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日本のレーシングドライバー、実業家 (1947-) ウィキペディアから
星野 一義(ほしの かずよし、1947年7月1日 - )は、日本の元レーシングドライバーである。現在は株式会社ホシノインパル代表取締役会長。静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身。血液型:A型。現役時代は「日本一速い男」と呼ばれた[1][2]。
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
レーシングドライバーの星野一樹は長男。
生家は生菓子の製造・販売業を営み、周囲と比して裕福な家庭に育った。野球少年だった星野は、父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、乗り物好きでもあった。中学生の時には無免許にもかかわらず、父親からオートバイを買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたという[3][注釈 1]。この頃には「オートバイ」や「モーターサイクリスト」などのオートバイ雑誌を読み漁っては、マン島TTレースやロードレース世界選手権(WGP)に参戦している北野元や高橋国光が駆るホンダのマシンに思いを馳せていた[4]。
星野は東海大学第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)を1年生の1学期が終わったところで中退し、しばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、ほどなくして当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川県に移り、カワサキワークスライダーだった安良岡健に弟子入りを志願、安良岡の同僚だった三橋実が率いるカワサキ系モトクロスチーム「カワサキ・コンバット」に加入した。16歳になった星野は、ここで後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊[注釈 2]と出会っている[5][6]。しかし、1964年のデビューレースでは転倒し脳震盪のため搬送され入院というデビューだった[7]。
1967年に夫人と結婚[8]。翌1968年には同じカワサキ系ワークスチームの「神戸木の実レーシング」(片山義美が主宰)に移籍してカワサキの契約ライダーとなる。同年の全日本モトクロス選手権の90cc・125cc両クラスではチャンピオンを獲得し、タイトル獲得の褒美としてセニア最優秀選手に選ばれ、日本モーターサイクルスポーツ協会 (MFJ) からヨーロッパ視察旅行を与えられた[9]。
星野はモトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じており、練習場である富士スピードウェイ脇のダートコースから名物の30度バンクを駆け抜ける四輪レーサーを見て憧れを抱いていた。一度は収入面でモトクロス界より安定が見込めるオートレース転向も考えていた[9]が、翌1969年にモトクロス仲間の歳森康師の推薦で日産自動車のワークスドライバーのテストを受け合格したのを機に、二輪から四輪へと転向した[10][11]。1970年に日産に入社し、東京都大田区大森にあった日産宣伝部の契約ドライバー(俗に「大森ワークス」と呼ばれる)となり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍する[12]。星野はスカイラインやフェアレディでのレース参戦を望んでいたが、星野の希望するこれらのマシンは一軍格である追浜ワークスの高橋国光、北野元、黒沢元治らが乗るものであり、日産での二軍に相当する大森ワークスの星野は新開発の前輪駆動(FF)車であるチェリーでの参戦を指示され、FF車が好きではない星野は内心「FFは(星野が嫌いな)アンダーステアも出るし、なんでFFでレースしなきゃいけないんだ」と思いながら参戦していたという[映像 1]。
1974年、大森ワークスの先輩(リーダー)である鈴木誠一と折半で、マーチF3のシャシーを購入[注釈 3]し、FJ1300に参戦[13]。エンジンは、鈴木たちが設立した東名自動車(現・東名パワード)がチューニングを手掛けた[13]。星野はFJ1300のデビュー戦で優勝[14]。この頃には第一子となる長女が誕生して一児の父となった[8]。
