木の実 ナナ(きのみ ナナ、本名:池田 鞠子(いけだ まりこ)[1]、1946年〈昭和21年〉7月11日 - )は、日本の女優、歌手である。東京都・向島区寺島町(現在の墨田区東向島)出身[1]。所属事務所はダンカンミュージック。身長160cm。B85cm、W59cm、H86cm[2]。城西高等学校中退[3]。
概要 きのみ なな 木の実 ナナ, 本名 ...
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父はトランペット奏者[4]、母は踊り子[4]。父が19歳、母が20歳の時に生まれた。体が弱く、3歳まで歩けなかった[5]。その後、身体を鍛えるために5歳からバレエを始めると直ぐにのめり込み、ダンサーに憧れを持つ。花柳界の中で育ったため[4]、芸者が夏の時期に浴衣に手桶を持って銭湯に行く姿を見て、「カッコイイナー」と思い[4]、大きくなったら絶対に芸者になろうと決心していた[4]。
中学3年生16歳[4]の時に渡辺プロダクション主催の新人オーディションがジャズ喫茶「新宿ACB」で開催され、友人の付き添いで参加[4]。受験する友人は緊張の余り固まってしまい、困った司会者より「じゃあ! 君が代わりに唄って!」と指名され、堂々とした唄いっぷりもあって優勝した。その後、猛反対する父親を「絶対に半端なことはやりません」などと説き伏せ[4]、芸能界入りした。このため30歳過ぎても親に仕事の話をすることはなかったという[4]。この頃にザ・ドリフターズの専属歌手として唄っていたこともあるという[6]。
デビュー曲は「東京キカンボ娘」(1962年8月10日、菊村紀彦作詞・作曲)[2]。「木の実ナナ」の芸名は、この時に菊村によってつけられた。漢字、ひらがな、カタカナの三つがそろった名前は、菊村が「歌だけでなく、踊りも芝居もできる人になってほしい」という思いを込めたものだという[7]。「着の身着のまま」が芸名の由来という説は、自身が否定している[注釈 1][7]。
1962年、音楽番組『ホイホイ・ミュージック・スクール』(日本テレビ)でテレビデビュー[4]。当時、この番組のイメージにより「ホイホイ娘」と呼ばれていた。当時は歌番組も少なく[4]、歌って踊れる木の実は貴重な存在だった[4]。「(1978年のインタビューで)芸能界も変ったなと思いますね。今は楽になったわね。私の新人のころときたら、楽屋の真ん中に座るな、スタジオの中で男と話をするなとか、いつも怒られてばかりよ。昔を思い出すと辛いけど、プラスにはなっています」などと話している[4]。人気アイドルがテレビ局を飛び回り、寝る時間もないというエピソードは、70年代以降の話だという[4]。1967年には「ミニ・ミニ・ロック」[8]という曲が小ヒットし人気を集めたものの番組終了と同時に低迷、前座歌手をする日々が続く。ヒット曲になかなか恵まれず、心機一転として1970年に本場のショー・ビジネスを学ぼうと決意し渡米する。
1973年、帰国後に劇団四季のミュージカルに自ら応募し、同年『アプローズ』に出演する。これがヒット作となり、自身も高い評価を受けて舞台女優としての地位を確立した。この時に主演を務めた越路吹雪とは、共演を機にプライベートでも親しく付き合うようになり、多大な影響を受けたという。以後、多数のミュージカルに出演するようになった。
1974年から始まった、細川俊之との歌と踊りとしゃれた会話でつづる二人芝居『ショーガール』は16作品、公演数547回、観客動員数は60万人を超す大ヒットとなる。1975年、芸術選奨新人賞受賞。1976年、紀伊國屋演劇賞受賞。
1975年、小沢昭一主宰の劇団「芸能座」の旗揚げ公演『清水次郎長伝・伝』に参加する(次郎長の妻・お蝶役)。小沢、加藤武、山口崇、山谷初男、猪俣光世、音楽担当の神津善行、薗田憲一とデキシーキングス、座付き作者の永六輔らと共に旅興行に出る(飯塚・嘉穂劇場など)[9]。
1977年頃、西田敏行や武田鉄矢と共に、バラエティー番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』に出演し、コントを披露する。また、1982年の五木ひろしとのデュエット曲「居酒屋」は大ヒットを記録した。
