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新島民治
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新島 民治(にいじま たみじ、1807年3月22日〈文化4年2月14日〉 - 1887年〈明治20年〉1月30日)は、日本の武士(安中藩士)。新島襄の実父。字は敬徳、のちに公勤で、通称は金吉、弁喜、民治。号は崋山である。
概要 凡例新島 民治, 時代 ...
![]() 新島民治(左)と妻・とみ | |
時代 | 江戸時代末期-明治時代初期 |
生誕 | 文化4年2月14日(1807年3月22日) |
死没 | 明治20年(1887年)1月30日 |
別名 |
幼名:金吉 通称:弁喜、民治 字:敬徳、公勤 号:崋山 |
墓所 | 南稈寺 |
主君 | 板倉勝尚→板倉勝明→板倉勝殷 |
藩 | 安中藩士 |
氏族 | 新島氏 |
父母 | 父:新島弁治 |
妻 | とみ(中田氏) |
子 | 実子:七五三太、双六 |
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文化4年(1807年)に上野国吾妻郡郷原村(現群馬県吾妻郡東吾妻町)に生まれた。
文政元年(1818年)、父・新島弁治が江戸藩邸に詰めることになったのに従い江戸に移る。天保2年(1831年)4月に浦和宿出身の中田とみと結婚する。天保14年(1843年)に長男・七五三太(後の新島襄)が生まれる。その頃、民治は江戸祐筆見習いであった。嘉永6年(1853年)には中小姓格、文久元年(1861年)には中小姓になる。明治維新後の明治2年(1869年)4月に安中に移った。
明治3年(1870年)8月10日に父・弁治が死去すると家督を継いだが、11月には隠居し、次男の双六に家督を譲った。
明治10年(1877年)4月に襄が住んでいた京都新烏丸頭町に身を寄せた。同年3月4日に洗礼を受けて西京第二公会に入会した。
明治20年(1887年)に死去した。