枚方市
大阪府の市 ウィキペディアから
大阪府の市 ウィキペディアから
枚方市(ひらかたし)は、大阪府北東部、北河内地域に位置する市。北河内地域における中心的な衛星都市であり中核市に指定されている。
ひらかたし 枚方市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
ひらかたパークの大観覧車 | |||||
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 近畿地方 | ||||
都道府県 | 大阪府 | ||||
市町村コード | 27210-8 | ||||
法人番号 | 8000020272108 | ||||
面積 |
65.12km2 | ||||
総人口 |
389,861人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 5,987人/km2 | ||||
隣接自治体 |
寝屋川市、交野市、高槻市、三島郡島本町 京都府:八幡市、京田辺市 奈良県生駒市 | ||||
市の木 | 柳 | ||||
市の花 | 菊、桜 | ||||
市の鳥 | カワセミ | ||||
枚方市役所 | |||||
市長 | 伏見隆 | ||||
所在地 |
〒573-8666 大阪府枚方市大垣内町二丁目1番20号 北緯34度48分52秒 東経135度39分02秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
特記事項 |
世帯数:176,715戸(2016年1月31日) 市の花「菊」・市の木は1967年制定 市の鳥は2002年制定、市の花「桜」は2007年制定 | ||||
ウィキプロジェクト |
かつては人口は約40万人で大阪市、堺市、東大阪市に次いで府内第4位の人口を擁していたが、2019年に40万人を割り豊中市に抜かれたため、現在では約39万人で府内第5位の人口を擁している[1]。
「枚方」の語源については、市の公式ウェブサイトでは「不明」としているが、『日本書紀』や『播磨国風土記』などの古記にも「ひらかた」「枚方」という地名が見られ、古くから使われている地名である[2]。
京都府・奈良県との府県境に位置する。2014年4月1日に中核市に移行した。江戸時代には京街道 (大坂街道)の宿場町である枚方宿が置かれ、かつて北河内郡役所も所在した北河内地域及び京阪間の中核的なベッドタウン(郊外住宅都市)として発展した。七夕伝説やひらかたパーク、また6つの大学、全国高校ラグビー大会の優勝校、バレーボールVリーグパナソニックパンサーズの本拠地がある。京阪グループが運営するひらかたパーク(通称:ひらパー)は現在まで続く、日本最古の遊園地である。
市西部は京阪本線で京都市および大阪市と結ばれ、また市東部はJR片町線(学研都市線)で京橋・北新地・尼崎および関西文化学術研究都市の各地区と結ばれる。中心駅は京阪の枚方市駅で、同駅の周辺に中心市街地が広がっている。また市中心部は国道1号(枚方バイパス)、市東部には第二京阪道路が走る。
平成の大合併の際に寝屋川市、交野市との合併が協議され、人口約70万人規模の京阪間の政令指定都市を模索した時期があった(「北河内市構想」)が、住民側の要望は無く合併は実現しなかった。しかし、北河内地域全体の協力関係の強化(例として救急体制の充実)によって住民生活の向上を図っている。
枚方市は、大阪市と京都市のほぼ中間にあたる大阪府北東部、大阪市から京都市に向って約20kmの淀川左岸に位置する。東西12.0km、南北8.7kmの三角形を成しており、面積は65.12km2となっている[3]。
東の生駒山地と西に流れる淀川に囲まれており、市の東側は生駒山地に至る山地、市の中心部から西は大阪平野の北東端となっている。
生駒山地北麓にあたり、北に伸びる長尾丘陵から男山丘陵の山裾と、交野台地、枚方丘陵からなる[4]。
市の地形は標高によって大きく4つに区分される[5]。市の東端部は生駒山地に連なる標高100m以上の山地地区となっており、主に1億数千年前以降に形成された花崗岩類からなる[4]。山地地区の西側は標高50m〜100mの山麓地区となっており、長尾丘陵が広がる[6]。
