つかった英信の弟子であった荒井清哲が1668年に発行した伝書に無双直伝英信流の名が見られることから、すでに古くからこの流名であったことが確認されている。江戸時代、江戸で道場を開いていた荒井清哲に土佐藩士・林六太夫守政が学んだことで、土佐藩内へ伝承され、のち藩主より庇護され藩校で居合が教授されると同時に、他国への流出を防ぐために「御留流(おとめりゅう)」と呼ばれ藩外の者へ教える事を禁じられた。そのため藩校で秘匿して教授されることになり、城下に道場を建設することが出来なかった。かつては全国に幾つかの分派があったと思われるが、結果として他国ではこれらの伝承が途絶え、現在では土佐藩校に伝わったもののみ残り、そこから大正時代以降、全国へ広まることになった為、別名土佐居合と呼ばれる。この藩校で教授された居合は教授者によって若干の相違があり、大江正路はこれらの差違を分類して谷村派、下村派と呼んだ。現在では谷村派は無双直伝英信流、下村派は無双神伝英信流と呼ばれている。
居合のみの流派と思われがちだがこれは現在の居合の系統が広まったことによるものである。江戸時代、初代長谷川英信から2代荒井清哲の頃には和術(捕手術、小具足、組討など)を表芸とし、剣術、小太刀術、棒術、さらには槍術や薙刀術も伝える総合武術として、数多くの弟子に教伝されていた。その後、第3代林六太夫守政によって土佐に伝えられた系統からは居合が中心となっていった。現在の居合の正座の技は林が別に学んだ大森流から取り入れられたもので、これに関しては、かつては正しく「大森流」と称せられていたが、現在は敢えてこの名称を使っていない。さらに長谷川英信は修行時代にそれらを使った合戦術も学び、これに付随し馬術や弓術の存在も指摘されているがこれは一説の域を出ず定かではない。戦前まで、2代荒井清哲によって信州に伝えられた系統では、無双直伝(英信)流和術を中心に棒術、居合、捕縄の技法が色濃く伝わっていたと思われる[1]。
無双直伝英信流正統会の定めた宗家(谷村派)
、平井一蓮阿字斎(大日本居合道連盟)、清水俊充(日本居合道連盟)などがいる。
分裂等に寄り自称宗家、何代目が乱立しているが、前宗家が指名し伝承太刀、巻物を相伝している者が正統宗家である。
信州と土佐に伝わり、土佐系が残った、現代にも伝承される居合の系統である[1]。
土佐伝によると、居合の祖とされる林崎甚助(重信)を初代としているがこれはあくまで居合の祖という意味で、第7代の長谷川英信を「流祖」と呼ぶ。流の開祖は長谷川英信である。他方で信州の文書には土佐と異なる伝承が書かれている[1]。
長谷川英信は居合以外にも槍術や柔術など各種の武術に優れており、幾つかの流派の流祖とされる。英信は尾張徳川家に千石で仕えていたといわれる。英信は、太刀居合であった技術を打刀を遣うに向いた技法に改めたと伝えられる。太刀と打刀は、装備法特に刃の向きが下・上と異なるので、抜き付け技法も異なる。ただしこの説は、
等から、近代になってからの伝承と考えられている。
また、南山大学教授の榎本鐘司は信州の無双直伝流の資料を調査し、信州の『居合根源之巻』に居合の伝系が記載されていない事から、居合の伝系(林崎甚助~長谷川英信にいたる系図)は土佐において『和根源之巻』(無双直伝流の柔術の伝書)を参考に作成されたという説をとなえている。信州の無双直伝流師範家につたわった文献によると、長谷川英信の弟子である和術の達人荒井(小管)清哲が、常陸国田宮某より林崎甚助系の居合を学び、晩年には居合を教授するようになった、とあり、信州では無双直伝流の体系に林崎系の居合を付け加えた荒井清哲である記されている事実を発表している。このため、土佐に伝わった系統が居合中心になっていったのではないかと考えられている[1]。
