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日本の実業家、政治家 ウィキペディアから
木村 荘平(きむら しょうへい、幼名・鹿蔵[1]、1841年7月 - 1906年(明治39年)4月27日[2])は、山城国(現在の京都府)出身の商人(牛肉商)[3]、政治家(芝区会議員、東京市会議員、東京府会議員)[4]、実業家である。当時日本最大の牛鍋チェーン店「いろは」を経営し、「いろは大王」と謳われた。いろは合資会社代表社員[2]、火葬場経営の東京博善社長、獣肉競売の豊盛会社社長、東京売肉問屋組合頭取、東京家畜市場理事、東京本芝浦鉱泉専務、東京製革、東海水産各発起人などを務めた。
1841年(天保12年)7月、山城国伏見(現在の京都市伏見区)に農家・庄兵衛の第二子・鹿蔵として生まれる[1][5]。幼時より喧嘩、口論を好み、7歳で寺子屋に預けられたが学業は不振で、3年間の勉学の後も自らの姓名しか書けなかったと伝えられる[1]。1851年、10歳で山城国内茶商得意廻り手代専務者に付添って製茶売り捌き業を見習い、13歳で独り立ちして、丹波国製茶家等より買入れた茶を山城で売り始めたが、遊蕩に浸り、父の実家に引き取られる[5]。16歳で1855年に力士を志して家出し、大坂の小野川秀五郎に入門したが、程なく生家に連れ戻され家業を継ぎ、18歳で独立して伏見で青物屋を開き、名を荘平と改める[5]。
1861年には青物問屋23軒の組合を作って取締役となり、幕末に京に増えた勤王佐幕諸藩の賄いを請け負ううち、1868年の鳥羽・伏見の戦いで伏見に駐在する薩摩藩の用達を務め、売掛金を踏み倒されるが、この縁がのちの東京での成功につながる[5]。
明治に入ると伏見の薩州物産所の払い下げを受け、私立茶商会と改めて生茶貿易を専業とし、1870年(明治3年)、仲間と神戸栄町に茶商貿易「丸力栄蔵」を開店、オランダ人と組んで海外輸出も始め、神戸港で汽船問屋「丸正」と茶商「森田軒」も始める[5]。1873年(明治6年)、島田組茶店と合併し、嘉納治郎右衛門と島田組出店を開くも、翌年島田組の瓦解で合併を解消し、鳥取に米商会所を開設し、鳥取藩の御用達を務めていた神戸の回漕問屋「松尾松之助」と組んで鳥取県の為替方を請け負うも、数か月で辞任し神戸に戻り、「花香見(はながみ)新聞」を発行する[5][6][7]。
1878年(明治11年)、内務卿・大久保利通の懐刀と呼ばれた薩摩藩出身の東京警視庁大警視(のちの警視総監)の川路利良に呼ばれ、屠場や食肉市場の調査を依頼された。東京府内の屠場は明治9年に警察庁の管轄となっており[8]、明治10年には浅草千束の官営屠場1か所に統合されていたが、近隣住民の抗議や整備費用が問題となっていた。また、同年より官営の三田育種場で牛・馬・羊・豚の飼育のほか、馬匹改良を目的に競馬会を行なっていた[9]。官営屠場は明治13年に荘平らに年賦で払い下げられ、同年荘平は興農競馬会社も設立した。荘平経営の屠場は明治16年に芝浜に移転し、食用牛の屠殺場「豊盛社共同屠場」となり、明治20年には白金の屠場も買収したが、同年末に東京家畜会社に売却した[10]。
明治13年から牛鍋チェーン店「いろは」を経営。芝区三田四国町(現在の港区芝3丁目)の一号店(第一いろは)をはじめとして、東京市内22箇所にのぼる支店にそれぞれ妾を配置して各店の経営にあたらせた。傍ら、東京府下15区6郡の肉問屋を糾合して東京諸畜売肉商組合を結成すると共に、1887年(明治20年)には東京家畜市場会社の理事に就任。
