歩兵連隊 (ほへいれんたい、歩兵聯隊 、英語 : Infantry regiment )とは、歩兵 を主とする連隊 。
歩兵連隊を表すNATO軍の兵科記号
テルシオの登場と連隊への発展
歩兵連隊 の起源は、イタリア戦争 中にスペイン王国 のゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ 将軍によって創案されたテルシオ (tercio )に遡る。これはマスケット銃 兵とパイク 兵の混成部隊であり、それぞれの弱点を補うように運用することで、ヨーロッパ最強の野戦軍としての評価を獲得した。16世紀 初期の30年間、スペイン軍は数個のコラネラス(columelus )から成る総兵力3,000名以上、歩兵主体の大単位部隊としてテルシオを発展させた。このコラネラスは銃兵やパイク兵などを混成した兵力1,000-1,250名程度の部隊で、武器と戦術運用を体系的に総合した点において近代西欧に出現した最初の合理的戦術単位部隊であり、歩兵大隊 の起源となった。またテルシオを構成するコラネラスの数は最終的に3個となり、近代軍隊として初の3単位制ともなった。
イタリア戦争でテルシオの猛威を痛感したフランス王国 は、まもなく16世紀中葉ごろにテルシオの概念を導入した。ただし名称は「テルシオ」ではなく、当初は「軍団」(legion )[注 1] 、そして後に「連隊」(regiment )と称された。
初期の連隊の実態は連隊所有者 たる大佐によって経営される私的企業体であり、雇用主に必要がなくなる、あるいは大佐が事業から撤退しようとする場合、連隊が解散されることも珍しくなかった。ただし雇い主たる君主の立場からすると、連隊が解散するとこれにかわる新しい連隊の立ち上げが必要になるという問題があり、後には、大佐が事業から撤退する場合には他の大佐にこれを引き継がせるようになっていった。
グスタフ2世アドルフの改革
17世紀 、スウェーデン 王グスタフ2世アドルフ は多くの軍事的改革を行ったが、その一つが小単位部隊編制の合理的・合目的的整備であり、この際にも連隊が基本構成単位とされた。グスタフ2世アドルフの統治下で、平時の行政単位としての地域 連隊(Landsregiment )は3つの野戦連隊(Fältregiment )から構成されるようになり、1620年代後半より戦争が常態化すると野戦連隊の機能充実が図られて、1630年頃には地域連隊は廃止され、野戦連隊を発展させた地方 連隊(Landskapsregiment )が設置されるようになった。連隊においては1,200名の人員を8個中隊に編成するのが定数であり、またこの連隊・中隊を基盤として、実際の戦場においては戦列歩兵 として運用するため、マスケット銃兵やパイク兵などの兵科ごとの戦隊と、これらを編合した旅団が組織されるのが常であった。
三十年戦争 でのスウェーデンの同盟国フランスを始めとする欧州各国は、軍事革命 を背景としてグスタフ2世アドルフの編制・戦術を競って採用し、17世紀半ば以降、すべての国において、一定数の連隊を保有する傾向が顕著となっていった。また私的企業体としての連隊から軍隊の恒久的組織体としての連隊への移行も進み、18世紀初頭には、ほとんど全ての国の軍隊で、後者のほうが前者よりも多くなっていた。私的企業体としての連隊は、それを指揮する大佐の名を冠して呼ばれることが多かったのに対し、グスタフ2世アドルフは連隊旗の色を冠して呼ぶようにした。指揮官は依然として大佐であったが、独立した企業家ではなく、王直々の任命を受けて公共財としての連隊を管理する高級官僚としての性格が強くなっていた。
このような制度は連隊専属管理制度(仏 : Regimentaire Propre Systeme )として、各国で全般的に普及していった。連隊長(大佐)は行政上の管理と作戦時指揮をともに統轄して、政府から一括して支給される給与を各人に支給するとともに、人員の募集や装備の支給、訓練や組織管理などを担った。連隊長は終身であったが、その地位とともに連隊の専属管理権を売却して引退する売官制度も併存した。連隊長の行政上の管理権は中隊長(大尉)によって分担され、直接の募兵官として行動したほか、被服・武装にも責任を負うなど、連隊長に準ずる中隊の専属管理者としての性格を有していた。
連隊の近代化と旅団・師団の登場
フランスにおいて、連隊は長く軍隊の最大常置単位部隊となったほか、単なる野戦部隊に留まらず、常設の地方的編制部隊として、17-18世紀には募兵・軍制・作戦組織としての地方別連隊の創設に繋がっていった。またその下位部隊としての大隊・中隊の編制も安定恒久化した。
大佐個人による連隊の編成権や経理の自主的運営は数世紀に及ぶ慣習・特権であり、このように連隊が軍隊の恒久的単位となった時代にも容易には撤廃されなかった。ただし連隊長・中隊長が所有権を行使することで装備更新が滞るなど、弊害も少なくなかった。兵員数を水増ししてその分の給与を連隊長が副収入とすることもしばしばで、1個中隊が15-20名にまで減ることもあったとされる。このような非実在人員には、脱走兵や病欠者が出た場合に臨時に募兵するための空き枠という意味合いもあり、パスヴォラン(passevolants )と称された。
このためもあって、ルイ14世 統治下のフランスでは国家的統制が強化され、連隊長の責任は募兵と訓練のみとなり、戦場での指揮は王が任命した中佐(lieutenant-colonel )、また装備・物資の補給・調達は軍隊を管理する文官官僚群によって執行されるようになって、1670年 頃には組織的規律ある軍隊として面目を一新した。このように国家的統制が強化されるとともに、大佐より下級の将校 も大佐の私的任用による代理人や補佐役ではなく、直接的に王権によって保証された地位身分となっていき、フランスでは、1660年 頃に陸軍卿 であったルーヴォワ侯 (フランス語版 ) によって法制化された。更に連隊近代化が進むと、1762年 のショワズール陸軍卿 の政令によって、連隊専属管理制度は廃止された。
