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明治期の日本のジャーナリスト ウィキペディアから
池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日(文久4年2月5日)[1]- 1912年(明治45年)2月28日)は、明治期の日本のジャーナリスト。本名は吉太郎[1]、字は任道、諱は重遠、別号に鉄崑崙、無字庵主人、木生など。日本のジャーナリストの先駆けといわれる。
肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ[1]。父池辺吉十郎、母世喜の長男として生まれる[2]。吉十郎は熊本藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、敗戦時に処刑されるという非運に見舞われた[1]。吉太郎が14歳の時であり、それからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚の風格を長じるようになった。慶應義塾に学んだが、中退して佐賀県の役人となる[3]。
大阪朝日新聞、東京朝日新聞の主筆を歴任。朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり。公明正大で高い識見の言論は、政治や思想、文芸など多方面に影響を与えた。陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された。二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ[1]、朝日新聞の権威を高めるとともに、今日文豪と言われる作家の長編小説を新聞連載に尽力した。
父が殉じた西郷を思わせる巨漢で、東京朝日新聞時代の部下だった石川啄木に「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言ふ時」(『一握の砂』)と歌に詠まれた。
三山は温かい人柄で知られ、漱石をはじめ多くの人に慕われた。また、明治政府首脳とたびたび面会し、ロシアとの開戦を唱える主戦論派でもあった。日露戦争開戦後は挙国一致を紙面で訴えて政府に惜しみなく協力した。しかし、ポーツマス条約の講和内容に憤慨し、一転して明治政府を非難する記事を掲載したために、政府によって新聞の長期発刊停止処分を受ける。
このような彼の持論は朝日新聞の編集方針となり、同社の近代化に大きな貢献を果たした。
窪田空穂と面会した際、「この頃の学校出の役人の文章を見ると、悪い風があっていけない。何ていうのかな、まあ、新聞の文章の真似をしたという風がある。ああいう人たちこそ、文章を改良して行くべきだのに、かえって新聞なんて、文章にも成っていない物の真似をするなんて、困ったものだ。文章には文字の働きってものがなくちゃね」と語ったという[5]。
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