同年、日暮里村の火葬場運営を請け負う東京博善会社を設立。理事を経て社長となる。さらに同年、日本麦酒醸造会社を設立し、社長に就任。明治26年、岩谷松平、竹中久次とともに、白金と田中町屠場(旧千束屠場)を合併し、「日本家畜市場会社」を設立[11]。また、ほかにも東京本芝浦鉱泉株式会社を経営、同社の温泉付旅館「芝浜館」と料亭「芝浦館」は、芝浦埋め立て以前のリゾート施設として成功した。
いろは合名会社業務担当社員[3]、東京家畜市場会社理事[5][12]、東京諸畜売肉商(肉卸問屋)組合頭取、東京博善株式会社取締役社長[3][4]、東京本芝浦鉱泉株式会社(温泉つき割烹旅館)社長、日本麦酒醸造会社(ヱビスビール)社長、東京商業会議所議員、日本商家同志会顧問などをつとめた。
政治的には星亨の派閥に属し、1896年(明治29年)、東京市会議員に当選。東京府会議員から衆議院進出を計画していた矢先、1906年(明治39年)4月27日に顎癌で死去。享年67。墓所は港区正覚寺。
近所に住む火消しの元親分らが穴守稲荷のご利益を吹聴するのを聞いて、参拝したのをきっかけに穴守稲荷の講員となり、講の組織化に取り組むとともに、大鳥居を寄進するなど、穴守稲荷の発展に力を尽くし、「穴守神主」の異名を授かった[13]。
1886年(明治19年)に木村荘平ほか23名で結成した「イロハ講」は穴守稲荷最初の講社となり、後に「東京元講(穴守元講)」と改称し、3年ほどで東京市芝区の講元を中心に麻布区、京橋区などの住民数千人の講員を擁する有力講社となった[14]。その発展を讃えて、1886年(明治19年)には社殿と瑞垣を、1888年(明治21年)には絵馬舎を奉納している[15]。
荘平氏は自分で筆を執つて大畧の寸法を定め、偖歸宅してから直に日頃出入りの棟梁向井、市川の二人を呼寄せ、深川の木場へやつて材木を探がさせると共に、自分の處の空地へ七五三縄を張り渡して、棟梁連には烏帽子直垂を着せて古式に依り墨縄の式を行ひ、一ケ月餘を費して出來上がったのを牛車五臺で持運んだのが、現に石橋の所に蘇然と立つて居る華表である。 — 『穴守稲荷 : 信仰美談』より
満都の士女は恐らく穴守稲荷を知らぬものはあるまい。穴守稲荷は今や都下を始として地方に多くの信徒を有し川崎の大師と対峙して非常に繁昌して居る。此の穴守稲荷は府下荏原郡羽根田村鈴木新田の並木土手に在り、以前は人跡すら絶えゞいと古びたる祠であって、一時は土地と共に抵当流れとなりかけて居たのであったが、氏は風の便りにこの稲荷の功験の著しき由を聞き、信徒及び世話人を集めて新たに祠を建て、穴守神社と云ふ額を掲げ、一大鳥居を建設し、講社を結び穴守元講なる信者の団体を組織して約一千の講員を募り、氏自らが京都伏見に赴きに御神体を受け来って祀り、神官に乞ふて時々神道講義をさせて居たが、軈て名は遠近に聞へて参詣するもの次第に多く、始め鳥居は氏が建設せしのみであったのが今では数千万を以て数ふる鳥居となり、寂しき漁村であったのが賑やかなる村落となり、参詣の善男善女は四六時中絡駅たる有様となった。之れぞ全く氏の力で、村民は氏を尊敬する余り同神社をいろは稲荷と呼んで居るさうであるが、近々君が徳を頌して穴守稲荷の境内に其銅像を建設するといふことである。 — 明治41年刊 松永敏太郎編『木村荘平君伝 氏と穴守稲荷』より
牛鍋店の支店における妾の間に産まれた子供は計30人(男11人、女16人、早世3人)に上る。住所は東京市芝区三田四国町[3][4][12]。
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