神奈川大学
横浜市にある私立大学 ウィキペディアから
横浜市にある私立大学 ウィキペディアから
神奈川大学(かながわだいがく、英語: Kanagawa University)は、神奈川県横浜市神奈川区六角橋三丁目27番1号に本部を置く日本の私立大学。1928年創立、1949年大学設置。略称は神大(じんだい)[注釈 1]。
神奈川大学 | |
---|---|
横浜キャンパス | |
大学設置 | 1949年 |
創立 | 1928年 |
創立者 | 米田吉盛 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人神奈川大学 |
本部所在地 |
神奈川県横浜市神奈川区六角橋3-27-1 北緯35度29分6秒 東経139度37分14秒 |
キャンパス |
横浜(横浜市神奈川区) みなとみらい(横浜市西区) |
学部 |
法学部 経済学部 経営学部 国際日本学部 外国語学部 人間科学部 理学部 工学部 化学生命学部 情報学部 建築学部 |
研究科 |
法学研究所 経済貿易研究所 国際経営研究所 人文学研究所 言語研究センター 総合理学研究所 工学研究所 日本常民文化研究所 アジア研究センター 人間科学研究所 人間科学研究所 建築学研究所 情報学研究所 海とみなと研究所 |
ウェブサイト |
www |
建学の精神は
創設者の米田吉盛(のちの衆議院議員)は、1927年の金融恐慌により農村は深刻な不況に見舞われ、1928年の田中義一内閣下での日本共産党党員の一斉検挙、治安維持法改正など混乱した社会の中で、民主主義制度を運用する精神を伴わせる必要性から「民族の危機」を感じた。「自分と志を同じくする中正堅実な青年を一人でも多く育成する」という使命感を持ち、1928年に29歳で前身となる横濱学院を創立する。米田は太平洋戦争戦時下である1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で大政翼賛会の推薦候補制度が導入される中、「政府が選挙に介入することは公選精神に反する」としたことから、非推薦で立候補して当選し中正堅実を実践している[要出典]。
学風は、1932年に作られた横濱専門学校校歌(作詞:土井晩翠、作曲:岡野禎一、編曲:坂下滉)の歌詞にも以下のように歌われている[2]。
一、
近代日本の文化の曙光
初めてまばゆく照しゝ港
港に基おく吾等が母校
榮えよ 横濱専門学校二、
基は新たに昭和の御代に
四海の思潮の寄せくる時に
経世実用めあてとなして
榮えよ 横濱専門学校三、
狂と暗とは暫しの悩み
正義は世界の力の本と
信じて勉むる健兒のやどり
榮えよ 横濱専門学校四、
榮えよ 横濱専門学校
祖国の誉と世界の平和
目指して日に日に希望にみちて
向上無窮の使命に進む
米田の云う「民族の危機」とは、明治から昭和初期にかけての日本国には民主主義制度が導入されたが日本国民には民主主義制度を運用する精神が伴われて居ない事による「民族の危機」を指す。米田は、1950年4月の新制神奈川大学発足完了の新年度を迎えて、次のように所信を表明している。
今、国内至る所、凡ゆる方面に亘り民主主義の制度が実施せられましたが、形式のみは民主主義制度であっても、之を運用する精神が伴って居らぬ為、随所に矛盾と無秩序を抱いております。即ち旧い制度がなくなって之に代わる新制度を採用したが新制度の妙味は未だ発揮し得ない為に御互は不自由と不安に泣いている現状があります。利己主義、背徳、怠惰、無責任、綱紀紊乱、ボスの跳梁、犯罪等…社会悪は増大し正義感は衰へ公明正大の風は失われ、文化国家には凡そ縁遠い世相になりました。此現象は自らの社会は自らの責任で維持経営すると云う自治に対する連帯の責任の完遂が不十分であるからでありませう。教育の目的が人格の完成を目指し、平和的国家及び社会の形成者としての真理と正義を愛し個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期すものである以上教育により、よりよき人間を完成し一日も早く理想の社会建設を見ねばなりません。 — 米田吉盛
1963年には「本学の建学精神の神髄解明」とし、米田は学部長、教員らに意見を求め、当時神奈川大学法経学部教授としての縁のある高山岩男(京都学派四天王と呼ばれる京都学派哲学を代表する学者の一人)がそれを纏めている。それによれば、「中正堅実」とは極右でも極左でもない中正堅実な青年を育成する事だとし、第二に「質実剛健」とは、民主主義社会の中で陥りやすい付和雷同に対して時流に巻き込まれる事なく、良心に忠実に、思想堅固で正しい信念を貫く事だとし、正しい意味の保守精神に通じるとしている。第三に「積極進取」とは、文化は絶えざる創造の集積であるから、文化の進歩、創造には各人の積極的努力が必要になるが、わが国国民の欠点として急進的に左右に激動する欠点もある事から、第二の「質実剛健」と第三の「積極進取」とがダイナミックに調節される事により、真の進歩が齎されるとする(高山岩男『場所的論理と呼応の原理』および、仏教における中道、儒教における中庸も参照)。