1975年、国内トップカテゴリーの全日本F2000選手権に第2戦から参戦を開始。参戦した4レース全てでポールポジションを獲得し、うち2勝を挙げてシリーズチャンピオンを獲得した[15]。この王者決定レース後、観戦に来ていた父親を見つけ、それまで観戦したいなどと一度も言ったことのない父が、実は静岡から離れた鈴鹿まで来てレースを見ていたことを初めて知った。その時の父親はチャンピオン獲得した星野を見て感極まっており、その顔を見たことは星野にとって生涯忘れられない記憶になったという[16]。
1976年、ヒーローズレーシングに加入[17]。全日本F2000では2勝を挙げランキング4位となる。10月に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンにはヒーローズからスポット参戦。マシンは旧型のティレル・007で、決勝レースでは大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイアした[18][19](正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、全日本F2選手権や全日本F3000選手権、富士グランチャンピオンレース、全日本FP選手権、全日本耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権 (JTC) においてチャンピオンの常連となり、レースファンやメディアから「日本一速い男」と呼ばれるようになる[20]。
1977年にはヒーローズでの2年目を迎え、前年に初の2000ccレース出場で好走を見せた6歳後輩となる新人中嶋悟が加入[21]、星野のチームメイトとなった。F2000で星野は8戦中4勝を挙げチャンピオンを獲得。秋のF1日本GPにコジマエンジニアリングKE009にて参戦、11位完走を果たす。同年10月には第二子となる長男の一樹が誕生した。
1978年、ヒーローズでのNo.1ドライバーは完全に星野だったが、この年のF2000第3戦鈴鹿で中嶋がポール・トゥ・フィニッシュで星野を破って以降、徐々に両者の関係には緊張状態が生じる。同年、中嶋がイギリスF3に参戦するため、競技ライセンスをJAF競技ライセンスからイギリス王立自動車クラブ(RAC)発行のものに切り替えたこともあり、F2000タイトルは星野が獲得することになったが[注釈 4]、シーズン終了後に中嶋が「チームにエース2人はいらないよ」とヒーローズから離脱、生沢徹の率いるチームi&iに移籍した[21]。
同年6月、星野曰く「頭の中に常にあった」というヨーロッパ挑戦を実現させ[20]、ヨーロッパF2第6戦ルーアン・レゼサール[22]と第7戦ドニントン・パークの2戦にスポット参戦した。日本で連勝していた体制をそのまま持ち込み、ヒーローズのノバ532・BMW(ケン松浦チューン)にブリヂストンタイヤで参戦したが、ヨーロッパF2で多勢を占めていたマーチ782・BMWとグッドイヤータイヤのパッケージには予選タイムで及ばず[23]、決勝もドライブシャフトのトラブルが立て続き2戦ともリタイア[24][25]。当初予定では第10戦エンナまで参戦予定だったが、ドライブシャフトのスペアがなくなってしまったためドニントンパークのレースにて遠征を終了せざるを得なかった。この遠征には当時の金額で1,200万円を費やした[20]。以後、星野はヨーロッパへの思いを封印し、国内レースへと集中することを決意した。
1980年、ドライバーとしてはヒーローズと契約更新するが、かねてより考慮していた自身の会社設立に動き、モトクロス時代の仲間である金子豊と共に「ホシノインパル」を設立。星野は当時32歳であったが、先輩レーサーを見ていてその定年が30代半ばで来ると感じ、現役トップの頃に自分で会社を作り、自動車を通じたビジネスを成功できれば、との思いがあった。なお、当初は飲食店での起業も考えたというが、自分には車しかないと考え、まずはホイールからやってみようとエンケイの鈴木順一社長に相談。しかし星野がデザインに携わったインパルホイールをエンケイ工場で試作木型にて立体化してみると、そのデザイン性の欠如と、商品としての魅力を感じないことに星野は愕然とし、目の前が真っ暗になったという。その星野の様子を見た鈴木は資料やデザイン提供などの協力で星野を助け[26]、星野は後年「インパルが成功できたのはあの時鈴木社長が思いやりで僕を助けてくれたから」と感謝を述べている[27]。金子とともに九州から北海道まで全国のホイールを取り扱うショップを巡る営業活動をレース活動の合間に地道に繰り返していたが、インパルのホイールは最初の2年間はヒット商品が出なかった。
創業から2年経過した頃に転機が訪れ、星野自身が参戦する富士スーパーシルエットレースで「シルビア・スーパーシルエット」にインパルのホイールを装着し、そのホイールを元に市販化されたホイール「D-01シルエット」に注文が殺到[28]、生産が追い付かない大ヒット商品となり月に2万本は売れたという[29]。これによりIMPULブランドの知名度は大きく向上し、ようやくビジネスが軌道に乗り始めた[29]。