山麓地区の西側は標高20m〜50mの丘陵地区となっており、天野川を挟んで東の枚方台地と西の香里丘陵が広がっている。市域の大部分がこの丘陵地区となっている[6]。
淀川および淀川に流入する河川の付近は標高20m以下の淀川低地地区となっており、河川の氾濫原が広がっている[6][4]。
丘陵地区の地層は、約200万年前から数万年前の間に繰り返された氷期と間氷期に堆積した大阪層群と呼ばれる地層の内、第2海成層から第7海成層にあたる地層と数種類の火山灰層から成り[4]、東洋象やムカシニホンシカなどの化石が発掘されている[7][4]。
市内を流れる河川の多くは東の生駒山地に端を発す。一級河川である船橋川、穂谷川、天野川も同様に、生駒山地から平行して市内を西流し、淀川に合流したあとに大阪湾に流れ込む。
生駒山地と大阪平野の境界付近には生駒断層帯と呼ばれる活断層帯があり、生駒断層帯に含まれる田口断層、交野断層、枚方断層が市内を南北に縦断する[8]。
田口断層は市北部の男山山地西縁から南南東に伸びたのち南南西に屈曲している。交野断層は生駒山地の西縁を南北に、また枚方断層は香里丘陵西縁から南方に伸び、交野断層と枚方断層はそれぞれ四條畷市付近で生駒断層に連なる[9]。
瀬戸内海式気候区に属し、比較的温暖で降水量は少ない[10]。また夏はヒートアイランド現象の影響により大阪市付近で熱せられた空気が、大阪湾沿岸部からの海風に乗って流入し、枚方市付近で生駒山系に阻まれる。そのため大阪市内よりも気温が高くなる傾向があり、国内で最も高い気温を記録する事もある。冬の積雪はほとんど無い。33℃以上の時間は1980年代は40〜80時間/年だったが、1990年代後半からは150時間/年前後である。
枚方市の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 17.7 (63.9) |
22.7 (72.9) |
26.6 (79.9) |
31.0 (87.8) |
33.3 (91.9) |
36.4 (97.5) |
39.8 (103.6) |
39.6 (103.3) |
37.1 (98.8) |
34.0 (93.2) |
27.3 (81.1) |
25.0 (77) |
39.8 (103.6) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.3 (48.7) |
10.2 (50.4) |
14.1 (57.4) |
20.1 (68.2) |
25.2 (77.4) |
28.1 (82.6) |
31.9 (89.4) |
33.7 (92.7) |
29.3 (84.7) |
23.5 (74.3) |
17.5 (63.5) |
11.8 (53.2) |
21.3 (70.3) |
日平均気温 °C (°F) | 4.9 (40.8) |
5.5 (41.9) |
8.9 (48) |
14.4 (57.9) |
19.4 (66.9) |
23.1 (73.6) |
27.1 (80.8) |
28.3 (82.9) |
24.3 (75.7) |
18.4 (65.1) |
12.5 (54.5) |
7.2 (45) |
16.2 (61.2) |
平均最低気温 °C (°F) | 1.0 (33.8) |
1.3 (34.3) |
4.2 (39.6) |
9.1 (48.4) |
14.4 (57.9) |
19.1 (66.4) |
23.4 (74.1) |
24.4 (75.9) |
20.4 (68.7) |
14.2 (57.6) |
8.1 (46.6) |
3.2 (37.8) |
12.0 (53.6) |
最低気温記録 °C (°F) | −6.2 (20.8) |
−7.1 (19.2) |
−4.4 (24.1) |
−1.1 (30) |
3.2 (37.8) |
9.0 (48.2) |
15.2 (59.4) |
16.4 (61.5) |
9.4 (48.9) |
3.1 (37.6) |
−0.6 (30.9) |
−3.9 (25) |
−7.1 (19.2) |
降水量 mm (inch) | 49.8 (1.961) |
61.6 (2.425) |
106.2 (4.181) |
102.4 (4.031) |
