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旧制浪速高等学校(きゅうせいなにわこうとうがっこう)は、大阪府に設立された公立(大阪府立)旧制高等学校。略称は「浪高」(なみこう)。
改正高等学校令に基づき、大阪府により関西では唯一の公立7年制高校として1926年(大正15年)3月に設立され、修業年限4年の尋常科、および文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された(のち尋常科は廃止)。 尋常科は定員80人に対し1076人が応募(1937年入試実績)するなど地域の学生に高い人気を誇っていた[2]。
学制改革にともない大阪府立より国立に移管され、大阪高等学校(官立)と共に新制大阪大学に包括、一般教養部の前身校の一つとなった(一般教養部北校 / ただし一部教官や所蔵図書の多くは新制の府立浪速大学(大阪府立大学の前身)に引き継がれた)。
寮は設置されなかった。学生のほとんどが大阪周辺の出身だったのと、寮が学生の悪習を助長すると判断した学校の方針による。
浪高は大阪市郊外の千里丘陵西に位置する大阪府豊能郡豊中村(その後町制を施行、さらに1936年市制施行により豊中市)の府立大阪医大(大阪帝国大学医学部の前身)予科跡地に設置された(待兼山校地)。待兼山校地は第二次世界大戦中軍需工場として一部接収されるなどしたものの、新制大阪大学の豊中キャンパスとして継承され、その校舎は「一般教養部北校」となった(同じく阪大に包括された旧大阪高校の校地は「南校」となったがのち廃止)。
現在も豊中キャンパスに残る浪高時代の建造物としては、旧高等科本館や弓道場などがあるが、特に旧本館(1929年建造)は「イ号館」と呼ばれ、阪大の全学共通教育機構本館・総合学術博物館として現在も使用され、2004年には国の登録有形文化財に登録されている。その他にも同キャンパス内には「浪高庭園」など旧制時代を記念するモニュメントがいくつか建立されている。2010年5月27日には、浪高創立85周年と阪大創立80周年(2011年)記念として、待兼山庭園に「旧制浪高生の像」と、「まちかね童子像」が竣工した。なお、これらの銅像を制作した夢童由里子は、浪高第1回卒業生の野間光辰の息女である[3]。
また浪高に隣接して設置された旧大阪帝国大学附属医院石橋分院の建物は、戦後医療技術短期大学部(現在の医学部保健学科)本館として使用されたのち、大阪大学総合学術博物館「待兼山修学館展示場」に改装され浪高時代の教材標本資料を一般に公開している。
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