17世紀後期には連隊長(大佐)の上位の階級として軍司令官(armee commandant )が常設されたが、その次級者たる中将(lieutenant général )や次級者たる少将(sergent major general )は戦役ごとに連隊長(大佐)のうちから選任され、戦役終了時に軍が解体されるとともに本来の連隊長職に復帰することになっていた。しかし17世紀中葉ごろより連隊よりも大規模な単位部隊として旅団が登場したのち、1788年には、フランスにおいて、歩兵・騎兵連隊2個をもってそれぞれ歩兵旅団・騎兵旅団を構成し、更に歩兵旅団・騎兵旅団各1個をもって師団 とする編制が定められた。
各歩兵連隊に下賜された帝国陸軍の軍旗 (連隊旗)
大日本帝国陸軍 には以下のような歩兵連隊があった。なお当時は当用漢字 表の告示以前であり、「歩兵聯隊 (步兵聯隊󠄁 )」と表記された。
歩兵連隊
冠称無しの「歩兵連隊(歩兵聯隊)」は第1から第524連隊 (間に欠番多数を有す)まで置かれた。帝国陸軍における歩兵連隊(歩兵)の軍隊符号 (部隊符号)はi 。隊号(連隊番号)などは符号に冠し321i(歩兵第321連隊)などと表記し、近衛歩兵連隊は近衛のGと合わせ1Gi(近衛歩兵第1連隊 )、歩兵旅団・歩兵団は旅団 ・団 のBと合わせiB とした。
明治 4年(1871年 )に設置された鎮台 が明治6年(1873年 )に6個鎮台になり、隷下に第1から第14までの14個歩兵連隊が置かれ、その後明治19年(1886年 )までに24個の歩兵連隊が置かれた。これら24個歩兵連隊は明治21年(1888年 )5月、鎮台が師団 に改編されると師団隷下となった。各歩兵連隊には衛戍地 が定められており、基本的に永久にその土地に駐屯するものとされた(改編・移動・廃止・復古はままあった)。鎮台が師団に改編される時点の陸軍常備団隊配備表(明治21年5月12日勅令 第31号)では下表のように衛戍地が定められていた。
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歩兵第1連隊〜14連隊
歩兵連隊 軍旗授与 衛戍地 鎮台
歩兵第1連隊 明治7年12月19日 東京 東京鎮台
歩兵第2連隊 明治7年12月19日 佐倉 東京鎮台
歩兵第3連隊 明治7年12月19日 東京 東京鎮台
歩兵第4連隊 明治8年9月9日 仙台 仙台鎮台
歩兵第5連隊 明治11年12月29日 青森 仙台鎮台
歩兵第6連隊 明治7年12月18日 名古屋 名古屋鎮台
歩兵第7連隊 明治8年9月9日 金沢 名古屋鎮台
歩兵第8連隊 明治7年12月18日 大阪 大阪鎮台
歩兵第9連隊 明治7年12月18日 大津 大阪鎮台
歩兵第10連隊 明治7年12月18日 姫路 大阪鎮台
歩兵第11連隊 明治8年9月9日 広島 広島鎮台
歩兵第12連隊 明治8年9月9日 丸亀 広島鎮台
歩兵第13連隊 明治8年9月9日 熊本 熊本鎮台
歩兵第14連隊 明治8年9月9日 小倉 熊本鎮台
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歩兵第15連隊〜24連隊
歩兵連隊 軍旗授与 衛戍地 鎮台
歩兵第15連隊 明治18年7月27日 高崎 東京鎮台
歩兵第16連隊 明治17年8月15日 新発田 仙台鎮台
歩兵第17連隊 明治19年8月17日 仙台 仙台鎮台
歩兵第18連隊 明治17年8月15日 豊橋 名古屋鎮台
歩兵第19連隊 明治19年8月23日 名古屋 名古屋鎮台
歩兵第20連隊 明治18年7月21日 大阪 大阪鎮台
歩兵第21連隊 明治19年8月17日 広島 広島鎮台
歩兵第22連隊 明治19年8月17日 松山 広島鎮台
歩兵第23連隊 明治19年8月17日 熊本 熊本鎮台
歩兵第24連隊 明治19年8月17日 福岡 熊本鎮台
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浮世絵 『第二軍威海衛背面大攻撃 』 中央の房付きの旭日旗 は歩兵連隊の軍旗
歩兵第1連隊 (東京)
東京鎮台→第1師団
歩兵第2連隊 (佐倉→水戸 )
当初は東京鎮台に所属し(その後、第1師団)、編成地は千葉県佐倉であったが、明治41年(1908年)9月に第14師団 に移管され、茨城県水戸市に移駐する。シベリア出兵 では沿海州 方面警備のためハバロフスク に出動するが、第3大隊は尼港事件 でパルチザン の襲撃によって全滅する。昭和19年(1944年)にパラオ 諸島のペリリュー島 の守備に就くこととなる。同年9月15日に同島に上陸した米第1海兵師団 などを相手に長期の持久戦を展開するが、11月24日に連隊長中川州男 大佐は軍旗を奉焼し、訣別電報を送り自決し、連隊は玉砕した(ペリリューの戦い )。太平洋戦争 時の通称号 は「照7746」。
歩兵第3連隊 (東京)
東京鎮台→第1師団→第28師団
歩兵第4連隊 (仙台)
明治8年(1875年)に仙台鎮台第1大隊と第3大隊とを以て編成された。明治8年(1875年)9月に軍旗を親授され明治21年(1888年)第2師団 に所属。西南戦争・甲申政変 での朝鮮派兵・日清戦争・台湾平定 ・日露戦争・満州事変 ・支那事変 ・ガダルカナル 戦に参加する。昭和20年(1945年)8月31日にサイゴン 近辺で軍旗を奉焼する。太平洋戦争時の通称号は「勇1301」。
歩兵第5連隊 (青森)
明治4年(1871年)に東北鎮台 第20番大隊(弘前町)が置かれる。明治11年(1878年)5月1日に連隊が編成され、明治12年(1879年)1月16日に軍旗が授与される。当初仙台鎮台、第2師団に所属したが、明治31年(1898年)に新設された第8師団 に所属、明治35年(1902年)に連隊の一部が八甲田山 中で遭難する(八甲田雪中行軍遭難事件 )。日清戦争・日露戦争・満州事変(連隊を基幹とする第14混成旅団)に参加する。太平洋戦争時の通称号は「杉4715」。
歩兵第6連隊 (名古屋)