139.1 (5.476) |
194.2 (7.646) |
183.8 (7.236) |
142.5 (5.61) |
158.6 (6.244) |
136.7 (5.382) |
70.5 (2.776) |
53.0 (2.087) |
1,389.5 (54.705) |
平均降水日数 (≥1.0mm) | 5.5 | 6.7 | 9.6 | 9.7 | 10.0 | 12.0 | 11.7 | 8.6 | 10.2 | 8.9 | 6.6 | 6.2 | 105.1 |
平均月間日照時間 | 135.0 | 128.7 | 161.2 | 184.4 | 193.4 | 141.7 | 155.9 | 204.9 | 153.9 | 158.1 | 143.2 | 139.9 | 1,912.2 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年[11]、極値:1977年-現在[12]) |
平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.97%増の407,978人であり、増減率は府下43市町村中12位、72行政区域中27位。
枚方市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 枚方市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 枚方市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
枚方市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
枚方の地名は古く、日本最古級の文献である古事記[13]、日本書紀[13]、風土記[14]などに登場している。
1995年決算から実質収支が赤字になり、1999年度には累積赤字が29.8億円と膨らんだ。財政再建準用団体への転落も危惧される中で財政再建を進められ、2002年度決算で黒字化を果たした。市税収入の前年度割れが続く中、2002年度から2004年度まで3年連続して、実質収支の黒字を計上している。
歳入の大半を占める市税収入は、長引く不況の影響により1997年の651億円をピークとして2004年度まで7年連続して減収が続いており、2004年度の市税収入は544億円である。歳入不足を補うために市債が発行されており、その総額は2004年度までに約148億8800万円に上る。なお、2021年度現在の市税収入は約531億円となっている。
2021年4月現在のラスパイレス指数は98.2(中核市53/62位)である。
1997年4月時点の107.3(1998年、1999年は不明)、2000年4月時点の105.8、2001年4月時点の103.5、2002年4月時点の103.3、2003年4月時点の102.1、2004年4月時点の99.1、2005年4月時点の98.7、2006年4月時点の98.6、2007年4月時点の98.3、2008年4月時点の98.2、2009年4月時点の96.8と、全国的に高水準だったラスパイレス指数の低下が続いており、2021年4月現在においても国家公務員よりも低水準となっている。
平成の大合併では寝屋川市、交野市との合併が協議されたが実現しなかった。またこれとは別に、1980年代に京都府八幡市住民より同市から当市への越境合併の要望があったが自然消滅している。
氏名 | 会派名 | 当選回数 | 備考 |
---|---|---|---|
岩本優祐 | 大阪維新の会大阪府議会議員団 | 1 | |
山田健太 | 民主ネット大阪府議会議員団 | 2 | 党籍は立憲民主党 |
大橋章夫 | 公明党大阪府議会議員団 | 4 | |
岡沢龍一 | 大阪維新の会大阪府議会議員団 | 2 |
2015年の府議選から、定数は5から4に変更された[117]。
枚方市はベッドタウンとして発展してきたが、産業の面からみると製造業の比重が高い産業都市でもある。1978年時点では、従業員数の36.6%を占める製造業が1位であった[118]。
枚方の近代産業は、大正時代に開業した日本メリヤス株式会社と蝶矢シャツ製造所に始まった[63]。
