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日本のプロ野球選手、野球解説者、野球評論家、タレント ウィキペディアから
森本 稀哲(もりもと ひちょり、1981年1月31日 - )は、東京都荒川区出身の元プロ野球選手(外野手・内野手[1]、右投右打)、コーチ、野球解説者、野球評論家、タレント、YouTuber。
北海道日本ハムファイターズ 一軍外野守備走塁コーチ #80 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都荒川区 |
生年月日 | 1981年1月31日(43歳) |
身長 体重 |
185 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1998年 ドラフト4位 |
初出場 | 2000年8月2日 |
最終出場 | 2015年9月27日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴
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この表について
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1998年度ドラフト会議にて日本ハムファイターズから4位指名を受けて入団。2006年から2008年にかけて3年連続でゴールデングラブ賞を受賞、2007年にはベストナインにも選ばれた。2011年には横浜ベイスターズへ、2014年には埼玉西武ライオンズへ移籍し、ライオンズ在籍中の2015年に現役を引退。2023年から北海道日本ハムファイターズの一軍外野守備走塁コーチを務める。
小学生の時、汎発性円形脱毛症にかかり、髪の毛が抜けてしまう。そんな折、小学校の友人から野球に誘われ、サッカーと並行して野球を始める。野球にそれほど興味がなかったものの、所属していたサッカーチームには学校の友達がおらず疎外感を感じていた、帽子を被ってプレーする野球では頭髪を気にせず競技に打ち込めるなどの理由から、次第に野球に打ち込むようになる[2]。Jリーグの発足とそれに伴う報道過熱で、有力野球チームに加入するか、一度諦めていたサッカーに復帰するか迷ったが、父が読売ヴェルディのテストを手配。ここで「まったく歯が立たなかった」「自分はこんなにも下手だったのかとすぐに自覚できるような状態」だったこともあり、中学以降は野球に専念するようになる[3]。
帝京高校では3年生の時に主将、遊撃手として第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。3回戦の浜田高校戦で、8回表に和田毅からバックスクリーンへの同点本塁打を放つも敗退[注 1]。高校通算34本塁打。ちなみに後にフジテレビアナウンサーとなる田淵裕章がいる高校とも試合をした経験があり、田淵の打った球をファインプレーで取ったことから、田淵はレベルの違いを痛感して期待していたプロ入りを諦めたという[4]。
1998年度のドラフト会議にて、日本ハムファイターズから4位指名を受けて入団。
1999年は一軍昇格がなく、2年目の2000年にレギュラーシーズン初出場を果たし初本塁打を記録。主に守備・代走要員で起用される。
2003年、監督に就任したトレイ・ヒルマンに「バーニー・ウィリアムスの再来」と評され、1番・中堅手で初めて開幕スタメン起用される。4月だけで4本塁打を打つが、その後は打撃が伸び悩み、阪神タイガースから移籍してきた坪井智哉にポジションを奪われ、守備・代走要員にとどまった。2005年には打撃が向上し、初の100試合出場で打率.264、7本塁打を記録した。
2006年は開幕スタメンの坪井の離脱などもあり4月下旬頃から1番・左翼手に定着し、自身初の規定打席に到達し、本塁打・打率ともに自身過去最高を記録。パシフィック・リーグ最多得点を記録し、ゴールデングラブ賞を初受賞した。7月、オールスターゲームに初出場して第2戦で本盗に成功した(2004年の同僚・新庄剛志以来史上3人目)。10月、日本シリーズに初出場して当シリーズ最高打率を記録し、優秀選手賞を受賞した。
2007年、前年限りで引退した新庄の意向で同選手が着用していた背番号1を継承し[5]、主に新庄が就いていた中堅手に定着。シーズン終盤まで片岡易之(西武ライオンズ)と盗塁王のタイトルを争うなど(結果は片岡が獲得)、不動の1番打者として全イニング出場を果たし、2年連続のリーグ最多得点と初の打率3割を記録。24試合連続安打はリーグ歴代6位タイ、球団では大下弘と並び最多タイ記録。右打者であるが、内野安打の数も稲葉篤紀に次ぐリーグ2位を記録。最多得票でゴールデングラブ賞と、初のベストナインを受賞。補殺数は両リーグ1位の15個を記録した。だがこの華々しい結果により、シーズンオフには達成感で燃え尽きてしまったと本人は語っている[6]。