1992年、自伝エッセイ『下町のショーガール―ナナの愛と喝采の日々』が、NHKTVにて『六畳一間一家六人』の題名でドラマ化(全11回)し、自らも主人公の母親役で出演。
2015年、舞台『南阿佐ヶ谷の母』の沖縄公演終了後の10月24日に左大腿骨を骨折する。11月3日からの紀伊國屋ホールの公演では、演出を変更して車いすで出演した[10][11]。
- 墨田区立寺島中学校卒業、城西高等学校中退。
- 出身地付近は鳩の街と呼ばれた歓楽街だった。幼少期は、彫りの深い独特の顔立ちから混血児に間違えられ、いじめられた経験がある。
- 読売新聞1978年9月3日付のインタビューでは「好きな男性のタイプは高倉健さん(木の実は年上でも年下でも相手をさんづけで呼ぶ[4])。あと最近出演した『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』の山田洋次監督さんも理想の人物。もし山田さんが離婚したら、『結婚して!』と胸にすがりつくかも」と物騒なことを言っていた[4]。将来の目標は「杉村春子さん、水谷八重子さん、尾上松緑さん、長谷川一夫さん、越路吹雪さんを、ミキサーに入れて出てきたのが私でありたいの。杉村さんは普段はとてもやさしくて、文学座のボスという感じがしないの。でも、私がその年になったら、今の杉村さんより芸で上でなければいけないと考えるの。すると勉強が足りない……。そう考えると夢があって楽しいわ」などと話していた[4]。
- 『万引きGメン・二階堂雪』で共演していたあき竹城とは仲が良い(2人で旅行に行くほどで、脚本家に「もっとあきちゃんとの場を増やして」とお願いしたこともある)。また、角替和枝とも親交があった。
- 1992年頃、更年期うつ病を発症した。現在は医師の治療と周囲のサポートにより、回復している。2000年にはシオノギ製薬の新聞広告で「私は、バリバリの「鬱」です」というキャッチコピーを擁した広告に登場したことがある[12]。
- 趣味はスキューバダイビング。
- 芸能界有数のディズニーグッズマニアであり、楽屋や部屋はディズニーグッズで埋め尽くされている。2002年2月12日に『笑っていいとも!』のコーナー「テレフォンショッキング」に出演した際、花束と一緒に1つミッキーのぬいぐるみが置かれていたが、その時「あ〜! 可愛い〜!!」と大興奮し、司会のタモリを驚かせたことがある。
- 実妹も1970年代に木の実まこ[注釈 2]という芸名で歌手デビューし、1枚のシングルレコードを残している。1980年代になってライオンの生理用品のCMで共演している。
- TBSラジオのヘビーリスナーである。
- 「混浴露天風呂連続殺人」シリーズで共演した古谷一行が2022年8月23日に亡くなり、訃報が同年9月2日に発表されたときは、ショックを受け泣き崩れたという。後に、NEWSポストセブンで最後の手紙としてしたためた。
- 「あぶない刑事」シリーズでは松村優子役でレギュラー出演し、1986年放送開始のテレビ1作目から2016年公開の映画「さらば あぶない刑事」まで出演していたが、2024年5月に公開される映画「帰ってきた あぶない刑事」には出演せず、本人曰く「前作で卒業という形になってます。いい形でおわれました。」と語っている。
シングル
キングレコード
- 東京キカンボ娘(1962年8月10日、E-1002)
- (c/w かわいいキューピー)
- 子象の行進(1962年11月10日、EB-7155)
- (c/w ホイ・ホイ・ルック)
- ポッ・ポッ・ポパイ(1963年3月、EB-7189)
- (c/w マンハッタン・スキャンダル)
- 太陽の下の18才(1963年5月20日、EB-7212)
- (c/w 日曜日の恋人)
- おじいちゃまハイ(1963年7月、DT-2)※共演:榎本健一
- (c/w 出かけて 出あって)※共演:榎本健一
- サタデイ・ナイト(1963年7月、EB-7222)
- 作詞・作曲:ジョン・メドラ、デイビット・ホワイト / 訳詞:あらかは・ひろし / 編曲:東海林修
- (c/w 悪口はやめて)
- ジュディー・ジュディー(1963年10月10日、EB-7240)
- (c/w テル・ミー・ママ)