創立当時の学科は法学科(法学部)と、商業理財科(商経学部)である。建学の精神の一を質実剛健とし、また横濱専門学校校歌に経世実用めあてとなしてとあるように実学(経世致用の学、学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならないとする主張。その先駆けは中国明朝末の東林学派の主張に見られ、明朝滅亡に伴い、朱舜水が日本に亡命して水戸藩水戸学にも影響を与える)と実践力を重視する学風である。[3]、伝統的に京都学派哲学者が在籍しており、ニーチェ、マルティン・ハイデッガー、カール・ヤスパースらの実存主義哲学から出発し現実の社会問題解決のための比較文明学や社会科学の研究や哲学研究(無限革命論等)に結び付ける研究がある。
創設者の米田吉盛は自らも苦学した経験から、給費生制度を設けて勤労学生を援助した。また「教育は教員にあり」という信念を持っており、中央大学の恩師で当時司法次官だった林頼三郎を横浜専門学校初代校長に招いた。当時、中央大学の講師として米田と知り合った樋貝詮三から資金面の援助を得た。一橋系会計学者太田哲三からは商業系の学科を開設するにあたって援助を得た。法律系の教授陣は米田の母校である中央大学の教員と裁判官、そして、商業系の教授陣は東京商科大学(現・一橋大学)の教員が主流を占めていた[4]。
創設者である米田吉盛は、翼賛選挙において非推薦で当選し、終戦の翌年の総選挙(落選)では「私のすべての政策は如上の天皇制擁護と国民協同自治の理念から出発する」[5]とし、天皇制擁護と国民協同自治の理論を提唱、経済的に窮地に立つ農村は安い肥料で支え、中小企業の振興等の政策を提唱し、また戦後日本の教育を考え衆議院文教委員会で活躍した人物として知られる。保守中道の政治家であり、1957年の岸信介内閣改造に伴い厚生政務次官に就任している。横濱専門学校創設の際の教員集めでは、林頼三郎や太田哲三の紹介する人物に対して三顧の礼をもってあたった。建学にあたっては徹底した実学主義と、大量教育の排除(マスプロ教育を排除してゼミナールによる少人数教育を推進)を目指し、1950年のヨーロッパ視察でイギリスの教育制度に学びケンブリッジ大学やオックスフォード大学の例に鑑み、寮制度を充実をさせチューター (tutor)システム・カレッジを構想し、台村校地を取得したが、米田の退職を以て頓挫した[6]。
横濱専門学校初代校長林頼三郎は、昭和初期、日中戦争から太平洋戦争に突入する時代背景において司法次官、検事総長、大審院院長、司法大臣等を歴任した人物であり、特に治安維持法の制定・施行に関与し「思想犯の社会からの隔離」を提言した人物として知られる。これは後の1941年(昭和16年)の新治安維持法において、行刑や思想犯保護観察法も絡め、予防拘禁として盛り込まれた。刑法を専門とする法学者であり、著書に『刑事訴訟法要義』『刑法総論』がある。
横濱専門学校初代理事樋貝詮三は、恩給局書記官、法制局参事官、内閣恩給局長、保険院長官、第37代衆議院議長、皇室典範委員会委員長、国務大臣、賠償庁長官などを歴任した人物である。樋貝は資金面の援助のほか、用地選定には米田と同道して助言をしている。樋貝詮三は米田吉盛の最大の理解者であり、米田は樋貝を兄のように慕っていたという。
一橋系会計学者太田哲三は、中央大学、東京商科大学で教鞭をとる。1929年には米田吉盛の依頼で横濱専門学校(神奈川大学)の商業理財科の創立に協力。商業系の講師(教授)を米田に紹介した。公認会計士の資格では、1950年(昭和25年)2月に公認会計士太田哲三事務所を開業。この事務所は1967年(昭和42年)に日本国初の監査法人となる。東京商大を退官後の1948年4月、長浜ゴム工業株式会社(後に三菱樹脂株式会社に商号変更)の社長に就任(1950年(昭和25年)まで)。著書に『商業簿記』。
また、横浜の財界人、上郎清助(貴族院議員)、渡辺利二郎(渡辺銀行取締役)、綿貫音次郎、渡辺金三、横打弥太郎らも資金面で協力し、評議会顧問に、馬場鍈一(貴族院議員、大蔵大臣、内務大臣、日本勧業銀行総裁)、山川端夫(貴族院議員、海軍・外務官僚、国際法学者)、評議員に小林一郎(中央大学教授)、西川一男(中央大学教授)、新保勘解人(大審院判事)、吾孫子勝(大審院判事)なども参画した。
草創期の講師陣は主に次の通り
1930年、貿易科を設置。米田が設立時から構想していたもので、当時としてはユニークな学科であった。卒業生には外務省に奉職し、タイ王国在チェンマイ日本領事館副領事、タイ・トーメン社(現:豊田通商)社長、会長となった西野順治郎等がいる。現代ビジネス学科となる。
1933年、米田は給費金の返還を必要とせず、卒業後の進路について一切拘束しないという魅力ある給費生制度を創設。給費母体の「横濱専門学校奨学会」の設立に奔走し、政治家、財界等から錚々たるメンバーの参加を得る。この給費生制度は戦争中も途絶えることなく継続し、今日に引き継がれる。
教員の研究面も充実を図り、1938年「横濱専門学校商経法学会」を設置。研究紀要『商経法論叢』を創刊、若手の教員陣が論文を多数発表する。創刊時の論文を発表した教員は主に次の通り
商経法学会は法学部、経済学部の分離に伴い、法学会と、経済学会に分離し『商経法論叢』は『神奈川法学』と『商経論叢』になり今日に至る。