北信を中心に、半兵半農の身分の足軽の間に広く伝わった。文献や状況から、明治から昭和戦前あたりまでで継承者は絶え失伝したと思われる。比較的多くの文献が残っており、南山大学の榎本鐘司教授によって研究論文が発表されている。なお、現在いくつかの団体で残った資料から復元活動がおこなわれている。埼玉県で師範家の子孫により復元がおこなわれており、日本古武道協会に長谷川流和術として参加している[2]。また、古武道研究家の平上信行、千葉県の居合団体、英明会なども復元活動をおこなっている[1]。
林崎系居合 第8代の荒井(小菅)清哲の弟子である林六太夫守政が土佐藩士であったことにより、土佐に伝わった。林六太夫は、荒井清哲より林崎系居合第9代を継ぐと共に、以前より学んでいた正座での居合が中心の大森流居合を無双直伝英信流居合術の体系に併伝した。こうして土佐では和術中心に伝承された信州と違い、居合中心に伝承されることとなり、大森流以外にも太刀打之位、詰合之位や奥居合(抜刀心持ノ事)などを含む、信州に伝わっていた九ノ腰が土佐に伝わって体系化されたものだと思われる。
明和元年(1764年)、第10代・林安太夫政詡が奥儀を体系的にまとめ『居合兵法極意秘訣』を著す。
第12代より、二派に分かれ「林益之丞政誠」の系統を谷村派、「松吉貞助久成」の系統を下村派と後に呼ばれた。ただし実際には、明治以前はこの二派以外に多くの師範や免許者はいたため、谷村派、下村派の区分は明治前後に出来た区分と思われる。下村派は伝統的に無双神伝英信流という流儀名を名乗っている。以下、代数は林崎甚助を始祖として数える。
文政13年1月22日(1830年2月15日)、林政誠の嫡男・池田政承(林八郎次)が「長谷川流居合を厚く相心掛け」ている事を以て、土佐藩より3人扶持を下し置かれ、格式御馬廻末子(上士待遇)にて召し抱えられたが、翌天保2年7月18日(1831年8月25日)、池田政承の病死により断絶[3]。
天保15年1月9日(1844年2月26日)、土佐藩主山内豊熈の時代、谷村自雄(亀之丞)が居合心掛よろしきを以て、3人扶持を下し置かれ格式 御馬廻末子として召し出され一家を創立[3]。
文久2年3月20日(1862年4月18日)、吉田東洋の藩政改革により芸家制廃止となる。このとき廃止された居合術家は、山川久蔵幸雅(馬廻末子3人扶持切府5石)、谷村亀之丞自雄(小姓組3人扶持切府10石)、下村茂市(小姓組3人扶持切府10石)である[4]。
文久2年4月8日(1862年5月6日)、吉田東洋が暗殺される[4]。
文久2年6月4日(1862年6月30日)、芸家制復活により、亀之丞の嫡男・谷村彜吉自脩(つねきち よりなか)が、「居合術導役」を仰せ付けられ、5人扶持を下し置かれたが、同年9月10日(8月17日)自脩は病死[3]。
容堂は、谷村自雄(亀之丞)に就いて熱心に居合を修得した。板垣退助が、かつて語ったものによると「土佐の居合は槍術や剣術に附随した居合ではなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などと称する抜刀の型があった。長谷川流の奥居合というものが十二本あったが、容堂公は、それを能く好んで抜き、七日七夜にわたってこの居合の稽古をした。御相手をした臣下の者の多くはみな疲労で倒れ、この間を通して連続で御相手を全う出来た者は、二人、三人しかなかった[5]」と。特に板垣退助は、大叔父・谷村亀之丞自雄(第15代宗家)より無双直伝英信流居合を習い、若くして後継者の一人と目されて林弥太夫政敬(第14代宗家)の孫娘を、最初の妻に迎えるがのち離縁[3]。(離縁された妻は、林家に戻り、小笠原茂常(大四郎)の五男・茂平と婚し、茂平が入婿となり林姓を継ぐ。戊辰戦争の時の軍監・林茂平(亀吉)がその人である[3]。
