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松富久亭(笑福亭) 松竹(しょうふくてい しょちく)は、上方落語の名跡。笑福亭一門の祖である。4代目の死後は、空き名跡となっている。
現在の所、初代松竹の生没年・詳細等は一切残されておらず、実在についても不明。しかし、安政年間(1854年~1860年)には、門下に初代笑福亭吾竹、初代笑福亭松鶴が登場する。共に亭号を「松富久亭」から「笑福亭」に改めた。2代目以降は笑福亭松竹となるが、便宜上、この項で一括して扱う。
大阪では「学校」を「がっこ」と読むなど母音を省略するのが一般的で、この松竹も「しょうちく」ではなく「しょちく」と読むのが正式な読み方である。
4代目 笑福亭松竹(1892年 - 没年不詳・昭和中期)は、本名: 瀬尾伝治郎(昌平の諸説あり)。享年不詳。
4代目笑福亭松鶴の門下で、初代鶴光を名乗る。後に所属の吉本興業を離れ、地道に活動を続ける。1930年に4代目松竹を襲名。その後はラジオに時々出演するのみで、活動実態はほとんどなかった模様である。
5代目笑福亭松鶴主催の「楽語荘」が始まると、真っ先に参加した。戦時中は木炭商を営む一方、慰問団の結成や、陸軍病院の巡回などの活動により、表彰されている。
戦後も、1950年頃までは特別な会に時々出ては、珍しいネタ『十日戎』『大和橋』などをやっていたという。特に『宿屋仇』を得意としていた。
6代目笑福亭松鶴の門下。松竹は「まったけ」と読む。そのため代数に数えることはない。本名: 中埜浩三。
1951年7月11日生まれ、大阪府立三国丘高等学校卒業。1974年3月に入門、梅田のトップホットシアター寄席にて初舞台。しかし1978年3月には廃業した。
廃業後も他の弟子と僅かながら交流があり、2011年に笑福亭小つるが6代目笑福亭枝鶴を襲名した際には、大師匠にあたる5代目松鶴編集の「上方はなし」をプレゼントしに楽屋にやってきている。
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