- ママとパパのテレビ(1963年、EB-7262)
- (c/w お部屋でナイト)
- ティーンエイジ・クレオパトラ(1964年3月、EB-7254)
- 作詞・作曲:ビバリー・ロス / 訳詞:漣健児 / 編曲:東海林修
- (c/w アイスクリーム・ジョー)
- サミーのマーチ(1964年3月10日、BS-7022)
- 作詞:ジャック・フィッシュマン / 訳詞:漣健児 / 作曲:トリストラム・キャリー / 編曲:東海林修
- (c/w 涙の24時間)
- 野のユリ(1964年9月10日、BS-7043)
- (c/w うつろなハート)
- 涙をこらえて(1964年11月20日、BS-7061)
- (c/w からかわないで)
- 三つの夢(1965年3月、BS-7081)
- (c/w ラ・ラ・ラ・ラ)
- 太陽の海(1965年4月20日、BS-7088)
- (c/w 若草の恋)
- すてきなジェシカ(1965年7月20日、BS-7108)
- (c/w 二人だけの秘密)
- 指先のキッス(1965年、BS-7118)
- (c/w カナダの小屋)
- ギッチラ舟唄(1966年1月10日、BS-359)
- (c/w リンゴ慕情)
- 涙ギラギラ(1966年7月20日、BS-465)
- 作詞:橋本淳 / 作曲:しらいそうや / 編曲:森岡賢一郎
- (c/w 愛はひとりぼっち)
- 貴方でいっぱい(1966年12月1日、BS-544)
- (c/w 一人で歩きたい)
- 真赤なブーツ(1967年5月1日、BS-639)
- 作詞:橋本淳 / 作曲:筒美京平 / 編曲:筒美京平
- (c/w 愛のひき潮)
- ミニ・ミニ・ロック(1967年7月1日、BS-7166)
- (c/w 恋のかたみ)
- 恋は宝(1967年11月20日、BS-744)
- 作詞:橋本淳 / 作曲:鈴木邦彦 / 編曲:鈴木邦彦
- (c/w 20才の恋)
- メケメケ波止場(1967年)※共演:飯野おさみ
- (c/w ピロピロ天国)
- 最高なのさ(1967年、BS-862)※共演:飯野おさみ
- (c/w サマー・アフタヌーン)
- しかたがないんだもん(1969年1月20日、BS-945)
- 作詞:世志凡太 / 作曲:森岡賢一郎 / 編曲:森岡賢一郎
- (c/w この世の果てまで)
ワーナーブラザーズ・レコード[注釈 3]
- セクシカ(1971年4月25日、L-1020W)
- (c/w 悲しい道)
- 愛の週末(1971年9月25日、L-1053W)
- (c/w 自由にあこがれて)
PLAYBOY
- おまえさん (1976年、PB-501)
- (c/w 洒落)
- 愛人(アマン)(1977年、PB-501)
- (c/w 居酒屋)
- 紅ほおずき(1977年12月、PB-604)
- 作詞:喜多条忠 / 作曲:丹羽応樹 / 編曲:あかのたちお
- (c/w グッド・バイ)
TRIO
- うぬぼれワルツ(1978年7月7日、3B-134)
- (c/w 遊びなれてる人みたいに)
徳間ジャパン・BOURBON
- 砂の城(1980年5月1日、BMA-1039)
- (c/w 夢織り人)
- ダンシング・ママ(1980年10月1日、BMA-1052)
- (c/w オープン・チケット)
- 夜のパントマイム(1981年、BMA-2002)
- 作詞:三浦徳子 / 作曲:亀井登志夫 / 編曲:松任谷正隆
- (c/w Mr.Half Moon)
- 愛してごめんなさい(1981年、BMA-2013)
- (c/w 人生哲学)
- 居酒屋(1982年10月25日、BMA-2029)共演:五木ひろし
- 作詞:阿久悠 / 作曲:大野克夫 / 編曲:大野克夫
- 五木ひろしとのデュエットで今でも歌われる大ヒット曲
- (c/w 帰郷)
- 水中花(1983年10月、BMA-2043)
- (c/w うぬぼれワルツ)
- 美しき女(ひと)(1984年、BMA-2048)
- (c/w 自由の女神が化粧落として)
ワーナー・パイオニア
- メランコリック・ママ(1989年9月25日、06L7-4109)※共演:小林幸子
- (c/w 男なんて青い鳥)※共演:小林幸子
東芝EMI