明治7年(1874年)に編成され、名古屋鎮台、その後第3師団 に所属し、日清戦争 では平壌攻略に参加。日露戦争 では南山、遼陽、沙河、奉天の会戦で活躍。シベリア出兵 ではザバイカル方面に進出。第二次上海事変 では昭和12年(1937年)8月に呉淞に上陸し、大場鎮攻略、南京攻略戦 、徐州会戦 、武漢攻略戦、宜昌作戦 、漢水作戦 、第二次長沙作戦 、浙贛作戦 、大陸打通作戦 に参加。安徽省蕪湖で終戦。事変勃発以来8年間大陸に在り、この間無敗であった。太平洋戦争時の通称号は「幸3702」。
歩兵第7連隊 (金沢)
当初は名古屋鎮台から第3師団に所属し、その後第9師団 に所属、初代旗手は千田登文少尉。明治10年(1877年)2月22日に西南戦争への出兵が命ぜられ、第2大隊が西郷軍を追い詰める。明治27年(1894年)8月4日に日清戦争への動員令が下り、9月7日に広島を出航、同月13日仁川港に上陸する。日清戦争では赫々たる戦果を挙げ戦死者は36名である。日露戦争中の旅順攻略戦にて盤龍山東堡塁に突入し殆ど全滅、大内連隊長以下大隊長3名戦死。連隊旗が一時敵の手に渡るものの、荒島上等兵が自ら負傷しながらも奪還し第3軍司令官 乃木希典大将から個人感状を受ける。第一次上海事変 中の昭和7年(1932年)7月31日には林大八 連隊長が戦死する。日中戦争 では南京 入城に参加する。連隊(長伊佐一男 大佐)は、国際委員会の管理する安全区を厳重に守衛し、許可のない者は安全区内に立ち入らせなかった。太平洋戦争時の通称号は「武1524」、終戦時は台中 にある。
歩兵第8連隊 (大阪)
明治7年(1874年)に編成され、大阪鎮台その後第4師団 に所属、第4師団の当初からの中核部隊であった。「またも負けたか8連隊・・・」という俗謡が当時から歌われていた連隊であるが、実際の8連隊は決して弱い連隊などではなく、その様な俗謡は確かな理由無しの極めて根拠薄弱な俗謡とされている。古くは佐賀の乱 に従軍しており、西南戦争 ではその勇戦奮戦により明治天皇 から大変名誉ある「戦功ご嘉賞」の詔勅を賜っている。後は主要な戦争、事変の多くに従軍。太平洋戦争時の通称号は「淀4072」、終戦は玉砕全滅せずにタイ のランパン で迎えている。
歩兵第9連隊 (大津→京都 )
当初は大阪鎮台から第4師団に所属し、その後第16師団 に所属、「またも負けたか8連隊、それでは勲章9連隊」の9連隊として歌われていた歩兵連隊。昭和19年(1944年)レイテ島で玉砕。
歩兵第10連隊 (大阪→姫路→岡山 )
明治7年(1874年)12月18日に大阪鎮台姫路営所に編成された。明治7年(1874年)10月に歩兵第10連隊第1大隊第1中隊が大阪から移駐し、その後、明治17年(1884年)6月に歩兵第10連隊本体が姫路に移駐した。明治21年(1888年)に第4師団に編入された。明治31年(1898年)10月に第10師団 に編入された。大正14年(1925年)に姫路から岡山へ転営する。西南戦争・日清戦争・日露戦争・支那事変の漢口作戦に参加する。復元された同連隊の軍旗が岡山県護国神社 に展示されている。
歩兵第11連隊 (広島)
明治8年(1875年)に編成され、広島鎮台、その後第5師団 に所属。壬午事変 に参加する。
昭和16年(1941年)軍政改革で歩兵第一補充隊と改称・再編される。
同年12月8日マレー作戦 に参加すると共に南太平洋諸島に展開。太平洋戦争時の通称号は「鯉5173」。
歩兵第12連隊 (丸亀)
広島鎮台→第5師団→第11師団
歩兵第13連隊 (熊本)
熊本鎮台→第6師団
歩兵第14連隊 (小倉)
熊本鎮台→第6師団→第12師団 →第25師団 。太平洋戦争時の通称号は「国4903」。
西南の役中の明治10年(1877年)2月22日に西郷軍によって、軍旗を奪われる。連隊長心得であった乃木希典 少佐 は、大正元年(1912年)9月30日に殉死するがその遺言中に「明治十年の役に於いて軍旗を失ひ、その後死所を得度心掛侯も其の機を得ず」と述べる。
歩兵第15連隊 (高崎)
東京鎮台→第1師団→第14師団。太平洋戦争時の通称号は「照7757」。
歩兵第16連隊 (新発田)
明治17年(1884年)6月に編成され、仙台鎮台から第2師団に所属し、その後第13師団 所属を経て、再度第2師団に所属。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵、満州事変、支那事変、ノモンハン事件、太平洋戦争に参加する 。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」。
歩兵第17連隊 (仙台→秋田 )
明治19年(1886年)8月仙台に創設。当初仙台鎮台に所属し第2師団所属から、日清戦争後の第8師団新設により編入され、秋田に移駐。シベリア出兵に参加。満州事変による第8師団の満州移駐に伴い、牡丹江省 の守備にあたる。太平洋戦争時の通称号は「杉4717」。昭和19年(1944年)8月にフィリピン 戦線に投入され、ルソン島 に上陸。上陸時、約3千人だった人員は、終戦時には900名余りであった。軍旗は終戦後、奉焼されるが、一部は持ち帰られ、現在秋田駐屯地 に展示されている。
歩兵第18連隊 (名古屋→豊橋)
明治17年(1884年)に名古屋にて編成される。明治18年(1885年)5月10日に豊橋に移営する。名古屋鎮台→第3師団→第15師団 →第3師団→第29師団 。太平洋戦争時の通称号は「雷3219」。
歩兵第19連隊 (名古屋→敦賀 )
名古屋鎮台→第3師団→第9師団→第16師団→第9師団
歩兵第20連隊 (大阪→福知山 )
大阪鎮台→第4師団→第10師団→第16師団
歩兵第21連隊 (広島→浜田 )
広島鎮台→第5師団→第17師団 →第5師団。太平洋戦争時の通称号は「鯉5714」。
跡地は浜田第一中学校、島根県立浜田高等学校
歩兵第22連隊 (松山)
通称「伊予の肉弾連隊」広島鎮台→第5師団→第11師団→第5師団→第11師団→第24師団
日露戦争の旅順攻略、上海事変で活躍した。昭和20年(1945年)6月沖縄戦 で玉砕。
歩兵第23連隊 (熊本→都城)
熊本鎮台→第6師団
