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歴史学者、思想史家 (1873-1961) ウィキペディアから
津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家[1]。早稲田大学文学部教授を歴任。記紀を史料批判の観点から研究したことで知られ[注 1]、日本における実証史学の発展に大きく貢献した。1947年帝国学士院会員選出。1949年文化勲章受章。従三位勲一等。
1919年の「古事記及び日本書紀の新研究」、1924年の「神代史の研究」が代表的な研究成果である。記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるか史料批判を通して考察した。
津田は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした。これらの部分は朝廷の官人の政治的目的による造作の所産であり、記紀神話は皇室が国民を支配するという思想を前提に、それを物語として展開していったもので、神武東征もその一部であるとした。また、第23代天皇顕宗天皇、第24代仁賢天皇らの発見物語も典型的な貴種流離譚であって実在しないとしている。発見譚に関わった第22代清寧天皇も、第24代仁賢天皇の皇子の第25代武烈天皇も実在しないと主張した。
津田説は、戦後ながらく通説として扱われて来たが、考古学の進歩などにより批判的に取り上げられる場合も多くなった。
1873年(明治6年)10月3日、岐阜県加茂郡栃井村(現・美濃加茂市下米田町東栃井)に津田藤馬の長男として生まれた。津田家は尾張藩の附家老である竹腰家の家臣で、明治維新の後に竹腰家より命じられて同地へ移住した[3]。
1886年に文明小学校(美濃加茂市立下米田小学校)を卒業。文明小学校では、士族の子として、校長の森達(もり とおる)から漢籍などの指導を受けた。小学校卒業後は名古屋の私塾を転々とした後、1821年に大谷派普通学校(現在の名古屋大谷高等学校)に入学したが、翌年に中退して故郷の東栃井に戻り、東京専門学校(後の早稲田大学)の校外生として講義録で学んだ。
1890年に上京し、邦語政治科に編入。翌1891年、東京専門学校邦語政治科(現在の早稲田大学政治経済学部)を卒業[4]。
東京専門学校卒業後は、個人的に白鳥庫吉の指導を受けた。1897年、千葉尋常中学校の教員となった[5]。校長は白鳥庫吉の文科大学の後輩、菊池謙二郎であった。就職に際し、白鳥が菊池の動静について津田に語っている記録が残り、白鳥による菊池への推挙があった事、採用には白鳥の影響があったことが分かる。津田も菊池校長を高く評価していた[6]。1901年、28歳で『新撰東洋史』を刊行。
1908年、等で中学校教員を退職し、満鉄東京支社嘱託・満鮮地理歴史調査室研究員となった。研究室長は白鳥庫吉であった。満鉄調査部の満州朝鮮歴史地理調査部門には、その他に松井等、稲葉岩吉、池内宏らがいた[7]。津田はこの調査部で「渤海考」「勿吉考」をテーマとした東洋史研究調査を行った[注 2]。1913年には、岩波書店から『神代史の新しい研究』を刊行。同機関は、1914年に東京帝国大学文科大学に移管されるが、移管時まで所属した。
1917年には『文学に現われたる我が国民思想の研究』の第1巻を刊行し、1921年まで刊行を続けた。1918年、早稲田大学講師に就任。東洋史、東洋哲学を教えた[1]。翌1919年、『古事記及び日本書紀の新研究』を発表。1920年、早稲田大学法学部・文学部教授に昇格。
1924年、51歳で『神代史の研究』を発表。前著とともに、神武天皇以前の神代史を研究の対象にし、史料批判を行ったものであった。1927年、『道家の思想と其の開展』を発表。1930年には『日本上代史研究』、1933年には『上代日本の社会及び思想』、1935年には『左伝の思想史的研究』、1937年には、小著『支那思想と日本』、1938年には『儒教の実践道徳』『蕃山・益軒』と旺盛に執筆活動を続けた。1939年、東京帝国大学法学部講師を兼任し、東洋政治思想史の講座を受け持った。
1939年、津田事件と呼ばれる発禁事件が起こった。津田は歴史研究者としての立場から記紀に記載された内容の文献学的考証を行い、記紀神話や『日本書紀』における聖徳太子関連記述について、その実在性を含めて批判的に考察した。津田が指摘したのは、おおよそ次の諸点である[8]。
特に問題とされたのは、津田が執筆した『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』の2冊で、文献的批判を行ったことが神典とされてきた記紀を否定する行為であるととらえられた。蓑田胸喜や三井甲之らは、津田を「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」であって、不敬罪にあたると攻撃した[9][10]。これを受けて政府は、1940年2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発禁処分とした[注 3]。事件の発生と同じ頃、津田は文部省の要求で早稲田大学教授についても辞職させられ、3月に出版元の岩波茂雄と共に東京地方検事局の取り調べを受けた。検察側の起訴理由は以下の通りで、津田の主張を明確に表している。
『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の中に次のような内容が含まれている。
- 神武天皇(初代)から仲哀天皇(14代)までの歴代天皇の存在を否定する記事がある。
- 神武東征及び景行天皇の筑紫巡行・熊襲親征、日本武尊の熊襲征伐・東国経略、神功皇后の三韓征討など、上代における皇室の事蹟を、全て否定している。
- 現人神である天皇の地位は祭祀を行う役割に由来するものとしている。
- 天照大神は神代史作者が観念上、創作したものとしている。
- 天照大神を始めとする皇室系譜上の神々は、朝廷による支配を正当化するための政治的目的で創作された存在としている。
- 皇極天皇以前の神勅、詔勅は、全てのちの人が創作したものとしている。
- 仲哀天皇以前の皇統譜には、意図的に手が加えられているとしている。