ホシノインパルの業績が軌道に乗ったのを受け、1983年に自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立し、ヒーローズレーシングから独立。全日本F2選手権と富士グランチャンピオンレースおよびスーパーシルエットレースに自らのチームで参戦するようになった[30]。また、同年から始まった全日本耐久選手権にもホシノレーシングから萩原光とのコンビで参戦を開始。6月にはイギリスのドニントン・パークで行われたヨーロッパF2選手権第8戦にスポット参戦(マシンはマーチ832・BMW)し、4位入賞を果たす[31][19]。なお、この遠征により星野が不在の期間に日本で開催されたスーパーシルエット・レースでは、星野の代わりに萩原がシルビア・スーパーシルエットに乗り参戦した。
1984年4月、IMPUL本社にショールームをオープンさせ、星野も転居し東京が活動拠点となった[32]。同年の全日本F2ではチャンピオンとなった中嶋の後塵を拝しランキング3位に終わり、中嶋が使用するのと同じホンダV6エンジンの搭載を熱望するようになっていた。星野は自身が日産ワークスを離れる覚悟を決めてホンダと交渉、翌年からF2でホンダエンジンを搭載する契約を結ぶ(日産との契約継続の経緯については後述)。
1985年、富士スピードウェイで開催されたWEC-JAPAN(富士1000km)に松本恵二と萩原光とのチームでマーチ・85G/日産を駆り参戦。決勝では雨によるコンディション不良でスタート順延などレース運営の混乱もある中、星野が首位で独走を見せる。チームメイトの松本による「今の路面を一番理解している星野がこのまま交代しない方が勝つ可能性が高まる」との意見もあり、星野が単独ですべて走り切り優勝[33]。日本人として初の世界選手権レース優勝者となった[33]。
1986年4月、弟子として行動を共にすることが多かった後輩・萩原光がテスト走行中の事故で死去する悲劇に見舞われる。2か月後のル・マン24時間レースに松本恵二と、萩原の代役として起用された鈴木亜久里とのトリオで日産・R86Vで参戦。結果はトラブルによりリタイヤだったが、以後1998年まで星野は日産のル・マン24時間レース挑戦の主軸として参戦を続けることになる。全日本F2では中嶋がチャンピオンとなり、星野はランキング2位と敗れる。同年夏には中嶋が翌1987年からフルタイムF1ドライバーとしてロータス・ホンダと契約したことを発表。結果的に星野はホンダエンジンを使用するようになって以後の2年も全日本F2ランキングで中嶋を打ち破ることができなかった。唯一意地を見せる結果となったのは、同年の全日本F2で星野3勝、中嶋は1勝と勝利数で上回った事であった[16]。
1987年には国内でのホンダF1エンジンのテストドライバーの役割を中嶋から引継ぎ、ウィリアムズ・ホンダでのテスト走行を行った[注釈 5]ほか、この年以後日本での開催が復活したF1日本グランプリでスポンサー持込などの条件付きでベネトンなど[34][10]のF1シートに誘われることも複数件あったが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。払って乗せてもらうのはあり得ない」という信念を貫き、F1スポット参戦を見送っている。同年より全日本F2から全日本F3000へとトップカテゴリーが再編された。中嶋という最大のライバルがいなくなったこともあり、星野は4勝を挙げチャンピオンを獲得するが、フットワーク/ムーンクラフトとのジョイントにより良い参戦体制を得た鈴木亜久里が台頭し2勝を挙げ、その挑戦を受ける立場となりつつあった。
この時期にはインパルのメインバンクからの勧めもあって東京都世田谷区の環状八号線沿いの土地を購入し、ホシノインパル本社およびファクトリーを三鷹から移転させる計画を進め、1988年4月にIMPUL新本社とショールームが落成し移転が完了した。同年の全日本F3000選手権ではチャンピオンを鈴木亜久里に奪われランキング2位で終える。有効ポイント制だったため、総獲得ポイントでは星野の方が2ポイント上回り、勝利数も同じ3勝と僅差での敗退であった。中嶋に続き鈴木亜久里も星野を破ってF1シートを獲得したこともあり、星野は日本のレース界からF1に行くために越えるべき「最後の壁」としてレース専門誌や東京中日スポーツなどで報じられることもあった。以後1991年の片山右京や、1993年のエディ・アーバインも星野とのF3000タイトル争いを経てF1レギュラードライバーとしてデビューする結果となった。