歩兵第24連隊 (福岡)
熊本鎮台→第6師団→第12師団
歩兵第25連隊 (豊平町月寒 )
明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。当初は第7師団 、昭和14年(1939年)から樺太混成旅団に属していた。旅団が第88師団 に改編になった後も所属し樺太南部の防衛に当った。
歩兵第26連隊 (旭川 )
明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。所属師団は第7師団。奉天会戦 で連隊長戦死。
歩兵第27連隊 (旭川)
明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。所属師団は第7師団。昭和19年から釧路地区防衛のため釧路市及び同周辺地域に進出しそのまま終戦。なお、釧路には同じ番号を冠する陸上自衛隊第27普通科連隊 が所在している。
歩兵第28連隊 (旭川)
明治33年(1900年)12月22日軍旗授与、昭和19年(1944年)3月1日に再授与。所属師団は第7師団。ガダルカナル戦 で一木清直 大佐は自決し連隊主力の一木支隊は全滅する。
歩兵第29連隊 (仙台→若松 )
明治31年3月24日軍旗授与。所属師団は第2師団。
歩兵第30連隊 (新津 →村松 →高田 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第2師団→第13師団 →第2師団→第28師団。
歩兵第31連隊 (弘前 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第8師団。
歩兵第32連隊 (秋田→山形 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。創設時の第8師団に所属、その後第2師団所属から再度第8師団所属を経て、太平洋戦争時は第24師団に所属し通称号は「山3475」、昭和20年(1945年)沖縄で玉砕。跡地は旧山形城跡の霞城(かじょう)公園。
歩兵第33連隊 (守山 →久居 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。創設時は第3師団隷下で日露戦争に参加。奉天会戦での三軒家の死闘(連隊長戦死)により奥軍司令官から全軍布告。宇垣軍縮により第16師団隷下へ。満州での警備、シナ事変での南京攻略戦、武漢攻略戦等に参戦。日米開戦後はフィリピン攻略戦に参加。バターン作戦後にはルソン島の警備に就くが、昭和19年(1944年)9月レイテ島に派遣、同年10月の米軍レイテ侵攻に際しては、米第10軍団の2個師団の上陸(正面約12キロ)を実質5個中隊で迎撃せざるを得ず数日で連隊主力は壊滅、連隊長戦死。なお、歩兵第33連隊が置かれていた久居に同じ番号を冠する陸上自衛隊第33普通科連隊 が所在している。
歩兵第34連隊 (静岡 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。第3師団所属から第15師団所属を経て再度第3師団に所属。日露戦争 の遼陽会戦 の首山堡争奪では連隊長が戦死したほか、第1大隊長の橘周太 少佐(戦死後陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級)が壮烈な戦死を遂げて首山堡確保の殊勲を挙げた。なお、歩兵第34連隊が置かれていた静岡に同じ番号を冠する陸上自衛隊第34普通科連隊 が所在している。
歩兵第35連隊 (金沢→富山 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第9師団。日露戦争では乃木第3軍 に属し旅順攻囲戦、奉天会戦に参加し満身創痍となる。その後シベリア出兵、山東出兵、第一次上海事変、第二次上海事変、南京攻略戦などに歴戦。太平洋戦争時は満州の守備についていたが、昭和19年(1944年)第32軍 に編入され沖縄の守備につく。しかし沖縄戦直前に台湾に配置替えとなり、ほとんど無傷のまま終戦を迎えた。
歩兵第39連隊 (姫路 )
血染めの軍旗 (血染めの連隊旗)と謳われ尊崇されていた。フィリピン防衛戦では建武集団 として奮戦した。沙河会戦 、フィリピン防衛戦などでの戦歴を見る限り白兵戦 、ゲリラ戦 が得意な連隊だと思われる。
歩兵第41連隊 (広島→福山 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第5師団→第17師団 →第5師団→河村 支隊・南海支隊 、再建後第30師団 。
歩兵第42連隊 (山口 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第5師団。
歩兵第43連隊 (徳島 )
明治31年軍旗(1898年)授与。
歩兵第47連隊 (小倉→大分 )
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第12師団→第6師団→第48師団 。
歩兵第48連隊 (久留米)
明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第12師団→第18師団 →第12師団。
歩兵第49連隊 (東京→甲府 )
明治38年(1905年)4月15日軍旗授与、明治39年(1906年)10月2日に再授与。当初は第13師団に所属しその後第1師団に所属。昭和19年(1944年)11月、レイテ島 で大部分が壊滅。残存兵力はセブ島 に移駐しそこで終戦を迎える。
歩兵第51連隊 (名古屋→久居 )
第3師団隷下でシベリア出兵に参加。大正14年(1925年)、宇垣軍縮 により廃止。廃止時の連隊長は小磯国昭。昭和13年(1938年)再編され第15師団隷下となる。昭和19年(1944年)インパール作戦に参加。師団の左突進隊として部署された。終戦時はタイで連合国軍の管理下へ。
歩兵第53連隊 (大阪→奈良 )
大正14年(1925年)、宇垣軍縮 により廃止。