2008年5月25日の読売ジャイアンツ戦で、西村健太朗から死球を受けて左手小指を骨折(全治5週間)。2006年から続いていた全イニング出場も途絶えた。後半戦はケガの影響から不振に喘ぎ、自身最低の打撃成績となった。3年連続となるゴールデングラブ賞を受賞。なお、この年の5月ごろに新庄の経営でアスリートのマネジメント等を業務とする株式会社レハサフとマネジメント契約を締結し、一定期間契約していた[7]。2007年シーズンに燃え尽き症候群に陥った森本にとって、左手骨折による戦線離脱は「シーズン中なのに休めてラッキー」と認識するような出来事であったため、この気の緩みが尾を引いて残りのシーズンで打撃不調に陥ったと本人は後に分析している[6]。
2009年は糸井嘉男に中堅手を奪われ、左翼手としての出場が多くなり、スタメン落ちも増え出場機会が激減。同年5月、出場登録日数が8年に達し、国内移籍が可能となるFA権を取得。オールスター戦明けには出場機会も増えていたが、8月6日の西武戦でジョン・ワズディンから死球を受け、左手小指を骨折。107試合に出場したが規定打席に到達せず、打率も.247に終わった。田中賢介が1番に定着して2番に回り、リーグ最多の43犠打を記録し、成功率10割を誇ったが、巨人と対戦した日本シリーズでは何度もバント失敗を繰り返し、2併殺と不振だった。この年はFA権を行使せず残留し、記者会見で「どんな条件を出されても残留するつもりだった。他チームでプレーする理由がまったくない」と語った[要出典]。
2010年7月14日の西武戦の初回、犠打を試みた際に野上亮磨から死球を受け退場。右手薬指を骨折し、翌日に登録を抹消された。これで3年続けて死球により骨折したが、それでも2年連続リーグ最多の55犠打を記録し、打率も.272と持ち直した。
同年オフにFA権を行使し、横浜ベイスターズへ移籍。
12月11日に正式契約。同日に横浜中華街の媽祖廟で入団会見が行われた[8]。背番号は5に決定。
2011年、6番・中堅手で開幕スタメン出場。5月1日に扁桃腺炎のため登録を抹消された。その後復帰したが、7月6日の広島東洋カープ戦で自打球を当て左足を負傷。左足脛骨近位骨挫傷と診断され8日に再び登録を抹消され、一軍復帰は10月となった。復帰後も若手主体で起用する監督の方針もありスタメン出場は限られ、成績面でも結果を残せなかった。
2012年、2年連続で開幕スタメンとなるが、アレックス・ラミレスの加入、荒波翔の台頭もあり、5月以降はスタメン機会が減少。代打、代走、守備固めでの途中起用が多くなった。最終的には108試合に出場し、スーパーサブとしてチームを支えた。9月に左手有鈎骨を骨折し、28日に登録抹消されシーズンを終える。
2013年はシーズンのほとんどが二軍でのプレーとなり[9]、10月4日に球団から戦力外通告を受けた[10]。シーズン最終戦の10月8日の対阪神タイガース戦(横浜スタジアム)で2番・右翼手で先発出場し、2打数無安打で4回の守備から退いた[11]。
その後埼玉西武ライオンズの秋季キャンプにテスト生として参加し、2013年11月19日に同球団への入団内定が発表され[12]、12月4日に正式に契約したことが発表された[13]。背番号は0。この背番号には「0からのスタートで頑張れ」という球団からの思いが込められていた[14]。
かつて1億円プレイヤーであった森本がプライドをかなぐり捨ててテスト生となったのは、「まだまだ野球がしたい」と願った上での選択であった。入団後は練習も真面目に行い、派手な私生活も見直し、パフォーマンスも封印して控え選手として陰ながら西武を支えた[14]。
2014年、開幕一軍入りし[15]、3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で移籍後初出場。開幕前の秋季キャンプで一塁手の練習をしており[16][17]、実際4月12日の対日本ハム戦で一塁手として出場した[18]。一軍の試合で一塁の守備に就いたのはプロ初である。最終的に、一塁手としての出場機会が外野手としてのそれを上回った。同年は99試合に出場し、打率は.252と一定の成績は残した。
2015年も開幕一軍入りは果たしたが11試合で11打数無安打と結果を残せず二軍落ちとなり、このシーズンを限りに現役引退を決断、9月21日に会見を行った[19]。
9月27日に引退試合(対楽天、西武プリンスドーム)が行われ、チームがCS出場争いの最中だったため8回表の守備から守備固めとして7番・右翼手として途中出場する。3-1と西武がリードしていたため最後の攻撃となる可能性が高かった8回裏は1番打者から始まり、7番の森本まで回るには4人が出塁しなければならなかったが、ベンチで起こった「ひちょりさんに回せ」の合言葉のもと打線が繋がり、二死で打席が回る。涙を流しながら入った現役最終打席は三塁ゴロであった。セレモニーで流されたビデオメッセージには同僚に加え、日本ハム時代の元同僚・新庄剛志、稲葉篤紀もコメントを寄せており、その後グラウンドへ現れた稲葉からも花束を贈られる。スピーチでは打席を回してくれたチームメイトへ涙ながらに感謝の意を表す[20][21]。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された[22]。