また、戦前から戦中に掛けて、枚方市は軍需産業が盛んであった。明治時代に開設された陸軍禁野火薬庫に始まり[56]、昭和に入ると陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所、東京第二陸軍造兵廠香里製造所が開設された[71][73]。
戦後これらの軍事施設は民間に払い下げられ、大阪陸軍造兵廠枚方製造所(旧陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所)は小松製作所大阪工場に[83]、禁野火薬庫と東京第二陸軍造兵廠香里製造所は、住宅団地としてそれぞれ日本住宅公団中宮団地、香里団地へと生まれ変わった[88]。
戦後、枚方中小企業団地(現・枚方企業団地)、枚方既製服団地(現・枚方紳士服団地)、枚方家具団地などの工業団地が枚方の経済成長を支えた[119]。企業誘致に際して立地を一箇所に集約しなかったため、これらの企業団地はある程度のまとまりがあるものの、市内に点在する形となっている[120]。
しかし産業構造の変化や宅地化の進展により、近年これらの事業所が市外へ移転する事が増えている。枚方の近代産業の先駆けである倉敷紡績枚方工場(旧日本メリヤス)が1996年に、CHOYA枚方工場(旧蝶矢シャツ製造所)が2004年に、それぞれ市外へ移転した。
地域産業の活性化を図るべく、人材育成、起業支援に併せて、津田サイエンスヒルズ(関西文化学術研究都市 氷室・津田地区)への企業誘致などが進められているが、十分な成果が上がっているとは言い難い状況である。
そもそも枚方市は「都心に比較的近く鉄道交通が発達している」という特性を持ち、バブル期より地の利を生かした住宅開発を盛んに行ってきた。これら住宅地に住む労働者の多くが都心通勤者であるため、かねてから昼間人口の都心流出が顕著であった。
さらに近年では1997年のJR東西線開業や2003年の枚方市駅、樟葉駅京阪特急停車化、2008年の中之島線開業など、京阪本線、片町線(学研都市線)の高速化や運転系統・本数の充実化といったサービスアップによって通勤ニーズだけでなく商業・観光ニーズにおいても都心志向が高まり、購買客までも都心へ流出させることとなった(ストロー効果)。
ビオルネ・イオン枚方店(旧枚方サティ→枚方ビブレ→枚方サティ)・京阪百貨店ひらかた店・京阪枚方ステーションモール・ひらかたサンプラザ1号 - 3号・TSUTAYAビルなどの商業施設がならぶ。
これら商業施設の発展の経緯は線路を挟み北口側と南口側に大きく分かれた。北口側には旧京街道が通り、街道沿いに岡東町商店街が賑わいを見せていた。前述の商業施設もまず北口側から開発が進められた[99]。1965年(昭和40年)に枚方駅前デパート[121]、1969年(昭和44年)に長崎屋枚方店[121][94]が開店した。北口側の開発から少し遅れて南口側の開発も進められた。1968年(昭和43年)に三越百貨店枚方店[94]、1970年(昭和45年)にイズミヤ枚方店[94]が開店した。1971年(昭和46年)に可決された市街地再開発事業[121]により、駅前ビル3棟と5000㎡の駅前広場、4700㎡の都市公園が、5年の歳月と113億円を費やして建設された。駅前ビルはひらかたサンプラザ1号館から3号館と名付けられ、2号館には1975年(昭和50年)にひらかた丸物百貨店(後の近鉄百貨店枚方店)が開店した[99]。
1960年代から1970年代に掛けて枚方市駅の乗降客数は急増を見せるが、香里団地などの住宅地を多く抱える南口側に対して、線路で分断され淀川に挟まれた北口側は次第に衰退していった。駅前に大型商業施設が開発された事も相まって岡東町商店街の衰退は著しくなったが、1990年(平成2年) 岡本町再開発ビル「ビオルネ」が完成[105]。1993年(平成5年)には枚方市駅が高架化され、翌1994年(平成6年)には高架下に京阪百貨店枚方店と京阪ザ・ストア枚方店が開店した[108]。北口と南口を分断していた線路が高架化により無くなり、再び北口側に活気が戻るようになってきた。
しかしその後の景気の後退と共に縮小が相次いだ。1996年(平成8年)に北口からほど近い倉敷紡績枚方工場が移転閉鎖。2002年(平成14年)に長崎屋枚方店、2005年(平成17年)に三越百貨店枚方店[注釈 5]、2012年(平成24年)2月に近鉄百貨店枚方店が閉店した[122]。2010年(平成22年)はビオルネの運営会社が倒産している。