1990年のル・マン24時間レースでは日産・R90CPで出場し5位入賞を果たす[35]。これを皮切りに海外レースでの実績として、1998年のル・マン24時間レースには日産・R390で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた[36]。他にも1992年には林義正と水野和敏の指揮でデイトナ24時間レースに日産・R91CPで出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている[37]。このレースでは他にもファステストラップ1分38秒495や、24時間の平均速度181.923 km/hなど、多くの記録を塗り替えた。
1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や全日本GT選手権にカルソニックカラーのスカイラインGT-Rで参戦し数多くの勝利を獲得[38]、「カルソニックの星野」のイメージを強くした[39]。
その傍らで全日本F3000選手権にも参戦を続けていたが、1997年シーズン開幕直前に持病の腰痛の悪化のため、国内トップのフォーミュラ・ニッポンからの引退を発表。以降も全日本GT選手権には5シーズン参戦し続けたが、2002年8月に現役ドライバーからの引退を発表した[2][40]。
引退後は全日本GT選手権(現・SUPER GT)とフォーミュラ・ニッポンに参戦する自身のチーム「チームインパル」の監督を務めている[41]。また、ニスモフェスティバルなどの各種イベントでのデモランや、日産の新型車(主にフェアレディZやスカイライン、GT-Rなど)のテストドライブなどで雑誌やメディアに出演することも少なくない。
2023年3月2日、日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者顕彰を受賞した[42]。
(key)
年 | チーム | シャーシー/エンジン | 予選 | レース1 | レース2 | 総合順位 |
---|---|---|---|---|---|---|
1979年 | Team Honest Dutsun (ヒーローズレーシング) | シェブロン・B40 日産・LZ14 | 17位 | - | - | Ret |
1981年 | Dah Chong Hong | マーチ・81A 日産・LZ14 | 4位 | - | - | Ret |
年 | 所属チーム | コ.ドライバー | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983年 | ホシノレーシング | 萩原光 | シルビアターボCニチラ(マーチ・83G) | C1 | SUZ Ret |
SUZ Ret |
FUJ 7 |
NC | 0 | ||||
1984年 | 萩原光 | C1 | SUZ 13 |
TSU | SUZ 12 |
FSW Ret |
NC | 0 | |||||
1985年 | 松本恵二 萩原光 |
C1 | SUZ 2 |
FSW Ret |
15位 | 35 | |||||||
松本恵二 萩原光 |
シルビアターボCニチラ(マーチ・85G) | C1 | FSW Ret |
SUZ Ret |
FSW 1 |
FSW Ret |
|||||||
1986年 | 萩原光 中子修 |
日産・R86V | C1 | SUZ DNS |
FSW | FSW Ret |
SUZ Ret |
FSW 10 |
FSW Ret |
47位 | 1 | ||
1987年 | 高橋健二 デイヴ・スコット |
日産・R87E | C1 | SUZ Ret |
FSW Ret |
SUZ 6 |
FSW 16 |
SEN C |
FSW Ret |
30位 | 9 | ||
高橋健二 | 日産・R86V | FSW 8 |
|||||||||||
1988年 | NISMO | 高橋健二 鈴木利男 |
日産・R88C | C1 | FSW Ret |
SUZ 6 |
FSW 7 |
FSW 5 |
SUZ Ret |
FSW 9 |
18位 | 20 | |
1989年 | 鈴木利男 | C1 | FSW Ret |
FSW 6 |
27位 | 6 | |||||||
鈴木利男 | 日産・R89C | FSW Ret |
SUZ DNS |
FSW Ret |
|||||||||
1990年 | 鈴木利男 | 日産・R90CP | C1 | FSW 4 |
FSW C |
FSW 3 |
SUZ 1 |
SUG 4 |
FSW 2 |
3位 | 67 | ||
1991年 | 鈴木利男 | 日産・R91CP | C1 | FSW 1 |
FSW 1 |
FSW 2 |
SUZ Ret |
SUG 11 |
FSW 1 |
SUG 2 |
1位 | 87 | |
1992年 | 鈴木利男 ジェフ・クロスノフ |
日産・R92CP | C1 | SUZ 9 |
FSW 1 |
