友綱部屋 (1891-1946)友綱部屋(ともづなべや)は、かつて大日本相撲協会(現・日本相撲協会)に所属していた相撲部屋。 初代梅ヶ谷藤太郎がいた玉垣部屋の幕内・初代海山太郎が1891年(明治24年)5月場所を最後に現役を引退、年寄・6代友綱を襲名して創設した部屋である。 明治から大正時代にかけては一時代を築いた名横綱・太刀山、
海山太郎 (初代)1891年5月場所を最後に現役を引退、年寄・友綱を襲名して友綱部屋を設立した。海山の活躍はここから始まる。弟子の育成に関しては、後に「四十五日の鉄砲」と呼ばれる突き押しで相手を圧倒して大正時代を代表する名横綱・太刀山峯右エ門や、八幡山定吉・國見山悦吉の両大関、関脇・二代目海山太郎ら多くの幕内力士を輩出し、友綱
海山太郎 (2代)海山 太郎(かいざん たろう、1869年10月14日(明治2年9月10日) - 1931年(昭和6年)6月6日)は、土佐国土佐郡比島(現在の高知県高知市比島)出身で友綱部屋(入門は大坂相撲の猪名川部屋)に所属した大相撲力士。本名は笠井 兎之助(かさい とのすけ、外之助とも)。身長173cm、体重99
1931年の相撲- 鬼ヶ谷才治(最高位:小結、所属:雷部屋、* 1855年【安政2年】) 6月6日 - 2代海山太郎(最高位:関脇、所属:友綱部屋、年寄:二所ノ関、* 1869年【明治2年】) 6月20日 - 明石竜兵太郎(最高位:前頭10枚目、所属:八角部屋→雷部屋→八角部屋、* 1881年【明治14年】) ^
二所ノ関部屋 (1909-2013)板垣退助の推薦によって同郷の初代海山太郎が師匠を務める東京の友綱部屋に入門し、最高位が関脇以下の力士ではただ1人常陸山から2勝するなど、怪力力士として知られた関脇・二代海山が、1907年(明治40年)1月に二枚鑑札で5代二所ノ関を襲名、1909年(明治42年)1月場所限りで現役を引退、以降は年寄専任となる。同時に友綱