2013年(平成25年)4月枚方市駅北口の関西医科大学附属枚方病院(現・関西医科大学附属病院)の隣接地に関西医科大学がオープン。更に枚方市駅周辺の再整備がスタートし、2016年(平成28年)5月に近鉄百貨店跡に枚方T-SITEがオープンした。今後は駅周辺の再整備が進む。
2025年までに枚方市駅北口エリアの再整備を行い、京阪本線、京阪交野線と天野川に囲まれたデルタと呼ばれる地帯に商業施設、ホテル、オフィスなどが入る高層ビルを建設予定。また、北口ロータリーの混雑緩和のため、広くする予定。
南口エリアの再整備は後に開始され、市役所の移設も含まれる。
中核市で216億円の負担は異例と言われている[誰によって?]。
1967年より京阪電気鉄道によって「くずはローズタウン」の住宅開発が行われ、引き続いて百貨店(松坂屋くずは店)、スーパーマーケット(ダイエー、イズミヤ)、専門店を含む沿線最大級のショッピングモール・くずはモール街が開発され、1972年4月に開店した[93]。
しかし建設から30余年を経過した2004年にいったん閉鎖、松坂屋くずは店は撤退した[122]。
2005年に「KUZUHA MALL」として全面改装[123]、それにあわせて京阪本線の特急列車が停車するようになり、一時は沈滞化していた樟葉周辺も再び活気付くようになった。樟葉周辺は樟葉パブリック・ゴルフ・コース、超高層マンション、ローズタウン、その他商業施設など大半が京阪による開発である。
交通量が多く、多方面から集客できるため、娯楽施設や飲食店が多く立ち並ぶ。高野道周辺にはラウンドワン、フォレオひらかた(核店舗は「シネプレックス枚方」「GOLF5」「スポーツデポ」など)などがある。
また、その他商業施設が相次いでオープンする。2016年には、国内最大級の規模であるニトリモール枚方がオープン。
東部地域では伝統産業である河内そうめん製造と酒造業が行われていた。
河内そうめんは、奈良の「三輪素麺」や兵庫の「揖保乃糸」などと共に知られる手延べそうめんである。天和年間(1681年〜1683年)に大和国三輪から伝えられた素麺製造技術が基になっている。
耕地の少ない旧交野郡津田村を中心として農閑期の副業として栄え、最盛期には約80軒で生産されていた。遠く近江や尾張にまで販路を広げていたが、近年は生産農家の高齢化が進み後継者不足が問題となっており、2003年時点では津田地域に三軒、穂谷地域に一軒を残すのみとなっていた。その当時、出荷量が限られているため市販されていなかった。その後も生産者の減少は続き、伝統を受け継いでいた最後の一軒が2012年に廃業したことで、古くから続いた生産者は途絶えた。その後、地元在住者が技術と生産の継承に取り組んでいると報じられている[124]。市立枚方宿鍵屋資料館では夏季限定で河内そうめんを有料で食べることができる[125]。
津田には河内そうめんの発展に貢献した山下政右衛門(後に政太)の碑「山下翁頌徳碑」が残る。
生駒山系の良質な地下水を生かして酒造も行われていた。1921年頃は小北酒造場(菅原村)、田中酒造場(氷室村)、米山酒造所(同)、池尻酒造所(津田村)、山本酒造所(同)、高地酒造所(樟葉村)の6軒[126]。また1970年代まで小北酒造場(藤阪元町、「菊人形」「寿賀天杯」)、田中酒造場(尊廷寺、「谷川」)、池尻酒造(津田元町、「成功正宗」)、津田酒造(津田元町、「枚方自慢」「みや鶴」)、重村酒造場(穂谷、「富士霞」「穂谷」「淀菊」)という5つの造り酒屋が存在した。津田酒造のみや鶴は1995年の全国新酒鑑評会において金賞を受賞する実績を残している。
しかし1990年代半ばまでに重村酒造場を残し、その他は全て廃業した。住宅地図[127]において酒造業としての記載が最後に残されているのは、池尻酒造は1979年[注釈 6]、田中酒造場は1983年[注釈 7]、小北酒造場は1992年[注釈 8]、津田酒造は1994年[注釈 9]となっている。
最後まで残った重村酒造場も2012年3月で廃業し、枚方市内から酒造業者は消滅した[128]。