経営学を学ぶ目的で[23]、引退以降の活動のマネジメント契約先は、経営コンサルティング会社のCK PLAT(日本経営教育研究所)となった[24]。2016年1月からは、日本ハム時代のチームメイト・金村曉の後任扱いで、『みんなのテレビ』(北海道文化放送)の月曜コメンテーターとなった[25]。さらに同年のプロ野球シーズンからは、同局に加えて札幌テレビ・STVラジオ・北海道テレビ放送・北海道放送・CBCラジオ・テレビ東京(BSジャパン)・テレビ北海道・TVQ九州放送・tvk・テレ玉・文化放送(ゲスト)・GAORA・スポナビライブ(DeNA戦)の野球解説者としての活動も始めた。2021年からはNHK札幌(本数契約)の野球解説者としても活動する。
また2016年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった[26]。
2019年9月に自身初の冠番組『ひちょりのWA!!』(STVラジオ)のパーソナリティ就任が発表された[27]。また、同月にはYouTubeチャンネル「ひちょりズム」を開設し、YouTuber活動もスタートしている[28]。
2023年から北海道日本ハムファイターズの一軍外野守備走塁コーチを務める。
「ひちょり」という名前は、「稀哲」の韓国語での発音「ヒチョル」(희철)から取って父が命名した(「稀哲」という名に決めた理由は不明)。プロ入り当時、一部の選手名鑑には「ひちょり」でなく「ひろより」「ひちより」と誤った振り仮名を振っているものや、「稀哲」を「秘哲」と誤植しているものがあった[29]。
初等教育は韓国学校で、本人も「在日(韓国人)としての民族意識は強かったです」と話している。プロ入り後の2007年11月に日本へ帰化している[注 2]。
小学1年生の頃、汎発性円形脱毛症を発症する。これは髪の毛などの体毛全てが、突然抜け落ちて生えなくなってしまう病気であり、一時は人目を避けるようになり、自分の容姿に思い悩む時期もあった。現在はほぼ克服しているが、「当時の苦労を忘れないように」「自分が活躍することで、同じ病気で苦しむ人に自信を持ってもらいたい」と、毎日自分で剃刀を当ててスキンヘッドにし続けている[30][31][32]。
先述の通り、小学4年生のときにサッカーから軟式野球に転向するも、サッカーファンであった父の希望により、ヴェルディのテストを受験するまではサッカーと野球の二足のわらじを履き、中学校ではサッカー部に入部。野球は隣の区の軟式チーム・シールズ倶楽部で続けていた。その他にも習字やそろばん、水泳、テコンドーを幼少期から習っていた。中学1年生のときにテコンドーで全国大会優勝[33]。
自身のイメージカラーを日本ハム時代は緑、横浜への移籍後は黄に定め、リストバンド等の色に用いている。横浜移籍時に黄へ変更した理由は、「チームの青いユニフォームに映える色にしたかったから」という[34][35]。
鯖(特に塩焼き)が嫌い。これは高校時代、監督から「もっと体力をつけろ」と食事を増やされ、食べ過ぎによる嘔吐を起こした時の食べ物が鯖の塩焼きだったというトラウマによるもの。
元々明るい性格ではなかったが、プロ入り後は人一倍元気を出すことによって自身や周りのテンションを上げるムードメーカー的な存在となり、同僚から慕われていた[36]。不振がちであった横浜・DeNA時代に共に過ごした三浦大輔も「どんなに打てなくてもベンチで凄い盛り上げてくれてた」「試合に出てなくてもベンチで声を出して盛り上げて、常にロッカーでも明るくしてた」と振り返っている[14]。
日本ハム時代の先輩の新庄剛志と師弟関係を築いている。2004年からの新庄の日本ハム入団が決まった頃、森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩んでいた。森本は当時同ポジションのスター選手が入団することに対し「なんで新庄来るんだよ」と思っていたが、新庄から打撃や守備を毎日根気強く教わり、「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたと語る[37]。新庄は日本ハム時代の3年間を札幌市内のホテルのスイートルームで暮らしていたが、森本もそこに同居しているに近い状態であった[38]。新庄の現役最終出場となる2006年の日本シリーズ第5戦で日本一を決めるレフトフライのウイニングボールを掴んだ森本は、マウンド方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱擁しあった。その試合後に新庄は「背番号1をひちょりにつけてもらいたい」と発言し[5]、翌年より「1」を受け継いだ[39]。
新庄の引退後、自分が素直に話を聞いていた新庄がいなくなり、さらに私生活・パフォーマンスなどにおいて新庄のような派手な振る舞いを真似ていたため、このような気の緩みがプロ野球選手時代後半のキャリアの失速に繋がったと後に振り返っている[6]。
出身の帝京高校野球部の先輩であるとんねるず・石橋貴明と交遊があり、正月特番『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日系)に「チーム石橋」の一員として2007年、2009年 - 2011年と続けて出演している。2007年はチームパラダイス(新庄、森本、川﨑宗則)として石橋と対戦し、2009年からは石橋とチームを組んでいた。2012年に前年の本業の打率が.187と不調であったためチーム石橋を戦力外通告されていたが、2014年には「チーム帝京高校」として出演している。
