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日本の江戸時代中期~後期の武士。信濃上田藩初代藩主松平忠周五男で、塩崎松平氏初代当主(信濃更級郡5000石)。従五位下民部少輔。御側・執啓・御小姓組番頭格等を歴任 ウィキペディアから
松平 忠容(まつだいら ただやす)は、江戸時代中期の大身旗本(旗本寄合席)。信濃上田藩主・松平忠周の五男で、兄の忠愛から更級郡川中島(塩崎知行所)5000石を分知された。
享保7年(1722年)、信濃上田藩主・松平忠周の五男として誕生した[1]。享保13年(1728年)年5月1日、父の忠周が死去。
享保13年(1728年)6月15日、上田藩主を継いだ兄の忠愛は、父の遺領から5000石を弟の忠容(当時7歳)に分知した[3]。このとき分知されたのが更級郡にあった飛地「川中島領」1万石[注釈 1]のうちの5000石で、塩崎村、今井村、上氷鉋村、および中氷鉋村の一部である[3]。知行地は「塩崎知行所」と呼ばれる[3][4]。現地任用の代官・割番などが政務にあたった[4]。
元文2年(1737年)8月25日に徳川家治の小姓となり[1]、8月28日に従五位下・民部少輔に叙任[1]。
宝暦6年(1756年)2月21日、昵懇の列に連なり、小姓組番頭格となった[1][5]。5月21日より西丸側役となり、諸事執啓を務める[1]。9月26日に執啓を[1]、10月18日に御側を[1]それぞれ免じられ、10月29日に致仕した[1]。致仕号は笠翁[1]。跡は忠常が継いだ。
安永10年(1781年)1月23日、60歳で死去[1]。江戸・西久保(現在の東京都港区虎ノ門)の天徳寺に葬られ、以後代々の葬地となった[1]。ただしその後改葬があったらしく、忠容の墓誌を刻んだ「松平祖先之墓」が谷中霊園に存在している[6]。
陣屋の置かれた塩崎村(現在の長野市篠ノ井塩崎)は[3][4]、『元禄郷帳』で村高2800石余という大きな村であったが[7]、他方、塩崎村は千曲川の洪水常襲地帯であり、享保16年(1731年)の「亥年の大水害」、寛保2年(1742年)の「戌の満水」などが大きな水害として記録されている[7]。
寛保3年(1743年)、忠容は蔵米知行に改められ、「塩崎知行所」は一旦は幕府領となっているが[4]、宝暦6年(1756年)に再度地方知行となり、塩崎知行所が復活する[4]。
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