横濱専門学校工学科(機械工学、電気工学、工業経営の工学三科)は、1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件勃発と、日本が中国との泥沼の全面戦争(日中戦争)に踏み込み、戦争に伴う軍需工業と重化学工業の需要が高まる中、日本政府は工業技術者養成機関の大拡張政策を推進する状況の中で、当時、法学部の産業管理及び能率論の講師だった経営学者上野陽一(フレデリック・テイラーの科学的管理法を能率学と名付け、端緒的研究者)の提言により、「国策遂行ノ為メ、生産力拡充ノ要ハ焦眉ノ急ナリ、然ルニ斯界ノ実状必ズシモ安恕タリ得ズ、之本校ガ微力ヲモ顧ミズ増設ヲ発起セシ所以ナリ。」という政府の要望に答える形で、「日支事変による時局進展と共に各工業部門の拡大と相俟って必然的に問題化されてきた技術員特に、高等技術員の不足を補充し併せて専門学生として人格を陶冶し国体観念を涵養する目的」(『横専学報』第81号)をもって設置し、横浜高等工業高校(現・横浜国立大学工学部)の有力教員を引き抜いて構成された。
1928年に米田吉盛が横浜市中区桜木町に、林頼三郎、樋貝詮三、太田哲三らの協力を得て、横濱学院を開設した。その後、1929年に専門学校令によって横濱専門学校となる。横濱専門学校は、勤労青年のための夜間部を設けていたが、これは高等教育機関としては横浜初のことであった。所在地は横浜市中区桜木町であった。1930年、当時東急東横線の開通で発展の見込まれた横浜市神奈川区六角橋の字・宮面の丘陵に移転し、現在に至る。移転当時、付近は田畑の広がるのどかな田園地域だった。
現在の校名は第二次世界大戦後の学制改革による大学昇格時に決定した名称である。横濱専門学校と官立の新制大学(前身は横浜経済専門学校・横浜工業専門学校・神奈川師範学校・神奈川青年師範学校)と横浜市立の新制大学(前身は横浜市立経済専門学校)がともに「横浜大学」を名称として申請したため、3校において協議を行うこととなった。その結果、横濱専門学校は「神奈川大学」を名乗り、官立および市立の「横浜大学」はそれぞれ校名に「国立」「市立」を挿入することで各校とも合意に達した[22]。
役職名 | 氏名 | 在職期間 | 専門 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
横濱専門学校 校長 | |||||
校長 | 林頼三郎 | 1929年 1947年 6月 2日 4月 1日 - | 法学 | 刑法 1941年(昭和16年)の新治安維持法にて思想犯の予防拘禁制度 | |
校長 | 米田吉盛 | 1947年 1951年 3月31日 | 9月 6日 - 法学 | 政治家 | |
神奈川大學 学長 | |||||
学長 | 米田吉盛 | 1949年 1968年 3月18日 | 4月 1日 - |||
学長 | 津村利光 | 1968年 1968年11月30日 | 3月18日 - 工学 | 機械工学 | |
学長代行 | 福田實 | 1968年12月 1969年 9月 5日 | 1日 - 戦後思想研究 | ウィリアム・フォークナー研究 | |
学長代行代理 | 長倉保 | 1969年 1969年 9月 5日 | 5月 1日 - 経済学 | 経済史 幕藩体制解体の史的研究 元禄期の江戸積酒造業研究 | |
学長代行 | 丹羽邦男 | 1969年 1969年12月 5日 | 9月 6日 - 経済学 | 農業史 明治維新の土地改革、明治政府の社寺支配過程の総合的研究 | |
学長代行 | 神川正彦 | 1969年12月 1970年 7月26日 | 6日 - 哲学 | 比較文明学・ 日本文明の多元性 | |
学長代行 | 黒田覚 | 1970年 1971年 1月31日 | 7月27日 - 法学 | 憲法、純粋法学のハンス・ケルゼンに師事、君主象徴論、カール・シュミット制憲権論を修正した黒田制憲権論 | |
学長代行 | 浜野裕司 | 1971年 1971年12月12日 | 2月 1日 - 工学部 | 応用電気化学 光化学 酸化還元 | |
学長事務取扱 | 宮川武雄 | 1971年12月13日 - 1974年 3月31日 | 経済学 | 経済思想史、独占および寡占理論の研究 | |
学長 | 勝田千利 | 1974年 1976年 3月31日 | 4月 1日 - 建築工学 | 東京工業大学系建築学「伊勢湾台風復興住宅」の設計 自動制御による長周期地震計 電気油圧式自動制御による免震装置 免震構造 | |
学長 | 飯田耕作 | 1976年 1978年 4月30日 | 4月 1日 - 外国語学部 | D・H・ロレンス研究 | |
学長事務取扱 | 児玉敏 | 1978年 1978年 7月11日 | 5月 1日 - 法学 | 大学紛争期の法学部長(3回) | |
学長 | 山邊武郎 | 1978年 1981年 7月11日 | 7月12日 - 工学 | クロマトグラフィー科学、無機化学、海水淡水化 | |
学長 | 三宝義照 | 1981年 1984年 7月11日 | 7月12日 - 工学 | 解析電力系統工学 | |
学長 | 荻原昤二 | 1984年 1987年 7月11日 | 7月12日 - 生物学 | 生物学汎説、生物学提要 | |
学長事務取扱 | 安盛岩雄 | 1987年 1987年 7月28日 | 7月12日 - 物理化学 | 化学反応、触媒作用の物理化学 | |
