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東京都中央区の地名 ウィキペディアから
新富(しんとみ)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区に当たる京橋地域内である。現行行政地名は新富一丁目および新富二丁目。郵便番号は104-0041[2]。
中央区役所に隣接する土地柄、行政機関やオフィスビルが多数立ち並ぶ街である。住居表示以前は「新富町」であり、現在も地下鉄駅名の影響から通称として「新富町」と呼ばれる。西に銀座、北に八丁堀、東に入船、南に築地が位置し、入船・築地・明石町同様、域内のビル・マンション名に「銀座」を含むものが多い。そのため、奥銀座、裏銀座と呼ばれることもあるが、抵抗を持つ地元の人も多い[4]。
京橋地域のほぼ中央に位置する。
当地域は江戸時代には武家地であった。1868年(明治元年)、築地の外国人居留者を目当てにした新島原遊廓が置かれた。新吉原遊廓の中万字屋弥兵衛、中屋宗四郎の2人が願い出て、新たに借地を賜ったものである。碁盤の目に整地された新島原には、松が枝町、初音町、呉竹町、梅が枝町、千歳町、桜木町、八重咲町、青柳町の町名が付けられ、新吉原、京都の島原、大阪の新町と並ぶ大規模な遊廓となった。
しかし、翌年の大暴風雨で妓楼の中万字屋が吹き倒されたのをはじめ[5]、思い通りの集客が得られず、1871年(明治4年)6月取り払いを命じられ、遊廓は新吉原、根津に移転し、新富町が成立した。隣接の大富町の一部も編入され[6]、町家の続く新富町1丁目から7丁目へと改変された[7]。芸妓、置屋は引き続き新富町に残った[8]。翌年の明治5年に新富座が開場され、周囲に芝居茶屋も建ち並んで賑わったが、のちに新富座は関東大震災により焼失し、そのまま再建されることなく廃座となった。震災直前の1922年(大正11年)の記録では、新富町は料理屋約10軒、待合約40軒、置屋約80軒を抱える三業地(花街)であり[9]、劇場があることから新富芸者は櫓下芸妓として広く知られた[6]。1930年頃には、料亭は6軒、待合と置屋は60軒以上、芸妓は180名を数えたが[6]、戦後は衰退し、1970年代後半に廃れていった[10]。
1971年(昭和46年)、住居表示の実施に伴う町名変更で「町」の字がなくなり、「新富」の地名となる。現在は主にオフィスビルと中小の商店、住宅が混在する地域となっている。
地名の由来については、旧来からの大富町に対して付けられたという説と、新島原と大富町からそれぞれ一字をとったという説がある[8]。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
新富一丁目 | 全域 | 中央区立京橋築地小学校 | 中央区立銀座中学校 |
新富二丁目 | 全域 |
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