第16代・五藤孫兵衛正亮[注 3]は、高知城下入新町に居住した土佐藩士(馬廻格・上士)で、第15代・谷村亀之丞自雄のもとで居合術を学び、その奥儀を極めたが、明治維新以後、廃刀令の煽りを受け剣道も居合も衰退し、また特に長谷川英信流居合は江戸時代「御留流(おとめりゅう)」として藩外不出で、町中に道場も無く、藩校の一部で伝えられたのみで、これを習った者が元々限られていたのに加えて、廃藩置県後は藩の庇護も解かれ、存続の危機にあった[6]。
長谷川英信流の宗家・谷村家の親族であった板垣退助伯爵は、1893年(明治26年)、帰高の際に、高知市材木町にあった「武学館」に招かれ、長谷川英信流居合術と松嶋流棒術の由来と功績に関する弁舌を行った[7]。さらに板垣は、これらの武術を後世に継承させるためには、適切な師範と道場が必要となることを訴えて適任者を議した[6]。詮議の結果、居合は無双直伝英信流第15代・谷村亀之丞自雄のもとで学んだ、五藤孫兵衛正亮、棒術は新市町の横田七次が最も堪能であるとの意見を得、板垣は「五藤氏のことなら元より良く存じをり候…」と、五藤、横田の両氏に子弟育成の件を直接相談に赴いた[8][7]。両氏より快諾を得た板垣は、さらに高知の素封家・竹村与右衛門の援助を受けその敷地の一角に道場を建設させ、これらの振興につとめた[7][9]。五藤正亮は名実ともに居合術の普及に努め子弟を育成。その後、正亮の居合の修養深きを知った高知県立第一中学校(のち「高知県立高知城東中学校」と改称, 現校名・高知県立高知追手前高等学校)校長・渋谷寬は「居合術が身心鍛錬に特効がある」として正亮を学校に招聘し生徒たちに指導させた[6]。1898年(明治31年)歿。享年64歳[7]。
五藤正亮の歿後は、谷村亀之丞自雄の兄の孫にあたる谷村自庸(樵夫)が、これを継いだが、ほどなく1905年(明治38年)、谷村自庸も歿したため、この後を大江正路が継いだ。宗家の継承としては「谷村亀之丞自雄-谷村彜吉自脩-五藤正亮-谷村自庸-大江正路」と成されたが、谷村彜吉自脩はわずか3ヶ月、谷村自庸は7年で歿したため、現在は世代数に数えられていない[注 4]。
この項では主に第17代・大江正路の系統(谷村派)に関しているため、特記ない限り谷村派に関して記載する。
(※下村派に関しては「無双神伝英信流」を参照せられたし)
近代に至り、大江正路は、下村派14代、下村茂市より下村派の居合を学んだ後、第16代・五藤正亮に師事し第17代を継承した。しかし、居合術以外の多くの部分(剣術、和術、棒術)を大江が伝えなかったことから、谷村派では無双直伝英信流の多くの部分が失伝したといわれる。ただし、居合術以外の部分は同時代の他師範も学んでいなかったと思われる。一方の下村派においても伝書の存在こそあれど、やはり居合術以外の技は幕末の頃にはすでに失伝している。大江正路は英信流の技を整理して、大森流を「正座之部」、長谷川英信流を「立膝之部」として統合し、現在行われている内容に制定した。大江正路の門人に、森繁樹、穂岐山波雄、政岡壹實、鈴江吉重、中西岩樹、山内豊健、甲田盛夫、山本晴介、福井春政らがいる。
第20代・河野百錬は、昭和29年(1954年)に全日本居合道連盟を結成した。次いで昭和31年(1956年)、全日本剣道連盟に居合道部が発足したため、大江の高弟であった政岡壹實、山本晴介とその弟子たちは全日本居合道連盟を抜け、こちらに加盟した。河野百錬の死後、全日本居合道連盟で第21代宗家の継承争いが起き、幾多の分派を生んだ。平成の現在は、全日本居合道連盟、全日本剣道連盟居合道部のほか、全日本居合道連盟から派生した大日本居合道連盟と日本居合道連盟、平成22年(2010年)に正統正流無雙直傳英信流居合道国際連盟が独立、発足した。現代武道の居合道と並行して広く普及しているが、それぞれに交流がほとんどなく、時を経るにつれ業の解釈に少なからず相異を生み、更に交流を妨げている傾向がある。また、組織に属さず独自に活動する人物も多い。現代武道では組織に属さない居合道/英信流修行者を異質と見て、その技術を低く評価する傾向にある。それを「大企業病」と同じように大きな組織の英信流の技を懐疑的に見る修行者も多い。