FSW 1 |
SUG 1 |
FSW 1 |
MIN 1 |
1位 | 103 |
年 | 所属チーム | コ.ドライバー | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983年 | ホシノレーシング | 萩原光 | マーチ・83G/日産 | C | MNZ | SIL | NÜR | LMN | SPA | FSW 7 |
KYA | 67位 | 4 | ||||
1984年 | 萩原光 | C1 | MNZ | SIL | LMN | NÜR | BRH | MOS | SPA | IMO | FSW Ret |
KYA | SUN | NC | 0 | ||
1985年 | 萩原光 松本恵二 |
マーチ・85G/日産 | C1 | MUG | MNZ | SIL | LMN | HOC | MOS | SPA | BRH | FSW 1 |
SHA | 36位 | 10 | ||
1986年 | NISMO | 中子修 | 日産・R86V | C1 | MNZ | SIL | LMN Ret |
NOR | BRH | JER | NÜR | SPA | FSW 10 |
77位 | 1 | ||
1987年 | 高橋健二 デイヴ・スコット |
日産・R87E | C1 | JAR | JER | MNZ | SIL | LMN Ret |
NOR | BRH | NÜR | SPA | FSW 16 |
NC | 0 | ||
1988年 | 高橋健二 鈴木利男 |
日産・R88C | C1 | JER | JAR | MNZ | SIL | LMN Ret |
BRN | BRH | NÜR | SPA | FSW 9 |
SUN | 82位 | 4 | |
1989年 | 鈴木利男 | C1 | SUZ 4 |
DIJ | JAR | BRH | NÜR | DON | SPA | MEX | 31位 | 10 | |||||
1990年 | 鈴木利男 | 日産・R90CP | Cat.2 | SUZ Ret |
MNZ | SIL | SPA | DIJ | NÜR | DON | MTL | MEX | NC | 0 | |||
年 | 所属チーム | コ.ドライバー | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | CALSONIC HOSHINO RACING | 影山正彦 | 日産・スカイラインGT-R | GT1 | SUZ |
FSW |
SEN 2 |
FSW 7 |
SUG 2 |
MIN 3 |
14位 | 19 | ||
1996年 | CALSONIC TEAM IMPUL | 影山正彦 | GT500 | SUZ 8 |
FSW 5 |
SEN 5 |
MIN 1 |
SUG 2 |
MIN Ret |
4位 | 54 | |||
1997年 | 本山哲 | GT500 | SUZ Ret |
FSW | SEN 15 |
FSW 4 |
MIN 6 |
SUG 14 |
13位 | 16 | ||||
1998年 | 黒沢琢弥 | GT500 | SUZ 11 |
FSW | SEN 5 |
FSW 3 |
TRM 2 |
MIN 7 |
SUG 4 |
3位 | 49 | |||
1999年 | 影山正美 | GT500 | SUZ 10 |
FSW 3 |
SUG 5 |
MIN 6 |
FSW 5 |
TAI 10 |
TRM 7 |
7位 | 40 | |||
2000年 | 本山哲 | GT500 | TRM 17 |
FSW 5 |
SUG 5 |
FSW 3 |
TAI 6 |
MIN 1 |
SUZ 3 |
3位 | 66 | |||
2001年 | 本山哲 | GT500 | TAI | FSW | SUG | FSW 7 |
TRM 3 |
SUZ 11 |
MIN 5 |
13位 | 24 | |||
2002年 | 田中哲也 | GT500 | TAI 14 |
FSW Ret |
SUG 8 |
SEP 14 |
FSW Ret |
TRM | MIN | SUZ | 24位 | 3 |
年 | チーム | コドライバー | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | NISMO | 近藤真彦 | 日産・スカイラインRSターボ | DIV.3 | SUG | TSU Ret |
NIS | SUZ | FSW | NC | 0 | ||||
1987年 | アンデルス・オロフソン | 日産・スカイラインGTS-R | DIV.3 | NIS | SEN | TSU | SUG | FSW 9 |
SUZ | - | - | ||||