横浜DeNAベイスターズの山﨑康晃は、幼少時代に知人を通じて森本と知り合いとなったことをきっかけに野球を始め、後に森本と同じ帝京高校に入学した[40]。山﨑のプロ入り後も在籍時代は被らないものの、ベイスターズの先輩・後輩となったことから交遊が続いている。
実家は東京都荒川区西日暮里に存在していた焼肉店「絵理花」。日本ハム時代の応援歌の前奏に当初同店の説明のような歌詞があり、森本本人が「野球とは関係ない」と訴えた理由から応援団に変更を希望。別の歌詞に差し替えられた[41]。「絵理花」はファイターズファンのみならず、広く野球ファンの多く集まる人気店であったが[41]、建物の老朽化と両親の体調的な問題から、2013年10月限りで閉店している。なお、西武時代も応援団が森本に対し、TV番組「徹子の部屋」のテーマソングの替え歌を応援歌にしたところ、試合で聞いた森本から「かっこいい曲にして欲しい」と注文が入り、別の曲に差し替えられている[42]。
2012年3月8日にモデルの悠美と結婚[43]。2014年7月26日に第1子となる女児が誕生[44]。第2子は男児。長女と2歳違いとのこと。[45]。
日本ハムでは広瀬哲朗から始まり今や伝統的となった選手によるパフォーマンスは、その後は岩本勉に受け継がれ、その後2004年に日本ハムに移籍した新庄剛志が「新庄劇場」としてさらにそれを発展させて継承し、新庄の引退後は森本がそれを受け継いだ[46]。
森本も過去の3選手の例と同様に、球場で観戦するファンへのサービスの一環として、それに協力する他の選手も交えて様々なパフォーマンスを披露している。また、2シーズン以上を通じて新庄が本塁打時の談話にて独特の打法名を付けていたのを倣い「 - ホームラン!」[47][48]、適時打の場合は「 - ヒッツ!」[49][50]と付けている。これらのパフォーマンスは劇団ひとりになぞらえ「劇団ひちょり」と呼ばれることもあった[7]。
外野守備では日本ハム時代に左翼手として、中堅・SHINJO、右翼・稲葉篤紀との外野陣を2005年に10数試合、SHINJOの現役最終2006年には1年を通して形成し[61]、3人揃って2006年度ゴールデングラブ賞を受賞した(同一チーム選手での同賞の外野手部門独占は1978年・阪急ブレーブス以来、史上2回目)。中堅のSHINJOとは「左中間への深い打球を捕球→体勢が悪い時は相手にトス→トスを受けた方が補殺を狙う」という連携を時折行ったが、肩は強くなかったと自認している[62]。
上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は、松坂世代の中で一番強い中堅手として「僕よりセンター上手い人いないでしょう」と自身の名を挙げた[63]。
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | 日本ハム | 7 | 16 | 13 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .154 | .313 | .385 | .697 |
2001 | 65 | 148 | 133 | 16 | 33 | 4 | 2 | 1 | 44 | 9 | 11 | 2 | 3 | 1 | 9 | 0 | 2 | 35 | 2 | .248 | .303 | .331 | .634 | |
2002 | 66 | 66 | 60 | 6 | 10 | 3 | 0 | 1 | 16 | 5 | 5 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 3 | 16 | 0 | .167 | .215 | .267 | .482 | |
2003 | 61 | 151 | 133 | 21 | 26 | 2 | 1 | 4 | 42 | 16 | 3 | 2 | 3 | 0 | 14 | 0 | 1 | 48 | 2 | .195 | .277 | .316 | .593 | |
2004 | 78 | 71 | 58 | 19 | 11 | 3 | 0 | 0 | 14 | 3 | 1 | 2 | 0 | 0 | 12 | 0 | 1 | 24 | 3 | .190 | .338 | .241 | .579 | |
2005 | 103 | 325 | 295 | 48 | 78 | 10 | 3 | 7 | 115 | 25 | 9 | 2 | 5 | 1 | 22 | 1 | 2 | 82 | 3 | .264 | .319 | .390 | .709 | |
2006 | 134 | 595 | 520 | 84 | 148 | 28 | 6 | 9 | 215 | 42 | 13 | 9 | 21 | 5 | 46 | 1 | 3 | 103 | 4 | .285 | .343 | .413 | .757 | |