現在は宗家が複数存在し、全日本居合道連盟・無双直伝英信流正統会が定めた宗家は下に記す通りで有る。全日本居合道連盟は、英信流のみならず無外流、神伝流、田宮流、神道無念流などの流派も加盟しており、英信流の専門団体ではない。慣例的に無双直伝英信流正統会(英信流専門団体)の宗家が全日本居合道連盟の会長職に付く事が多い。 伝承巻物、相伝刀を伝承している者が正統宗家であると考えられている[注 5]。
現在英信流として行なわれている形を以下に示す。
順刀 一 順刀 二 追撃刀 斜刀 四方刀 一 四方刀 二 斬突刀 前敵逆刀 多敵刀 後敵逆刀 後敵抜打
前 右 左 後 八重垣 受流 介錯 附込 月影 追風 抜打
横雲 虎一足 稲妻 浮雲 颪 岩波 鱗返 浪返 滝落 真向
霞 脛囲 戸詰 戸脇 四方切 棚下 両詰 虎走
行連 連達 惣捲 惣留 信夫 行違 袖摺返 門入 壁添 受流 暇乞 三本
速浪 雷電 迅雷 四方切<邪気祓い>
横雲 虎一足 稲妻 浮雲 颪 鱗返 岩波 浪返 瀧落 受流
上記は大江自身によって組み立てられた早抜きであるが、系統によって順序や行う形が違う場合が多い。最も多く見られるのは福井虎雄創案による片手真向が最後となる行い方で、他にも単純に立膝之部を連続で行うものなど、様々である。道場によっては早抜きを継承していない場合もある。早抜きは古伝ではないため下村派には存在しないが、大江系の居合を学び早抜きを取り入れている下村派系統もある。
組太刀
出合 拳取 絶妙剣 独妙剣 鍔留 請流 真方
八相 拳取 岩浪 八重垣 鱗返 位弛 燕返 眼関落 水月刀 霞剣 討込
古伝
現在では、一部の系統を除いて詰合、大小(立)詰の形は継承されていない事が多い。大剣取、小太刀の技は幕末に失伝したと言われていたが、少なくとも15代、16代までは教伝されており、棒術も稽古されていたようである。17代大江正路よりこれらの奥伝を受け継ぐことができなかったと考えられるが、継承しながらも伝えなかったともいわれる。これらは剣術の組太刀であったと思われ、さらに古伝においては以下の業目録も存在していた[14]。
大江正路の門下の幾つかの系統(山本晴介、政岡壹實、三谷義里等の師範の系統)では、土佐に残った多くの伝書の研究、大江の兄弟弟子である16代の門弟や下村派の師範などから学び、組太刀の各形を受け継いだ、あるいは復元した系統もある。下村派には、大小(立)詰までは現存している。戦後においては20代河野百錬がかつての大江門弟たちと同様、こうした大小(立)詰や大剣取の研究を行った。また、現行での独演の業にも多数の替え業が存在しており、たった一本の業であってもいくつもの異なる想定で業が行なわれていた。現在、これらは山内派として纏められ習伝されている。
他にも棒術を学ぶにあたり、一人で行う形も存在していた。
本来は無双直伝流和といい、流祖が稀代の達人であったことから無双直伝英信流和と呼ばれることになった。土佐では夏原流とも名乗られるようになった。また信州では和に分類されている大小(立)詰、大剣(取)、寝間ノ大事は居合に含まれている。
他流と同じく、隠し武器や旅行、戦場、使者となる場合等、様々な心得や理が伝えられていた。
他流と同じく、隠し武器や旅行、戦場、使者となる場合等、様々な心得や理が伝えられていた。信州では系統によっては捕縄や三つ道具、鎖鎌、長刀なども伝わっていたようである。
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