江戸時代の幕末期、枚方市域では41の寺子屋があり、比較的裕福な層の子供に対して、習字や読書、算盤を教えていた。師匠は僧侶が多く、農民や医師もその役を担った[129]。
また専門的な知識や技能を教える私塾として、中宮村の南明堂、坂村の岡田本房塾、同村の言順堂が開設されていた。南明堂は享保年間(1716-1736年)に医師の行田(なめだ)義斎により設立された、枚方でもっとも古く設立された私塾である。岡田本房塾は天明・寛政期(18世紀末)に岡田本房により設立された。岡田家は代々一宮神社(片埜神社)の祠官であり、岡田本房は旗本水野氏の坂村陣屋の代官を務めていた。言順堂は代々医師であった三浦家により設立され、医師であった三浦元道が教化に務めた[130]。
枚方市では、ベッドタウン化により1950年代から1970年代に掛けて急激に人口が増加した[100]。
そのため小中学校の不足が深刻化し、各地の小中学校には臨時のプレハブ教室が大量に作られる事態となった。児童の増加に対応するため新設校の設立や増築が進められ、1980年代には教室の不足が解消された。
小学校の児童数は1980年代を頂点として一転して減少に転じ、次第に少子化傾向が顕著になるに従い学級数が減少した。空き教室の増加も問題となり、1999年に学校の統廃合が行われた。しかし、少人数による利点・長所を生かし、原則として今後統廃合はされない見通しである。2004年には中学校校区の弾力化が行われ、小学校最終学年で志望中学の希望調査が行われる。
また、市立学校全てにコンピュータールームの導入、ALTによる英語教育、少人数授業などには古くから積極的である。
かつて高校の進学指導において高槻・枚方方式と呼ばれた総合選抜を擬似的に再現する地元集中という考え方を用いていた。
さらに2008年度より枚方市立の小中学校の全教室に冷暖房が設置し、快適な学習環境の確保が可能となった。また子供たちが思いっきり運動場で遊べるよう、全小学校でみどりのじゅうたん事業と称して、校庭を一部芝生化している。これには、外気温低下の効果も期待されている[誰によって?]。
全国学力調査では、枚方市の平均値は全国平均・大阪府平均を上回っており、今後も先進的教育のまちとしての地位を確立し、枚方市の子供たちの学力向上を図るための教育政策として、より充実した授業展開が行えるよう電子黒板の導入や夏季休業日を6日間短縮、冬期休業日を1日ずらすなどの取り組みがなされている。
なお、関西地方の学校は制服・標準服を定めていることが多いが、枚方市の学校は基本的に私服登校が可能。
また、漢字を日本に伝えた王仁博士の墓とされる大阪府史跡「伝王仁墓」[131]が市内にあることにちなみ、「漢字のまち枚方」としての特色を全国に発信しようと、平成15年度より「心に残る漢字一文字作文コンクール」(現・「漢字をテーマに思いを伝える作文コンクール」)を実施するなど、さまざまな取り組みを行っている。
古くから大阪-京都の交通を支える要所であり、江戸時代の枚方市域には京街道、東高野街道、山根街道、磐船街道、宇治街道などの街道が通っていた[132]。
1982年から国道168号となった道路は磐船街道と呼ばれ、枚方から交野を経由して奈良県に至る街道であった。古代、交野ヶ原と呼ばれた時代には、王朝貴族が遊猟をする際に使われたという[133]。
東高野街道は、平安時代の官道である南海道を起源とする、中世の京阪間を結ぶ主要な街道であった。京都から高野山への巡礼街道であり[133]、京都から洞ヶ峠を越えて枚方に入り、枚方台地の中央部を縦断した後、生駒山地沿いに南下、河内長野で西高野街道に合流し、高野山に至る。高野山に修行に向かう京の僧侶、参拝に向かう貴族、やがて武士や商人、一般庶民までも高野山に向かって歩いたという。1966年以降、国道1号(洞ヶ峠〜出屋敷)、大阪府道18号枚方交野寝屋川線(出屋敷〜茄子作)、大阪府道20号枚方富田林泉佐野線(茄子作〜中野)に相当する。出屋敷周辺には、かつての面影が残されている。[134]
山根街道は、洞ヶ峠から東高野街道と分岐して津田を経由し、私部に至る街道であり、山麓地区の村々を結ぶ街道として利用された。私部を過ぎ、茄子作の東で東高野街道に合流する[133][134]。
宇治街道は、枚方・田口・長尾を経て、荒坂山を超えて八幡から宇治に至る街道である。「荒坂嶺道」(あらさかとうげみち)や「長尾道」とも呼ばれる[132][134]。