- 東京ウキウキ天国ブギ(1992年5月20日、TODT-2838)
- (c/w マイ・ブルー・ヘヴン)
ソニー
- 男なんて(1993年8月21日、SRDL-3692)※共演:森公美子、深沢敦
- (c/w ムパパ)※共演:森公美子、深沢敦
クラウン
- 星空デート(2012年4月4日、CRCN-1607)※共演:平尾昌晃
- (c/w 恋ふたたび)※共演:平尾昌晃
オリジナル・アルバム
- 愛人(1976年、TRIOレコード・PLAYBOYレコード、PB-6001)
- NA NA Vol.2 紅ほおずき(1977年、TRIOレコード・PLAYBOYレコード、PB-6002)
- WOMAN(1979年、SOUNDS MARKETING SYSTEM、SM25-5024)
- DANCING MAMA(1980年、BOURBON、BMD-1002)
- わが胸の底の湖(1981年、BOURBON、BMD-1013)
- YESTERDAY'S(1981年、キャニオン、C28A0382)※共演:細川俊之
ライブ・アルバム
- NANA Live(1979年、SOUNDS MARKETING SYSTEM、SM40-5035〜36)
カバー・アルバム
- デビュー50周年記念アルバム SHOW GIRLの時間旅行〜my favorite songs(2012年11月14日、BOURBON、TKCA-73838)
ベスト・アルバム
- うぬぼれワルツ The Best of Nana(1979年、TRIO、3B-1017)
- 木の実ナナ 魅惑のシングルコレクション キングレコード編(2010年、KING/ブリッジ)
- 『虹色の街』勝川克志 絵. みみずくぷれす, 1984.4
- 『下町のショーガール ナナの愛と喝采の日々』主婦と生活社, 1986.12
- 『キラッ!と女ざかり』PARCO, 1998.7
注釈
当時「このみ」と呼ばれることがあり、「『着の身着のまま』の『き』です」と言っていたのが芸名の由来だと勘違いされたのだという。出典の新聞記事原文中の木の実ナナの談話は、次のとおり。「当時『このみ』と呼ばれることがあり、『〈着の身着のまま〉の〈き〉です』と言っていたのです。それが芸名の由来と勘違いされることに、ハハハ。」 ということで、記事中で、彼女自身は「誰によって呼ばれたのか」には触れていないが、「着の身着のまま」が芸名の由来であるという説は誤りであることが確認できる。なお当該新聞記事は縮刷版などでも見られる。
作品によっては木の実味摩子名義とされる場合もあり。但し、姉妹での共演はないものの、『遠山の金さん(高橋英樹主演版)』ではナナ・味摩子ともに出演している。
1971年当時の正式社名は「ワーナーブラザーズ・パイオニア」。前年の発足に於いて渡辺プロダクションが資本出資し、その関係で作品の音源発売権や原盤権を保有していた。現在、本作は渡辺音楽出版株式会社が原盤権を保有・管理しており、2010年に音源がCD化された際にはジャケットに「音源提供 WATANABE MUSIC PUBLISHING CO., LTD.」と明記されている。
出典
種田正 (1975年7月7日). “《美女ある記》 木の実ナナ 13年 華麗に色づく"木の実" 本当の魅力は30過ぎよ”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 5(1975年7月、木の実のインタビューを含む記事)
「決定!保存版 '76 ALLスタアLIST 木の実ナナ」『スタア』1976年2月号、平凡出版、92頁。
“9月のあらかると –テレビ・芸能– 今月のプロフィル 木の実ナナの巻 踊り過ぎてロッ骨折っちゃった…”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 27. (1978年9月3日)
“人生の贈り物「『着の身着のまま』は勘違いです」”. 朝日新聞 夕刊. (2011年12月6日)
“うつサポート情報室”. NHK (2005年4月19日). 2009年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月19日閲覧。