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江戸時代前期の大名。尾張藩3代藩主。新陰流第7世。正三位・権中納言。徳川光友の次男・嫡長男 ウィキペディアから
徳川 綱誠(とくがわ つなのぶ[1]/つななり[2])は、江戸時代前期の大名。尾張藩3代藩主。はじめ綱義といった[1]。字は子明[1]。
承応元年(1652年)8月2日、2代藩主・徳川光義(のち光友)の次男[注 1]として市ヶ谷邸で誕生した。母は徳川家光の長女・霊仙院(千代姫)[1]。幼名は五郎太[1]。
明暦3年(1657年)4月、元服し、従四位下右兵衛督に叙任された[1]。叔父の4代将軍・徳川家綱と父・光義(光友の前名)より1字ずつ授かり綱義に改名する。義の文字は、源氏の祖八幡太郎源義家にちなむ名であり、尾張徳川家御連枝の四谷松平家(高須藩)・大久保松平家(梁川藩)の通名でもある。五代将軍に綱吉が就任したことにより、同音を避けるために綱誠に改名する。
元禄6年(1693年)4月、父・光友の跡を継いだ[1]。同年、権中納言となる[1]。
綱誠の治世は父の陰に隠れ、あまり目立たない。幼少より血統の良さと英明の評判が高く、文教に力を注いだのが知られる。藩領の地誌である『尾張風土記』の編纂を元禄8年(1698年)に命じたが、綱誠の病没により未完成のまま草稿が残り、後の宝暦2年(1752年)に完成する『張州府誌』の母体となった。
元禄12年6月5日(1699年7月1日)、江戸市ヶ谷邸で死去した[1]。享年48[1]。草苺を食し食あたりしたのが死因と言われている。綱誠は生前より大食漢、食道楽として知られていた。
※日付=旧暦
正室との間に子はできず、13名の側室との間に40人の子女(22男18女)を儲けるも、その大半は夭折した。子に徳川吉通(十男)、徳川継友(十一男)、松平義孝(十五男)、松平通温(十八男、喜之進・安房守)、徳川宗春(十九男)、松姫(十七女、前田吉徳正室)、喜知姫(叔父・徳川綱吉養女)らがいる[注 2]。
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