歩兵第54連隊 (善通寺→岡山)
大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。
歩兵第55連隊 (広島→佐賀 )
大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。
歩兵第65連隊 (若松 )
石原莞爾 によれば東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設したが、それが一致団結して日本の軍隊中に於いても最も緊張した活気に満ちた連隊であったという。
歩兵第68連隊 (岐阜 )
明治41年(1908年)5月8日軍旗授与。所属師団は第3師団。
歩兵第70連隊 (篠山 )
「丹波の鬼」と称された勇猛な歩兵連隊。
歩兵第124連隊(福岡)
「菊兵団」と称した第18師団 に属し、南支の敵前上陸、ボルネオ島戦参加。その後、川口支隊 の基幹部隊となって師団から分離され、ガダルカナル戦に参加。インパールでも活躍する。
近衛歩兵連隊
近衛歩兵連隊が第1から第10連隊まで置かれた。近衛歩兵連隊は、近衛師団 創設後は同師団(後に近衛第1から第3師団に分かれた)に属した。
近衛歩兵第1連隊(東京)
明治7年(1874年)1月20日に編成され、同年同月23日に軍旗を親授される。編成に際して明治天皇 より「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旒ヲ授ク汝軍人 等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ以テ国家 ヲ保護セヨ」との勅語 を賜りそれに対して連隊長が「敬テ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」と奉答する。東宮 は本連隊付となる通例で、嘉仁親王(後の大正天皇 )・大正元年(1912年)9月以降は裕仁親王(後の昭和天皇 )も近衛歩兵第1連隊付となっていた。西南の役 に出征したほか、日清戦争 では台湾 の蕃族征討に当たる。日露戦争 では第1軍隷下として奉天会戦 等に参加する。日中戦争では昭和14年(1939年)11月2日に動員が下令される。大東亜戦争中には宮城の守護に当たる。昭和20年(1945年)5月25日に米軍機によって皇居が爆撃された際には消火に当たる。昭和20年(1945年)8月25日に軍旗奉焼。
日露戦争中の明治37年(1904年)6月15日には、後備近衛歩兵第1連隊長須知源次郎陸軍歩兵中佐 指揮の1100名以上の兵員を乗せた輸送船の常陸丸がロシア 艦隊に遭遇し撃沈される(常陸丸事件 )。
近衛歩兵第2連隊(東京)
明治7年(1874年)1月23日に近衛歩兵第1連隊と同日に軍旗を親授される。佐賀の乱 に出征するも会戦の機会なく帰還する。西南戦争では田原坂の戦い等に参加する。日清戦争では台湾平定に当たる。日露戦争では明治37年(1904年)2月4日に動員下令され、奉天会戦等に参加する。昭和15年(1940年)9月26日に北部仏印進駐 の印度支那派遣軍 の基幹部隊としてハイフォン港に進駐する。昭和16年(1941年)8月に東京に帰還する。大東亜戦争中は宮城の守護に当たる。昭和20年(1945年)8月25日に軍旗奉焼。
台湾歩兵連隊
台湾歩兵連隊は2個置かれ、日中戦争 開戦以前は台湾守備隊 に属していた。太平洋戦争 では第48師団 に属しフィリピン攻略 と蘭印作戦 の主力を務めた。
台湾歩兵第1連隊(本隊)- 台北
台湾歩兵第1連隊(第3大隊)- 台中
連隊長
岩田正吉 大佐:1907年9月16日 - 1910年5月14日
奥村信猛 大佐:1910年5月14日 - 1912年11月30日
鈴木秀五郎 大佐:1912年11月30日 - 1916年1月21日
藤田直太郎 大佐:1916年1月21日 -
新井亀太郎 大佐:不詳 - 1921年7月20日[7]
鈴木義雄 大佐:1921年7月20日[7] -
浜島高義 大佐:1923年8月6日[8] -
仁礼精粋 大佐:1931年8月1日 - 1933年3月18日[9]
佐藤要 大佐(23期):1937年3月1日 - 1937年7月15日[10]
石本貞直 大佐(22期):1938年7月15日 - 1939年8月1日[11]
林義秀 大佐(26期) :1939年8月1日 - 1940年12月2日[12]
高嶋辰彦 大佐(30期):1940年12月2日 - 1941年10月15日[13]
今井一二三 大佐(30期):1941年10月15日 - 1942年11月9日[14]
恒岡小文吾 大佐[15]
台湾歩兵第2連隊(本隊)- 台南
台湾歩兵第2連隊(第3大隊)- 高雄
連隊長
杉村愿簡 大佐:1907年9月16日 -
竹下平作 大佐:1908年12月21日 - 1911年10月24日
吉野文四郎 大佐:1911年10月24日 - 1913年8月22日
阿久津秀夫 大佐:1913年8月22日 - 1915年8月10日
松山良朔 大佐:1915年8月10日 - 1917年8月6日
守永弥惣次 大佐:1917年8月6日 -
松野亀雄 大佐:1921年6月28日[16] -
篠原四郎 大佐:1923年8月6日[8] -
青木敬一 大佐:1934年3月5日 - 1936年3月7日[17]
高橋良 大佐:1936年3月7日[18] -
平田正判 大佐(25期)[15] :1938年7月15日 - 1939年3月9日[19]
田中透 少将(26期):1941年10月15日 - 終戦[20]
支那駐屯歩兵連隊
北清事変(義和団の乱 )に際して、清 朝による外国公館保護が十分でなかったことから、列強は自国の公館を防衛するため軍隊を駐屯させる権利を得た。これに基いて、日本も天津 に清国駐屯軍(後に支那駐屯軍 に改称)を駐屯させ、その隷下に北平 駐屯歩兵隊と天津駐屯歩兵隊を置いた。その後、昭和11年(1936年)4月18日に支那駐屯軍を強化したのにともない、北平駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第1連隊 に、天津駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第2連隊 に改編した。
昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件 が発生し日中戦争 が勃発、同年8月31日に支那駐屯軍を第1軍 に改編し廃止した際直轄部隊は支那駐屯混成旅団に改編され、翌昭和13年(1938年)3月12日に支那駐屯兵団と改称した際に支那駐屯歩兵第3連隊 が設けられた。
支那駐屯軍廃止以前は支那駐屯歩兵旅団、廃止後は支那駐屯混成旅団、昭和13年(1938年)3月12日から支那駐屯兵団に、同年6月21日からは第27師団 に属した。
独立歩兵連隊
独立歩兵連隊は関東軍 の独立混成第11旅団に属していたが、後に第26師団 に属することとなった。各独立歩兵連隊は第26師団に属して以降も「独立歩兵第○○連隊」を称し続けた。
その他の歩兵連隊
以上のほか、部隊名に「歩兵連隊」が含まれるが、特殊な性格のものとして以下がある。
歩兵連隊の定員(明治23年平時編制)
明治23年(1890年)11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の歩兵連隊の平時定員は次の通りであった。1個連隊は3個大隊 12個中隊 から構成されていた。なお、本章において単に「軍曹」としたものは1等軍曹(判任官 3等)又は2等軍曹(判任官4等)の意味である。また、諸工長は1等軍曹相当官であり、諸工下長は2等軍曹相当官である。
連隊長:大佐 又は中佐
連隊附:少佐
副官 :大尉
連隊旗 手:少尉
武器掛:軍曹
喇叭 長:軍曹
書記2名:軍曹
2等軍医 正(少佐相当官、3個大隊のうち1つの軍医を兼ねる)
縫工長又は縫工下長1名
縫工20名
靴工長又は靴工下長1名
靴工10名
大隊本部(大隊長以下16名、乗馬3匹)
中隊(中隊長以下136名)
この内、連隊長、連隊附少佐、連隊副官、2等軍医正、大隊長及び大隊副官が乗馬本分者であり、連隊長及び大隊長には乗馬2匹が用意される。
よって、連隊全体では、将校 70名、准士官 下士 145名、兵卒 1,440名、各部 66名の総計1,721名、軍馬 14匹が定員となっていた。
普通科連隊(管区隊隷下)
警察予備隊 では、同時期のアメリカ陸軍の3単位制歩兵師団 に準拠した管区隊 4個を基本作戦単位としており、その基幹となる普通科 連隊も、アメリカ陸軍の歩兵連隊に準じた編制を採用していた。下記のように隷下には戦車部隊(特車中隊)や工兵部隊(工作補給小隊)もいるほか、幕僚 もおり、日本陸軍出身者からするとミニ師団というべき贅沢な編制であった。普通科大隊隷下の小銃中隊・重火器中隊および連隊長直轄の重迫撃砲中隊・特車中隊には通し番号が振られており、重火器中隊が第4・8・12中隊、重迫撃砲中隊が第13中隊、特車中隊が第14中隊であった。豊富な無反動砲 ・迫撃砲 と車両 装備も日本陸軍出身者にとっては印象的だったが、一部の装備は警察予備隊時代には充足しなかった。
この編制は保安隊 でも踏襲されたが、陸上自衛隊 への移行の際に、普通科連隊の第14中隊(特車中隊)の廃止や小銃中隊の火器小隊の迫撃砲小隊への改編(57mm無反動砲の廃止)、連隊本部中隊および管理中隊の圧縮などが行われた。また陸上自衛隊では、10個作戦単位の整備を目指して管区隊を6個に増設するとともに、これを補完する4個混成団の編成に着手した。当初、これは機動運用を前提とした機械化部隊とする予定であったが、装備品を確保できず、結局は管区隊の単なる縮小版となった。管区隊では3個ある普通科連隊が混成団では1個のみになったため、予備兵力確保のため普通科大隊が4個に増設されたほか、普戦協同の観点から特車中隊が普通科連隊の隷下に入った。
なお発足当時は普通科など付かずに単に「第〇連隊」と称されていたが、職種が制定されたことで「普通科第〇連隊」と称されるようになり、陸上自衛隊への移行とあわせて「第〇普通科連隊」と称されるようになった。
警察予備隊時代の編制
普通科連隊(3,210名)
本部および本部中隊(201名):通信小隊、対射撃小隊、調査偵察小隊、工作補給小隊、警備小隊などが設置されていた。
管理中隊(124名):総務・補給・整備など管理支援にあたっていた。
3個普通科大隊(各805名)
重迫撃砲中隊:編制では107mm重迫撃砲 12門とされていたが、当初は81mm迫撃砲で代替されていた。
特車中隊:編制では特車22両とされていたが、実際に特車が充足されたのは保安隊になってからだった。
衛生中隊(176名)
普通科連隊(師団隷下)
13個師団体制の時代
昭和36年 度より、6個管区隊・4個混成団体制から13個師団体制 へと移行するにあたり、普通科連隊の編制も大規模に改訂された。従来の普通科連隊は、3単位制の管区隊にあわせて編制が大規模になっていたため、隘路を一夜の機動で通過しきれない場合があるなど、小規模な平地が点在する日本の国土・地形の特性に不適な面が指摘されていた。このことから、13個師団体制においては4単位制を基本とするように変更し、連隊を増設する一方で、個々の連隊の規模を縮小することとなった。
普通科連隊における最大の変更点が大隊結節の消失で、連隊長が4個普通科中隊、本部管理中隊、重迫撃砲中隊を直轄する編制となった。大隊の隷下にあった重火器中隊も消失し、機関銃は小銃分隊に組み入れられ、81mm迫撃砲は迫撃砲小隊に引き継がれ、無反動砲小隊も装備を106mm無反動砲 に更新して小銃中隊の隷下に入った。これらの改編に伴って小銃中隊は普通科中隊、小銃分隊は小銃班と改称された。
この改編によって人員数はほぼ半減し、通信機能の強化もあって軽快な運用が可能となった。連隊単位での戦闘能力の低下には不満もあり、旧陸軍の軍人からは「増強歩兵大隊」とも揶揄されたが、実際には師団の戦車・特科部隊などを配属されて連隊戦闘団(RCT)として行動することもあって、時間が経つに連れて不満は薄れていった。