学長 | 荻原昤二 | 1987年 1990年 7月28日 | 7月29日 - 生物学 | ||
学長 | 藤本盛久 | 1990年 1993年 7月28日 | 7月29日 - 建築工学 | 東京工業大学系建築学 鉄骨構造の基礎研究 | |
学長 | 三宅三郎 | 1993年 1994年 3月31日 | 7月29日 - 物理学 | 1965年インドコラー金鉱で大気ニュートリノの世界初観測で仁科記念賞、2002年ノーベル物理学賞受賞者小柴昌俊の神岡鉱山計画(カミオカンデ)等と共に宇宙線ミュー粒子およびニュートリノの研究。2015年ノーベル物理学賞受賞者梶田隆章の8代前の東京大学宇宙線研究所所長 | |
学長事務取扱 | 清水嘉治 | 1994年 1994年 7月 6日 | 4月 1日 - 経済学 | 欧州経済学 | |
学長 | 内田文昭 | 1994年 1997年 7月 6日 | 7月 7日 - 法学 | 刑法学、刑法における過失共働の理論 | |
学長 | 桜井邦朋 | 1997年 2000年 7月 6日 | 7月 7日 - 物理学 | 太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学 | |
学長 | 山火正則 | 2000年 2007年 3月31日 | 7月 7日 - 法学 | 刑法学、犯罪競合に関する研究 | |
学長 | 中島三千男 | 2007年 2013年 3月31日 | 4月 1日 - 歴史学 | 国家神道体制の確立過程研究、海外神社研究 | |
学長 | 石積勝 | 2013年 2016年 3月31日 | 4月 1日 - 政治学 | 国際政治学 | |
学長 | 兼子良夫 | 2016年 2022年 3月31日 | 4月 1日 - 経済学 | 地方財政学 | |
学長 | 小熊誠 | 2022年 現在 | 4月 1日 - 人文学 | 民俗学、文化人類学 |
各キャンパスの詳細については後節の「施設」を参照。
作詞:土井晩翠、作曲:岡野禎一、編曲:坂下滉。創設者米田吉盛の横濱専門学校設立の願いが込められている。
作詞:神保光太郎、作曲:高田三郎、編曲:真島俊夫。創設者米田吉盛の「国際的な世界市民の養成」の願いが込められている。「岩を打ちとどろに返す真白なる波のゆくえよ〜」や「空あおく涯(は)てなくあおく船は航(ゆ)く遠きわだつみ」のフレーズは開国以来の国際都市-横浜らしい航海を連想する。「世界は呼ぶ(繰り返し)」のフレーズで多くの卒業生の記憶に留まる。
作詞:松村祐一、作曲:川上博正。昭和22年頃、当時の應援団長の提案で、学生自治会が学生から公募して生まれた応援歌。
作詞:河原正信 作曲:陸軍戸山學校軍楽隊。陸軍戸山學校軍楽隊作曲による勇壮でリズミカルな応援歌。
作詞:丹羽高志 作曲:真島俊夫。 神奈川大学創立60周年を記念して作られ、歌詞は学生から一般公募された。
作詞:神奈川大学應援團 作曲:静岡民謡。静岡県三島市の民謡として知られる『農兵節(のうへいぶし・のーえぶし)』が元。農兵の訓練にも使われた曲を神大生の心意気の歌詞に変えた歌。
作詞・作曲:中濱基夫。歌の前には口上があり、「富貴名門の乙女に恋するを純情の恋であって裏町の廊屋に住める貧しき乙女に恋するを不情の恋であろうと誰が云う。(「そうだ!」と一同が相ノ手を入れる。後続の各センテンスも同様)…(略)酒は飲むべし、これ百薬の長。女は買うべし、これまた人生無上の快楽なり。胡蝶美人の膝枕、昨夜の未練さらさらなし。我は浮草 根無し草 明日の命を誰が知ろう。いざ高らかに唱わんかな神奈川大学宮面ヶ丘寮歌」 と口上を述べた後に歌う。かつて宮面ヶ丘(現在のグランドの向こうの丘陵)に建っていた宮面寮寮生の歌。選手を送り出す際に円陣を組んで日本酒を回し飲みしながら斉唱していた。応援団が歌う際には、絶叫を伴わずに(メロディに従って)歌う。
作詞:鳥居枕、作曲:滝蓮太郎、岩河三郎。歌の前に口上があり「臥竜こうだ(行蛇?)の夢破れ、巨頭逆巻く太平洋、黒雲天に漲れど、魏臥天を突き、風雪に耐え、寒暖に耐え抜く、箱根の山、空に輝く陽を浴びて、宮面ヶ丘に我ら立つ、若き吾等が團員の狂い猛し舞う前に、意気打ち添ふる敵は無し、いざ高らかに唱わんかな貴やか(あてやか)に舞わんかな、神奈川大学名物、箱根の山」の口上の後、「箱根の山は天下の瞼〜」と歌う。
作詞:神奈川大学應援團、作曲:永井建子『元冠』。軍歌『元寇 (軍歌)』(1892年)の替え歌。
作詞・作曲:横浜學生應援團連盟。
学校法人神奈川大学が運営する各教育機関は、大学とそれを頂点とする附属学校などの関係はなく、あくまで同一学校法人が運営する独立した学校の集合体という形態をとっている。
日本で唯一の研究科である。第16代日銀総裁、民俗学者でもあった澁澤敬三が1921年に創立したアチック・ミューゼアム・ソサエティが母体。
みなとみらいキャンパス内に所在。
詳細は
短期大学部は2002年度に廃止された。
神奈川大学では以下の資格教育課程を設置している。
日本常民文化研究所は、渋沢敬三が1921年に創立し、食客として宮本常一等が活動したアチック・ミューゼアム・ソサエティを母体として設立された研究所。1982年に神奈川大学の附属機関となった。日本の民衆文化や市井の生活を調査分析する研究機関として民俗学の研究家の間では高い評価を受けている。