2007 | 144 | 660 | 584 | 91 | 175 | 27 | 3 | 3 | 217 | 44 | 31 | 3 | 17 | 6 | 47 | 1 | 6 | 111 | 6 | .300 | .355 | .372 | .726 | |
2008 | 121 | 549 | 478 | 66 | 121 | 15 | 1 | 0 | 138 | 21 | 12 | 7 | 17 | 1 | 49 | 1 | 4 | 81 | 5 | .253 | .327 | .289 | .616 | |
2009 | 107 | 404 | 316 | 50 | 78 | 14 | 4 | 1 | 103 | 29 | 9 | 2 | 43 | 0 | 43 | 0 | 2 | 52 | 2 | .247 | .341 | .326 | .667 | |
2010 | 115 | 505 | 408 | 65 | 111 | 11 | 3 | 2 | 134 | 30 | 10 | 3 | 55 | 1 | 36 | 0 | 5 | 71 | 12 | .272 | .338 | .328 | .666 | |
2011 | 横浜 DeNA |
48 | 153 | 134 | 13 | 25 | 3 | 1 | 1 | 33 | 9 | 0 | 1 | 9 | 1 | 8 | 0 | 1 | 42 | 4 | .187 | .236 | .246 | .482 |
2012 | 108 | 230 | 201 | 20 | 49 | 5 | 1 | 3 | 65 | 18 | 0 | 2 | 4 | 1 | 20 | 0 | 3 | 44 | 6 | .244 | .320 | .323 | .643 | |
2013 | 4 | 5 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2014 | 西武 | 99 | 173 | 147 | 19 | 37 | 8 | 3 | 0 | 51 | 13 | 2 | 2 | 9 | 0 | 16 | 0 | 1 | 42 | 0 | .252 | .329 | .347 | .676 |
2015 | 12 | 15 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | .143 | .000 | .143 | |
通算:16年 | 1272 | 4066 | 3497 | 521 | 904 | 133 | 28 | 33 | 1192 | 267 | 106 | 39 | 188 | 18 | 328 | 4 | 34 | 760 | 50 | .259 | .327 | .341 | .669 |
年 度 | 球 団 | 一塁 | 外野 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2000 | 日本ハム | - | 6 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2001 | - | ||||||||||||
2002 | - | ||||||||||||
2003 | - | ||||||||||||
2004 | - | 67 | 40 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
2005 | - | 97 | 179 | 6 | 1 | 1 | .995 | ||||||
2006 | - | 134 | 251 | 9 | 1 | 2 | .996 | ||||||
2007 | - | 143 | 342 | 15 | 2 | 3 | .994 | ||||||
2008 | - | 121 | 258 | 4 | 3 | 0 | .989 | ||||||
2009 | - | 106 | 187 | 6 | 2 | 1 | .990 | ||||||
2010 | - | 114 | 184 | 11 | 2 | 1 | .990 | ||||||
2011 | 横浜 DeNA |
- | 40 | 85 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2012 | - | 90 | 117 | 4 | 3 | 1 | .976 | ||||||
2013 | - | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
2014 | 西武 | 49 | 223 | 9 | 1 | 18 | .996 | 35 | 35 | 1 | 0 | 0 | 1.000 |
2015 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 10 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
通算 | 50 | 225 | 9 | 1 | 18 | .996 | 1144 | 1893 | 64 | 18 | 9 | .991 |
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