その後、小銃小隊の3.5インチロケット発射筒は89mmロケット発射筒 、ついで84mm無反動砲 へと更新されていった。また普通科中隊の無反動砲小隊に装備されていた106mm無反動砲が対戦車ミサイル に更新されると、部隊名は対戦車小隊に変更された。更に、後に対戦車隊 が廃隊となった師団では、その機能は普通科連隊に組み込まれ、連隊の下にも対戦車中隊が編成されていった。
13個師団体制時代の編制
13個師団体制時代の編制例
普通科連隊(約1,200名)
連隊本部
本部管理中隊
中隊本部
連隊本部班
人事班
管理整備小隊
施設作業小隊
情報小隊:オートバイとジープを有する斥候部隊で、昭和42年度からはレーダーの装備も開始した。
通信小隊
衛生小隊
対射撃分隊
4個普通科中隊
中隊本部
4個小銃小隊
無反動砲小隊(106mm無反動砲4門)
迫撃砲小隊(81mm迫撃砲4門)
重迫撃砲中隊
9個師団体制の時代
冷戦 終結などの内外情勢の変化を受けて、1995年 に閣議 決定された防衛計画の大綱 (07大綱 に基づき、陸自は9個師団体制 へ移行するとともに、各作戦単位は機能別に分化することになった。北海道の部隊はあらゆる事態に対応しうる編制を維持した「総合近代化師団」とされる一方、それ以外の地域の部隊は重装備を効率化した「即応近代化師団」とされ、後者については特に地域の特性にあわせた政経中枢タイプと離島タイプも派生した。
これらの普通科連隊では普通科中隊のうち1個が装甲化されており、即応近代化師団においては軽装甲機動車 、総合近代化師団では96式装輪装甲車 が用いられる。その他の中隊も、高機動車 によって自動車化 されている。政経中枢タイプの即応近代化師団については、2002年(平成14年)に第1師団が改編される際、隷下の普通科連隊の重迫撃砲中隊を廃止する一方、普通科中隊を5個に強化した。ただし重迫撃砲中隊の廃止は師団の固有火力の絶対的な低下を招いたことから、2006年(平成18年)に第3師団が政経中枢タイプ即応近代化師団に改編された際には重迫撃砲中隊の廃止は行われず、第5普通科中隊の純増という形で改編された。また第1師団でも、廃止された第6地対艦ミサイル連隊 の要員を充てる形で、2011年(平成23年)には重迫撃砲中隊を復活させた。
普通科連隊(旅団隷下)
07大綱に基づく9個師団体制への移行に伴い、4個師団が旅団に縮小改編されるとともに、13個師団体制下で新編されていた2個混成団も旅団に改編された。旅団の下の結節としては、当初は2等陸佐を指揮官とする普通科大隊4個を配置することも検討されたが、結局は1等陸佐を指揮官とする普通科連隊が存続することになった。これは旅団の基幹となる戦術単位として、戦闘団を編成して行動する場合に、2等陸佐では諸職種連合部隊の指揮に不安が残ると判断されたためとされる。
旅団隷下の普通科連隊は「普通科連隊(軽)」と通称され、普通科中隊は3個に削減されたほか、重迫撃砲中隊も廃止されて本部管理中隊に重迫撃砲小隊を組み込む形となっており、定員は600-700名に削減されている。2004年(平成16年)に第5師団が旅団に縮小改編された際には、同旅団隷下の第4・6・27普通科連隊だけは4個普通科中隊を基幹としており、定員約750名と、他の連隊よりも100名多かったが、2011年(平成23年)の総合近代化旅団への改編時に他の旅団と同様に削減された。一方、第14旅団が機動旅団に改編される際に、その隷下の第50普通科連隊には重迫撃砲中隊が再編された。第12旅団の改編の際にも第2・第13・第30普通科連隊に重迫撃砲中隊が再編された。
普通科連隊(方面混成団隷下)
2006年 (平成18年)3月27日に東北方面混成団が第9師団隷下の第38普通科連隊 等を編合して編成された。方面混成団隷下の普通科連隊は即応予備自衛官 を主体として構成されるコア部隊 で通常の編成から改編された連隊とコア部隊として新編された連隊がある。東北方面混成団新編以降、1個普通科連隊を有する方面混成団が各方面隊隷下に編成された。連隊の編制は、方面混成団へ異動するまでは所属する師団・旅団の普通科連隊と同じであったが、逐次師団普通科連隊と同等の編制に増強改編されている。また、一部の連隊は隷下の普通科中隊を別の駐屯地へ分派している。2014年 (平成26年)3月26日に、中部方面混成団に第10師団 隷下の第49普通科連隊 (コア部隊 )が、2018年 (平成30年)3月27日には、西部方面混成団に第8師団 隷下の第24普通科連隊 (コア部隊 )を編合され2個連隊を有している。
普通科連隊等の沿革
この節は、普通科連隊等に関する記事の沿革のまとめであり、編成等の歴史を一元的に確認できるようにすることを目的としている。
出典等は該当部隊等の各記事を確認のこと。
警察予備隊
1951年 (昭和26年)
第1連隊 (連隊本部、直轄中隊及び第1、第2大隊)が久里浜駐屯地 で新編。第3大隊は豊川駐屯地 で編制。第1管区隊に隷属。
第2連隊 が松本駐屯地 で新編。第1管区隊に隷属。
第3連隊 (第3大隊欠)が高田駐屯地 で新編。第1管区隊に隷属。
第4連隊 (連隊本部、本部中隊、第1大隊及び第2大隊)が帯広駐屯地で新編。第3大隊(本部中隊、第9、10、11、12、13、14中隊)は遠軽駐屯地 で編制。第2管区隊に隷属。
第5連隊 (連隊本部、本部中隊、第1大隊及び第2大隊)が金沢駐屯地 で新編。第3大隊は函館駐屯地 で編制。第1管区隊に隷属。
第6連隊 (連隊本部、本部中隊、第1大隊及び第2大隊)が宇都宮駐屯地 で新編。第3大隊は船岡駐屯地 で編制。第1管区隊に隷属。
第7連隊 (連隊本部及び第1大隊)が水島駐屯地 で新編。第2大隊は福山駐屯地、第3大隊及び第14中隊は舞鶴駐屯地 で編制。第3管区隊に隷属。
第8連隊 (連隊本部及び第1大隊)が広島県呉市広で新編。第2大隊は海田市駐屯地 、第3大隊は米子駐屯地 で編制。第3管区隊に隷属。
第9連隊 (連隊本部、本部中隊、第1大隊及び第2大隊)が善通寺駐屯地 で新編。第3大隊は松山駐屯地 で編制。第3管区隊に隷属。