国際常民文化研究機構 国際常民文化研究機構は、神奈川大学日本常民文化研究所を母体にして、文部科学省「平成21年度人文学及び社会科学における共同研究拠点の整備の推進事業」(現「特色ある共同研究拠点の整備の推進事業」)で認定され、2009年8月3日発足した共同研究拠点。グローバル化した国際社会にあって、等身大の生活文化を総合的に調査・研究・分析する方法論の確立を目指し、多文化共生の道を探る。
世界及び地域に貢献する教育・研究を推進するために、本学では各種研究のプロジェクトチームを結成[33]。
研究所一覧 | 拠点 |
光機能性材料研究所 山口和夫 (化学者)理学部・教授 2008.10.1 - 2017.3.31 延長2019.3.31(10年6ヶ月) | 湘南ひらつかキャンパス |
天然医薬リード探索研究所 上村大輔特別招聘教授 2011.4.1 - 2017.3.31 延長2018.9.31(8年間)神奈川大学天然医薬リード探索研究所 | 湘南ひらつかキャンパス |
プログラミング科学研究所 木下佳樹理学部・教授 2013.6.1 - 2018.9.31(5年間10ケ月)神奈川大学プログラミング科学研究所 | 湘南ひらつかキャンパス |
マルチモーダル研究所 斎田真也人間科学部・教授 2014.4.1 - 2019.3.31(5年間)神奈川大学マルチモーダル研究所 | 横浜キャンパス |
光合成水素生産研究所 井上和仁理学部・教授 2008.4.1 - 2017.3.31 延長2018.3.31(10年間) | 湘南ひらつかキャンパス |
グローカル環境政策研究所 日野晶也理学部・教授 2012.4.1 - 2017.3.31(5年間) | 湘南ひらつかキャンパス |
神奈川大学の図書館は横浜キャンパスに横浜図書館が、湘南ひらつかキャンパスに平塚図書館が設置されている。2010年4月時点で、横浜図書館には約100万冊、平塚図書館には約18万冊の蔵書が存在している[34]。互いの図書館の書籍を借りることもできる。
正式名称は神奈川大学学術機関リポジトリ。学内の教育成果や研究結果、研究論文などを電子化し、まとめた上で学外へ広く発信することを目的としており、2008年度頃から本格的に機能している。国立情報学研究所委託事業・次世代学術コンテンツ基盤の共同構築にも採択されている。学術雑誌の購読数の減少、それによって研究者が各々必要とする学位論文を読むことが困難になった現状、文部科学省「科学技術・学術審議会学術分科会、研究環境基盤部会、学術情報基盤作業部会」の報告などを背景として設立された。登録された教育成果や研究結果、研究論文等(同機関内では「知的生産物」と総称)は、Google、JAIRO、OAIster(ミシガン大学電子資料ポータルサイト)などから検索可能となっており、インターネット環境下の全ての人間を対象とした情報の無償公開を行っている。 登録されたデータはより多くの研究者達の目に留まりやすくなり、自らの研究結果を広範囲に発信できるほか、知の発信による社会貢献責務のある大学にとっても有意義なシステムであるとしている。 登録データは、それぞれ学術雑誌論文、学位論文、紀要、研究調査報告書、学会発表資料、レポート、プレプリント、図書、貴重書、教育資料、その他の合計11に分類される。
2012年度より神奈川大学の日本常民文化研究所、大学資料編纂室の所蔵・収集資料、非文字資料研究センター、図書館等の諸機関が所蔵する歴史・民俗資料、学術資料、研究成果の公開と保存管理のために構築。大学史資料もデータ化されている。
21世紀COEプログラムは以下が採択されている。
文部科学省「平成24年度私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」
文部科学省「平成25年度私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」
私立大学学術研究高度化推進事業は文部科学省が平成8年度(1996年)から平成19年度(2007年)まで行っていた大型事業、私立大学に重点的かつ総合的な支援を行い、私立大学における研究基盤の整備および研究機能の高度化を図ることを目的としていた。
文部科学省公募「平成21年度人文学及び社会科学における共同研究拠点の整備の推進事業」(平成22年度から「特色ある共同研究拠点の整備の推進事業」)* * 日本常民文化研究所「国際常民文化研究機構」(共同研究拠点の代表者:経済学部教授・日本常民文化研究所長 佐野賢治)が共同研究拠点として採択
1960年代後半、世界的なベトナム反戦運動等の社会運動の潮流は神奈川大学にも及び、神奈川大学の学生運動は全学自治会を社青同解放派が掌握した。神奈川大学は、1970年代に塩川喜信(トロツキスト、全学連運動中期、元全日本学生自治会総連合(全学連)委員長、東大農学部助手)が神奈川大経済学部非常勤講師であったなど、新左翼の影響を受け、藤本陽一、北條秀輝全学連委員長などを輩出するマルクス主義の復権を目指す社青同解放派全学連の最大拠点校の一つであった。神奈川大学の学生運動は、解放派の拠点としては東京大学や法政大学と比べて約10年遅く、1968年-1970年代の反戦争青年委員会活動からであり新左翼解放派、極右民族派共に東京大学の思想の流入、影響を受けているのが特徴である。
