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安藤 信昭(あんどう のぶあき、1890年〈明治23年〉3月2日[1] - 1976年〈昭和51年〉12月16日[1][2])は、日本の華族(子爵)。貴族院議員、旧磐城平藩主安藤家15代当主。旧姓名は有馬頼篤[1]。有馬頼寧は実兄[3]。
伯爵有馬頼万(筑後久留米藩主家当主)の二男[1][4]として東京に生まれる。
子爵安藤信篤(磐城平藩主家当主)の養子となり[1]、1915年(大正4年)6月、信篤が隠居し家督を相続し[1]、同年7月10日、子爵を襲爵した[1][5]。同年9月3日、皇族・閑院宮載仁親王の第1王女である恭子女王(ゆきこじょおう)と結婚した[6]。
1915年(大正4年)東京府立園芸学校(現:東京都立園芸高等学校)を卒業[2]。1921年(大正10年)に侍従補となり[2]、以後、侍従や式部官を歴任[2][4]。昭和天皇の即位の礼に際して大礼使典儀官も務めた[2]。
1932年(昭和7年)7月10日に貴族院議員(子爵議員)となり[7]、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで議員を務めた[2]。この間、内務省委員、内閣委員に在任した[2]。
また、日本赤十字社協賛員[4]、同社篤志看護婦会顧問[4]、横浜生命保険会社の取締役も務めている[2]。墓所は多磨霊園。
実兄の有馬頼寧とともに、草創期の日本プロ野球に深く関わった[要出典]。1936年1月17日、有馬頼寧と協力し、旧・西武鉄道(現在の西武鉄道とは別会社)を運営母体としてプロ野球チームの東京セネタースを結成、頼寧がオーナー、信昭が理事長となる[要出典]。同年2月5日結成された社団法人日本職業野球連盟(後の日本野球機構)では、初代副総裁のひとりに就任している[注釈 1][要出典]。
『平成新修旧華族家系大成 上巻』は、実子3男4女を載せる[1]。長男・信敬(のぶゆき、1917年 - 1936年)は早世しており[1]、二男・信和[1]が霞会館(旧華族会館)の会員となっている[要出典]。
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