第10連隊 (連隊本部、本部中隊、第1大隊及び第2大隊)が福岡駐屯地 で新編。第3大隊は針尾駐屯地 で編制。第4管区隊に隷属。
第11連隊 (連隊本部及び第1大隊)が小月駐屯地で新編。第2大隊は曾根駐屯地、第3大隊は中津駐屯地で編制。第4管区隊に隷属。
第12連隊 (連隊本部、本部中隊、第1大隊及び第2大隊)が鹿屋駐屯地で新編。第3大隊は熊本駐屯地 で編制。第4管区隊に隷属。
1952年 (昭和27年)
1月15日:第11連隊第3大隊(中津駐屯地)が、第10連隊第3大隊に改称。
1月19日:部隊改編。
第1連隊第2大隊が第6連隊 第3大隊に、新町駐屯地 の第2連隊 第3大隊が第2大隊として編入。
第3連隊本部が第6連隊本部に、第3連隊第1大隊が第6連隊第3大隊に、第2大隊が第62連隊 第2大隊に改称。第3連隊第3大隊(金沢駐屯地 )を第2連隊に編入。
第4連隊第3大隊(遠軽駐屯地)が第6連隊第2大隊に改称。
第5連隊第3大隊(函館駐屯地)が第4連隊 第3大隊に改称。
第6連隊連隊本部・第1大隊・第2大隊(宇都宮駐屯地 )が第3連隊に改称。
第6連隊第3大隊(船岡駐屯地 )が第5連隊第3大隊に改称。
第6連隊が第3連隊 本部(高田駐屯地)、第62連隊 第2大隊(美幌 駐屯地)、第4連隊 第3大隊(遠軽 駐屯地)、第1連隊 第2大隊(久里浜 駐屯地)を編合して再編成。
第7連隊本部及び第1大隊が水島駐屯地 から福知山駐屯地に移駐。
第7連隊第2大隊(福山駐屯地)が第8連隊第3大隊に改称。
第8連隊第3大隊(米子駐屯地)が第7連隊第2大隊に改称。
第10連隊第3大隊(針尾駐屯地 )が第12連隊第3大隊に改称。
第11連隊 第3大隊(中津駐屯地)が第10連隊第3大隊に改称。
第12連隊 第3大隊(熊本駐屯地 )が第10連隊第2大隊に改称。
1月20日:第10連隊第2大隊(福岡駐屯地)が第11連隊第3大隊に改称。
1月23日:第10連隊本部及び第1大隊が福岡駐屯地 から針尾駐屯地に移駐。
1月26日:第6連隊本部が高田駐屯地から美幌駐屯地に移駐。
3月6日:第5連隊本部及び直轄中隊が青森駐屯地へ、第5連隊第2大隊が金沢駐屯地から秋田駐屯地 へ移駐し、第5連隊は第2管区隊隷下に編入。
6月24日:第7連隊第3大隊が久居駐屯地 から富士駐屯地へ移駐。
6月25日:第7連隊第14中隊が舞鶴駐屯地から福知山駐屯地に移駐。
7月7日:第10連隊の主力が針尾駐屯地から大村駐屯地 に移駐。
7月9日:第7連隊第3大隊が舞鶴駐屯地から久居駐屯地 に移駐。
8月5日:第12連隊第2大隊が鹿屋駐屯地から都城駐屯地 へ移駐。
保安隊
1952年 (昭和27年)
10月15日:保安隊 が発足。
10月18日:第6連隊隷下に駐屯地管理隊・福祉隊(後の美幌駐屯地業務隊)が編成。
1953年 (昭和28年)
2月5日:第6普通科連隊第3大隊が久里浜駐屯地より旭川駐屯地 に移駐。これにより連隊全部が北海道に移駐したことになる。
3月11日:第3連隊第1大隊・第2大隊が宇都宮駐屯地から名寄駐屯地に移駐し、第2管区隊隷下に編入。
3月26日:第3連隊第3大隊が高田駐屯地から名寄駐屯地に移駐。
3月28日:第2連隊本部、直轄中隊及び第2大隊が松本駐屯地から高田駐屯地 へ移駐。
4月1日:奥羽 4県の警備が第1管区隊に移管されたことにより、第5連隊が第1管区隊隷下に編入。
5月21日:
第2連隊第3大隊が金沢駐屯地から新発田駐屯地 に移駐。
第8連隊第3大隊が信太山駐屯地 から水島駐屯地に移駐。
9月1日:駐屯地管理隊・福祉隊が美幌駐屯地業務隊に改編。
10月5日:第4連隊第3大隊(函館駐屯地)が釧路駐屯地 に移駐。
10月10日:第8連隊第1大隊が水島駐屯地から出雲駐屯地 に移駐。
10月18日:第1連隊第3大隊が福島駐屯地 に移駐。
11月20日:第3連隊第3大隊(名寄駐屯地)が留萌駐屯地 に移駐。
第二次世界大戦時
第二次世界大戦当時のアメリカ陸軍 の歩兵連隊は総員3,068名で、編制は以下の通り。
連隊本部および本部中隊(HHC: Headquarters and Headquarters Company)
3個歩兵大隊
対戦車砲中隊(M1 57mm対戦車砲×9門)
火砲中隊(M3 105mm榴弾砲 ×6門)
後方支援 中隊
衛生分隊
歩兵装備
歩兵中隊は小銃3個小隊と火器小隊1個から編成され、火器小隊はM2 60mm 迫撃砲 班3個と機関銃分隊2個からなっており、歩兵3個小隊を3門のM2 60mm 迫撃砲 が支援するようになっていた。
M1 81mm 迫撃砲 は重火器中隊の迫撃砲小隊に6門が配備され、3個歩兵大隊で1個連隊を構成していたので、合計で18門となった。
1950年代中盤以降
1957年、アメリカ陸軍は、ペントミック として知られる新しい編制を採用した。この編制では、従来の歩兵連隊の枠組みは解体され、かわりに、5個の連隊戦闘群 が編制された。この連隊戦闘群は5個小銃中隊と戦闘支援中隊から編成されており、従来の歩兵連隊と歩兵大隊の中間的な規模であった。
ペントミック編制は1960年代初頭には見直され、ROAD再編成計画が発動された。これによってペントミック式の連隊戦闘群は解体されたが、歩兵連隊が再編されることはなく、大隊を基幹とする編制法に移行した。ただし、連隊の戦歴を継承するため、それぞれの歩兵大隊は、かつての所属連隊の名前を冠することとされた。ROAD計画以後も数度にわたって編制の見直しが行なわれたが、大隊を基幹とするという点は変化しておらず、現在、アメリカ陸軍には、常時編成される戦闘単位としての歩兵連隊は、第75レンジャー連隊 (アメリカ特殊作戦軍 指揮下)が存在するのみとなっている。また、第503歩兵連隊 (英語版 ) は、その名前を冠する大隊がいずれも第173空挺旅団 戦闘団に所属していることから、事実上、連隊の編制が存続していると見なされることもある。
注釈
スペインにおけるテルシオそのものも、ローマ軍団 (legio)に似た組織として編成された面もある。
出典
アジア歴史センター レファレンスコードC12122488100