一方、極右民族派としては「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協)に参加し、1970年に三島由紀夫(東大法卒・ 小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者)と共に三島事件を起こし、戦後日本の在り方に疑問を持ち、日本建国の精神・源流を取り戻し、GHQ(アメリカ合衆国)から押しつけられた憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた「楯の会」の伊藤邦典(1期生)、古賀浩靖(2期生、法学部)、小賀正義(2期生、工学部)、田村司(4期生)、向井敏純(4期生)らもいた。古賀浩靖は神奈川大学法学部に改憲論者の教授(黒田覚か?)が居た為に入学を決めたという。神奈川大学は民族派学生の拠点校でもあった。
神奈川大学では他大学が「学園祭」と呼んでいるイベントを「大学祭」と総称している。大学側としては、学年暦に含まれる祭を「大学祭」と称し、大学側公認前の祭を「学園祭」と区別していたことがある。そのため、本記事ではかつて開催されていた学園祭とは別であることを示すために節名を「大学祭」としている。後述のとおり1996年 - 1998年は横浜キャンパスでの学園祭が中止され、湘南ひらつかキャンパスのみで学園祭が行われていた。
横浜キャンパスで開催されている大学祭である。 横浜キャンパスでは古くから「海神祭」(わだつみさい)の名前で学園祭を11月3日前後に開催されていたが、前述の全学自治会追放により、1996年より開催が中止されている。 その後、横浜キャンパスの学生で組織される神大フェスタ実行委員会が結成されて、1999年より学生主体のイベントとしてスタート、2005年には大学公認イベントとなった。湘南ひらつかキャンパスとの交流を考慮して、後述の平塚祭とは別日程を組んで開催されていた。
みなとみらいキャンパス開設と共に立ち上げた大学祭、後援に(一社)横浜みなとみらい21が加わっている。第3回より神大フェスタと日程が分かれる予定。
湘南ひらつかキャンパス開設と共に大学の協力も得て立ち上げた大学祭、湘南ひらつかキャンパス学生により結成される平塚祭実行委員会により運営、実行されていた。1992年開催の第4回まで「どんちゃん祭」と称し、1993年の第5回から平塚祭となる。2005年より大学公認となった。
1993年以降は平塚祭期間中に湘南ひらつかキャンパス卒業生・湘南ひらつかキャンパス教職員経験者を招待する「ホームカミングデー」(2008年までは「ホームカミングパーティー」と呼称)を開催していた。2009年は湘南ひらつかキャンパス開設20周年式典が開催された関係で、式典出席者を交えた懇親会が「ホームカミングデー」を兼ねて開催された。
本学が主催で各種コンテストを開催している。
1998年に神奈川大学創立70周年を記念して創設。日本の伝統的な短詩型文学「俳句」を通して、高校生、受験生に独自の感性で表現する機会を提供し、高校生文化発信に寄与することを目指す。これまでの選考委員は、宇多喜代子、大串章、金子兜太、長谷川櫂、復本一郎、黛まどか等俳壇を牽引する俳人である。日本全国の高校生からの応募がある。最優秀賞(5作品)、入選(65作品)、一句入選した作品は『17音の青春』として編集、出版される。
上記の俳句大賞の理系版の賞として高等学校の理科教育を支援するとして2002年に創設。全国の高校生を対象に、理科・科学に関する研究や実験、観察、調査の成果についての論文を募集し、各賞(大賞・優秀賞・努力賞・指導教諭賞・団体奨励賞)を選ぶ。3月の授賞式では、受賞者の表彰のほか、受賞者による「論文発表」の場を設ける。審査委員による基調講演も実施。受賞作品集『未来の科学者との対話』を出版。
神奈川大学工学部では、神奈川県「大学発・政策提案制度」として平成26年度から神奈川県と神奈川大学が共同で2年間、平成28年からは神奈川大学が独自主催する継続的事業として、将来を担う科学技術人材の育成を目的に中高校生を主な対象として、宇宙エレベーター実験機の製作を指導するとともに、製作試験機の競技会や成果発表会などを実施[42]。 また2013年より神奈川大学附属中・高等学校が運営中心となる小学生及び中高生向け競技会「宇宙エレベーターロボット競技会」開催に大学としても協力しており、文部科学省後援となり第六回大会より中高生中級優勝校は「文部科学大臣賞」が与えられる。[43]
箱根駅伝は東京〜箱根の区間で、ほぼ神奈川県を横断するスポーツイベントであり、地元の神奈川大学としては一大イベントである。全参加校の第15番目に1936年から出場し、横浜にある大学としては最古参であり、神奈川県では神大を応援するファンも多い。スタートとゴールで盛大に応援が行われる際は神大の幟を目印としている。過去には2回の総合優勝も経験している。 神大の主な応援ポイントは次の通り。