1989年 | ホシノレーシング | 北野元 | JTC-1 | NIS Ret |
SEN 1 |
TSU 4 |
SUG Ret |
SUZ 6 |
FSW Ret |
- | - | ||||
1990年 | 鈴木利男 | 日産・スカイラインGT-R | JTC-1 | NIS 1 |
SUG 1 |
SUZ 2 |
TSU 1 |
SEN 1 |
FSW 1 |
1位 | 230 | ||||
1991年 | 鈴木利男 | JTC-1 | SUG 1 |
SUZ Ret |
TSU 3 |
SEN 1 |
AUT 2 |
FSW 1 |
3位 | 174 | |||||
1992年 | 影山正彦 | JTC-1 | TAI Ret |
AUT 3 |
SUG 1 |
SUZ Ret |
MIN Ret |
TSU 1 |
SEN 1 |
FSW 6 |
7位 | 78 | |||
1993年 | 影山正彦 | JTC-1 | MIN 1 |
AUT 3 |
SUG | SUZ 3 |
TAI 1 |
TSU 2 |
TOK 1 |
SEN 1 |
FSW Ret |
2位 | 119 |
年 | 所属チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | CALSONIC NISMO | 日産・プリメーラ | OAR1 3 |
OAR2 Ret |
SUG1 Ret |
SUG2 3 |
TOK1 7 |
TOK2 Ret |
SUZ1 3 |
SUZ2 20 |
MIN1 16 |
MIN2 Ret |
TAI1 4 |
TAI2 Ret |
TSU1 Ret |
TSU2 DNS |
SEN1 | SEN2 | FSW1 1 |
FSW2 Ret |
8位 | 53 |
1995年 | CALSONIC HOSHINO RACING | FSW1 6 |
FSW2 6 |
SUG1 24 |
SUG2 6 |
TOK1 Ret |
TOK2 Ret |
SUZ1 3 |
SUZ2 2 |
MIN1 14 |
MIN2 Ret |
TAI1 2 |
TAI2 2 |
SEN1 6 |
SEN2 5 |
FSW1 2 |
FSW2 1 |
3位 | 98 | |||
1996年 | CALSONIC TEAM IMPUL | FSW1 Ret |
FSW2 Ret |
SUG1 5 |
SUG2 16 |
SUZ1 9 |
SUZ2 17 |
MIN1 1 |
MIN2 2 |
SEN1 4 |
SEN2 Ret |
TOK1 10 |
TOK2 Ret |
FSW1 5 |
FSW2 2 |
6位 | 61 | |||||
1997年 | CALSONIC NISMO | FSW1 C |
FSW2 C |
TAI1 6 |
TAI2 14 |
SUG1 2 |
SUG2 1 |
SUZ1 2 |
SUZ2 6 |
MIN1 4 |
MIN2 11 |
SEN1 2 |
SEN2 Ret |
TOK1 3 |
TOK2 Ret |
FSW1 8 |
FSW2 1 |
4位 | 95 |
年 | チーム | コ・ドライバー | 車 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | NISMO | 日産・R86V | C1 | 64 | DNF | DNF | |
1987年 |
|
日産・R87E | C1 | 181 | DNF | DNF | |
1988年 |
|
日産・R88C | C1 | 286 | DNF | DNF | |
1989年 | 日産・R89C | C1 | 167 | DNF | DNF | ||
1990年 | 日産・R90CP | C1 | 348 | 5位 | 5位 | ||
1995年 |
|
日産 NISMO・GT-R LM | GT1 | 157 | DNF | DNF | |
1996年 | GT1 | 307 | 15位 | 10位 | |||
1997年 |
|
日産・R390 GT1 | GT1 | 294 | 12位 | 5位 | |
1998年 | GT1 | 347 | 3位 | 3位 |
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | 日産自動車 | 長谷見昌弘 | 日産・910ブルーバード ターボ | 4 Cylinder | 66 | DNF | DNF |
1982年 | B | 153 | 8位 | 1位 |
*IMPUL OFFICIAL DVD 星野一義ヒストリー(2004年7月、ジェネオンエンタテイメント)※VHS版も発売
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