1594年に文禄堤が整備され道路としても利用されるようになると、更に江戸時代にはこの道路を用いて京街道が整備された。京街道は東高野街道に代わって京阪間の幹線道路として利用されるようになり、枚方の発展に大きく寄与する事となる[135]。
京街道は1932年に京阪国道として整備され、(旧)国道1号と称されたのち、1966年に枚方バイパス(国道1号)開通後は、大阪府道13号京都守口線となった[68]。
枚方バイパス(国道1号)は洞ヶ峠から市内を縦断しているが、主要な交差点が立体交差となっていない事も影響し渋滞が頻発している。2010年に全通した第二京阪道路などによる渋滞緩和が期待されている[136]。
江戸時代には京街道と共に淀川を利用した水運も盛んに利用されており、淀川を往来する舟運の要衝としても栄えた。
京都の伏見港と大阪の八軒家を結ぶ客船である三十石船を初め大小様々な船が行き交い、枚方浜(三矢浜)、樋之上浜(楠葉浜)、出口浜(松ヶ鼻浜)、渚浜、磯島浜といった船着場が設けられていた。枚方浜は鶴屋という船宿があった事から鶴屋浜とも呼ばれ、公用にも使われる重要な船着場だったという[137]。
行き交う船に近づき餅や酒を売りつけるくらわんか舟が名物になったのもこのころである。その様子は、シーボルト「江戸参府紀行」、十返舎一九「東海道中膝栗毛」[46]、歌川広重(安藤広重)「京都名所之内 淀川」「六十余州名所図会 河内 牧方男山」を初め、多くの紀行文などに記されている[47]。
淀川の対岸との交通は、1930年に(旧)枚方大橋が開通するまでは、渡し舟が唯一の交通機関だった。高浜の渡し(楠葉の渡し)、鵜殿の渡し(下島の渡し)、前島の渡し、磯島の渡し、大塚の渡し(枚方の渡し)、三島江の渡し(出口の渡し)で対岸と結ばれていた。高浜の渡しは古事記にも登場する古い渡し船であり、上流の山崎の渡し(橋本の渡し)と共に、西国街道と京街道を結ぶ重要なものだったという。大塚の渡しが枚方においてもっともよく利用され重要な渡し舟だった[138]。
明治時代には蒸気外輪船が登場し鍵屋浦と鶴屋浜が船着場だったが、鉄道の開通や自動車の発達、道路の整備に伴い、次第に陸上輸送に取って代わられるようになった。
近年、観光や緊急時の輸送手段の確保などのため淀川の舟運を復活させようとする運動が進められている。2000年11月には枚方市の呼びかけにより、大阪府および京都府の淀川沿いにある9市1町が参加する「淀川舟運整備推進協議会」が設立された。2017年9月には京阪天満橋駅付近の八軒家船着場との間に定期運航船が就航し、月に一回程度の頻度で運航されている。
鉄道については、1898年に現在の片町線[57]が、1910年に京阪本線が開業[60]し、それまで主に淀川の舟運によっていた京阪間の客貨輸送に代わることとなった。また、片町線については、市内に所在していた陸軍の施設(香里製造所や禁野火薬庫)への軍需輸送も担っていた。戦後はベッドタウン化による急激な人口の増加により、通勤通学の足として重要な役割を果たした。枚方市駅は京阪本線内で第3位の乗降客数を持っている。京都と大阪のほぼ中間地点という地理的条件や京阪特急停車駅化により、枚方市駅から京阪京橋駅へ特急で最速15分(準急で23分)、京阪丹波橋駅へ特急で最速18分(準急で26分)という大幅な時間短縮となった。
1929年には、信貴生駒電鉄枚方線(後の京阪交野線)が開業した。元々は奈良県の生駒駅まで結ぶ計画であったが、延伸されないまま計画は中止された[66]。
中心となる駅:枚方市駅
京阪バスが市内だけでなく、空港連絡線や長距離線などを運転している。
1979年の機物神社での七夕まつりの再開以降、平安時代のころ、「交野ヶ原」(かたのがはら)と呼ばれていた枚方市から隣接する交野市にかけての一帯で、「七夕伝説ゆかりのまち」として、まちおこし活動が活発に行われてきた。
現存する文献では、伊勢物語第82段で詠在原業平が詠んだとされる「狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は来にけり」の和歌が、七夕伝説と交野ヶ原を結びつける最古のものとされている[139][140]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.