スタート地点(東京大手町読売新聞社前) 、ゴール付近京橋 - 中央通り - 日本橋 - 東京大手町読売新聞社前 、品川駅高輪口前、東神奈川駅東口、国道15号線沿い(東神奈川 - 横浜までの約2.0 km)、横浜駅東口横濱プラザホテル前、戸部駅前、保土ケ谷駅前、権太坂頂上付近、矢沢歩道橋付近、原宿交差点、遊行寺、辻堂高砂交差点 、茅ヶ崎第一中学校、 国道134号線沿い(平塚 - 小田原までの間、湘南海岸公園付近 、大磯駅前、国府津駅前大磯寄り、小田原西湘法律事務所前、箱根湯本駅前、宮ノ下温泉富士屋ホテル前等[44]。
同窓会は「宮陵会」(きゅうりょうかい)と称す。また、保護者組織としての後援会がある。
他大学のようにはっきりとした学閥「蒼門会?」形成は見られない(中正堅実の精神の為、公平性に鑑み学閥は形成しない?)が前述の通り、2015年警察官採用で全国4位であり、警察関係者OBの大学訪問などがある。横浜の企業、銀行、貿易系旅行系などに多少の学閥。前述の増田猛夫等東証一部上場企業等の経営者を輩出。アナウンサー等人気花形職業への就職実績もある。
2023年4月に理学部が湘南ひらつかキャンパスから移転[47]し、これに伴い、理学部、工学部を再編し、情報学部、化学生命学部が新設された[48]。
2021年4月、横浜市西区みなとみらいに開設[49][50][51][52][53]。
2017年4月の記者発表では、新キャンパスには約5,000人の学生が通うことを想定しているとし、国際系の学部(横浜キャンパスの外国語学部や湘南ひらつかキャンパスの経営学部国際経営学科など)を集約し、外国語学部国際文化交流学科と日本常民文化研究所をベースとした学部の新設を検討していることも公表された[54][50][55][56]。2021年4月の開学時に外国語学部と国際日本学部が横浜キャンパスから、経営学部が湘南ひらつかキャンパスから移転し、国際系の学部が集結した[47][48]。
21階建て(高さ約100m)のビルの1階〜3階は市民にも開放するソーシャルコモンズ(交流・賑わいゾーン)として、カフェやレストラン[57]、エクステンションセンター、図書館などを設けている。また、大学の関係施設が入る中層階の4階〜10階は教育ゾーンとして講義室や講堂、体育施設(アリーナ・ジムなど)、学生ラウンジ(学生食堂)、ホールなど、高層階の11階〜20階は研究ゾーンとして研究室や演習室、プレゼンフィールドなどが配置されており、最上階の21階はトップラウンジ(学生食堂・カフェテリアを設置、一般のパーティ利用なども可能)となっている[52][58][59][60]。
横浜キャンパス場所:19号館2階 湘南ひらつかキャンパス場所:11号館
神奈川大学の学生、教職員、地域の方々の健康増進、また本学スポーツ活動の興隆に資することを目的として設置。
トレーニングルームには、ベンチプレス・レッグエクステンションなど筋力アップ効果のあるマシーンのほか、ランニングマシーン、エアロバイクなどの持久力アップのマシーンなど各自の健康管理に役立つ設備が充実。
25メートル温水プール×6コース(水深:1.1メートル - 1.5メートル) 太陽熱を利用した温水の室内プール、曲線を描くガラスの天井から自然光が日中降り注ぐ。
ベンチプレス・レッグエクステンションマシーンのほか、ランニングマシーン、エアロバイク等。
附属学校以外の設備としては大学野球場・大学ラグビー場などがある。 2012年には中山キャンパスの緑地管理用整備路にウッドチップを敷き詰めたクロスカントリーコースが完成。全長は1100m(トラックを合わせると1500m)、高低差は20m(マンション6階建て相当)の規模を誇り、キャンパス内にあるコースとしては全国トップクラス[61]。 2020年3月には陸上グラウンドが全天候型に改修された[62]。ただし、このグラウンドは附属学校の専用設備であったが、この改修を機に大学との共用に変更されている。
2017年4月にみなとみらいキャンパスの計画が公表された際に、将来的には横浜市と平塚市に分散しているキャンパスを、横浜市内の2キャンパスに集約することも検討しているとしていた[54]。
2021年4月に経営学部がみなとみらいキャンパスへ移転し、残る理学部(約1,500人)も2023年4月に横浜キャンパスへ移転する[48]ことから、湘南ひらつかキャンパスを閉鎖し跡地は売却する方針であることが2022年9月に明らかとなった[47]。
その後、湘南ひらつかキャンパスの跡地に関して、川崎競馬組合を優先交渉権事業者に決定したと2024年5月に発表した。同組合は川崎競馬のトレーニングセンターとして整備したいとしている[64]。
1981年12月竣工。神奈川県箱根町の箱根金時山の麓、仙石原にある、神大の卒業生や教職員等及びその家族を対象とした保養施設。 大浴場(温泉)の泉質は硫酸塩水(アルカリ性)、レストラン(朝食、夕食)、宴会場、卓球場、マッサージコーナー、ラウンジ、囲碁・将棋・麻雀などのプレイルームも備える。 利用対象者:本学教職員(法人役員も含む)およびその家族、本学を定年退職した教職員およびその家族、宮陵会・後援会・緑会会員および会員同伴の家族、専任教職員を申込み責任者とした学外者 など[65]