- 仁徳天皇の仁政は、中国の思想をもとに創作された物語としている。
- 皇室系譜の神々は、天皇の統治権を確立し、皇室の権威の由来を説明するために、創作された物語上の存在であるとしている。
- 天照大神からニニギノミコトに賜った神勅には、中国の思想を含み、かつ日本書紀編者の手が加わっているとしている。
やがて津田は3月8日に起訴、不拘束のまま予審に回附された[12]。1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免訴となった[注 4]。
戦後、津田は戦前の弾圧の経験があったことから、逆に好意的に学界に迎えられた。津田は歴史を政略の具にするべきでないとして、儒教、仏教、神道、国学などによる歴史観に反対し、また左翼思想にも同様に反対した[14]。一貫して共産主義には否定的であり[15]、戦後の共産主義の流行についても批判的であった。当時東京大学法学部の助手であった丸山眞男によると、「先秦政治思想史」の最終講義の終わりに津田を講師控室に導いた際に大勢の人々が押しかけて来て、その中の1人が「津田先生の立場は唯物史観ではないか」と迫った際には、津田は素早く「唯物史観は学問なんかじゃありません」と一蹴したという[2]。
1946年、雑誌『世界』第4号に発表した論文「建国の事情と万世一系の思想」では、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」と天皇制維持を論じた[16]。津田のこの姿勢は、天皇制廃止論者達からは「津田は戦前の思想から変節した」と批判された[17]が、津田の「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」との考え方は戦前から一貫したものであり、戦後になって変化したわけではない。
1947年、帝国学士院会員に選出された[注 5][18]。1961年12月4日、老衰のため東京都武蔵野市境の自宅で死去[19]。墓所は新座市平林寺にある。
『古事記』や『日本書紀』、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして史料批判を行った。その方法は津田の創始ではなく、明治以降の近代実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程についてひとつの相当程度合理的な説明を行った側面が大きい[注 6]。
ただし、同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた。それを初めて破って、著書の中で近代的な史料批判を全面的に記紀に適用したのが津田だった。
それゆえ津田が従前の歴史学から離れた立場にあったわけではないが、津田の業績を基本的に承認・利用しつつ、その核心部分を肯定する文章を自ら書き下ろすことは避けようとする態度が他の学者にはあった[20]。
津田の個々具体的な主張には、かなり印象論的なものも多く、批判もあった。日本史の坂本太郎や井上光貞は、津田らの研究が「主観的合理主義」に過ぎないという主旨の批判を行っている[注 7]。歴史学界の外部からは、津田が歴史史料以外を信用せず、考古学や民俗学の知見を無視したことに批判がある[注 8]。
ただし、坂本や井上をはじめ戦後の文献史学者の多くは、津田の文献批判の基本的な構図を受け入れており、一般に継体天皇以前の記紀の記述については「単独では証拠力に乏しい」と見ている。
このほかに広く受け入れられている津田の説として、『日本書紀』の25代武烈天皇の暴虐記事がある。不可解な武烈の暴虐記事が捏造だと初めて指摘したのが津田であった。皇統の断絶を起こし、継体天皇を招く事になった理由として、「記紀の編纂者が『尚書』『韓非子』『呂氏春秋』『史記』などに登場し王朝最後の暴君とされる桀や紂を参考にして、暴虐記事を書いた」としたのである。この説も、歴史学者からは広く支持されている[23]。
このように、記紀神話の研究を飛躍的に進めた点は高く評価されており、津田史観は現在の歴史学では定説になっている[24]。
日中印に共同の生活がなく、共同の歴史が無いとして「東洋」という区分に否定的だった[25]。津田は日本の思想形成における中国思想の影響については、否定的もしくは消極的な立場をとり、日本文化の独自性を主張した[15]。中国思想等についての実証研究でも影響を与えたが、儒教は人間性を無視しているとして、中国思想は「特殊な否定的なもの」であるとして、批判的であった[15]。また、近代西洋文化に対しては肯定的な近代主義者でもあった。「明治人に特有な脱亜論的ナショナリズム」を体現していたとも評価される[15][26]。
日本思想史に関しても、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(全4巻)の大著があり、現在は岩波文庫全8巻に納められている。古代から江戸時代末期までが扱われており、未完に終わったが、『維新の思想史』などでその後の展開を知ることができる。
上代ですら日韓に親近感がなかったのは明白として、日韓併合にも否定的だった[27]。
津田の指導を受けた李丙燾(り へいとう、イ・ビョンド、1896年 - 1989年)は、朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会委員を経て1934年で震檀学会理事長に就任し、1945年には京城帝国大学文理科教授となるが、戦後も引き続き、韓国文教部長官、韓国学術院院長を歴任し、韓国の歴史学を主導した[28]。李丙燾は津田の方法論を受け継ぎ、実証的な研究を牽引した。一方このような李丙燾に対して韓国民族史観からは、植民史観として批判をうけ、李丙燾及び津田左右吉の史観(例えば任那日本府に関する見解、『三国史記』初期記録不信論、漢四郡は朝鮮半島に存在したという見解)も批判されている[29]。
2001年(平成13年)3月に、津田の遺徳と業績の顕彰を目的として、遺品、研究資料、著書等を管理、公開する施設「津田左右吉博士記念館」が開館した。
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