長野県諏訪郡富士見町立沢字広原にある。八ヶ岳の裾野に広がる宿泊可能な研修施設。研修室、テニスコート、バーベキュー施設、卓球室、ビリヤード室、パソコン室、マレットゴルフなど。利用対象者:本学教職員およびその家族、本学学生(引率する教職員のいる場合に限る)本学を定年退職した教職員およびその家族、宮陵会・後援会・緑会会員および会員同伴の家族専任教職員を申込み責任者とした学外者 など[66]
大講堂
3000名弱収容 オールナイトレインボーショー オールナイトロックショー エレクトリックサーキット 多数のオールナイトコンサート発祥の地
横浜キャンパスには元々、現在の1号館のある付近に大講堂があったが、再開発によって取り壊されている。再開発中に16号館が建設され、同館内に「セレストホール」と称する講堂を開設した。
湘南ひらつかキャンパスには開学当初講堂がなく、1号館の円形講義室を講堂代わりに使用していた。大学80周年記念事業によって2009年8月に11号館が新設された際に、「サーカムホール」と称する講堂を同館内に開設した。
大学では「学生マンション」と称して以下の施設を提供している。
2011年9月に横浜キャンパスグランドの一角に完成。山岳部の「セブンサミッツ」(七大陸最高峰踏破)達成を記念して作られたクライミング施設。高さ12m、幅5m
2013年4月に横浜キャンパス1号館8階に開設された、学生による学生のための映像や音声が編集できるスタジオ。
神奈川大学で導入している内田洋行製の証明書自動発行機の名称で、正式な商品名は「PAPYRUS MATE(パピルスメイト)」。
横浜キャンパス8号館2階にあるラウンジ。壁一面に世界地図が描かれている
横浜・平塚・中山(附属)全てで使える、神大総合情報ネットワークの総称。略称はMNS。
横浜の1号館学生掲示ホール脇にある噴水の中心に聳え立つモニュメント。“永遠”。彫刻家速水史朗作。 2002年設置。1998年の創立70周年記念事業で宮陵会及び後援会より寄贈。
2002年の横浜キャンパス再開発工事完了と同時に、旧3号館跡地に設けられたフリースペース。一面整備された草の緑に覆われ、神大生のみならず地元民に開放されている。
(1)学生の交流 (2)教職員の交流による教育・研究の連携 (3)共同研究、共同事業の実施 (4)学生に対する大学施設の相互開放 (5)各種補助事業への共同申請 (6)その他必要と認められる事業
神奈川大学では2017年1月時点、以下の26ヶ国、85の協定校ならびに15の提携校と交流を行っている。 学生交換が行われている協定校は62校。地域別の協定校数(()内は学生交換校)は以下の通り。
高大連携の推進は地元神奈川県をコアとし、高校教育と大学の教育に関する交流・連携を通じて相互に教育活動の理解を深め、それぞれの教育の実をあげることを目的とする[73]。
あ行
か
は行
ま行
神奈川県立総合教育センター
等
この節の加筆が望まれています。 |
神奈川大学の研究成果や技術を生かしたベンチャー企業として未来環境テクノロジー(横浜市)が化粧品「PROUD BLUE」シリーズ等を販売している[80][81]。
神大創設者米田吉盛が1927年(昭和2年)に東京都千代田区神田錦町(当時は東京市)にある矢野龍渓の私学錦城中学校(現・錦城学園高等学校)校舎の一部を借りて、巡査及び看守に民事法学及び刑事法学の一般を授けることを目的とする私塾「武蔵学園」を開設。林頼三郎からの委嘱で吉田久、西川一男等が民事法を、平井彦三郎が刑事法を担当して学生の指導に当たった。活躍期間はごく僅かであるが、神奈川大学関係機関としては幻の東京都内校である。
1927年(昭和2年)4月、神大創設者である米田吉盛が中区桜木町の「桜木会館」内に「横濱学院」を設立した。桜木会館のオーナー若尾幾太郎(衆議院議員、ホテルニューグランド役員、横浜海上火災保険役員、江ノ島電気鉄道株式会社初代社長)と樋貝詮三が山梨県の同郷であったから無料で借りていたという。 1927年(昭和2年) - 1928年(昭和3年)の活躍期間はごく僅かといえど、境之谷に移転する前の桜木会館こそ神奈川大学始まりの地点と言える。建物は2008年に解体されている。
1928年(昭和3年)に中区で開設された横濱学院が翌年1929年に、後の1976年(昭和51年)に開園した境之谷公園(横浜市西区境之谷105-1、さかいのたに、旧富士塚)の場所に移り、神奈川大学の前身である横濱専門学校となる。校舎は木造平屋建てで、建坪231坪(762平方メートル)。材料は国からの払い下げの材料を利用して造られ、壁はボール紙製という、校舎としては粗末な建物であったが[82]、学生達は教育熱心で優秀な講師陣を誇りにしていたという。学校が神奈川区へ移転した1930年(昭和5年)以降は専門広場と呼ばれ、1984年(昭和59年)に神奈川大学発祥の地として横浜出身の著名な彫刻家井上信道作の銅像「青年の像」が建てられた。現在では、境之谷公園として整備され、公園内には「こどもログハウス」(ちびっことりで)が建つ。
1930年(昭和5年)、横濱専門学校(現・神大)は以前から住宅地で商店街もあった六角橋の外れの丘陵地帯の一角である宮面ケ丘(みやもがおか)に移転した。江戸時代からの六角橋の名主山室周作が学校誘致活動を行っており、米田吉盛と樋貝詮三が現地視察したのち丘の上の土地が広大で最適であると判断し決定した。当時の宮面丘は、茅ぶき屋根の農家や畑が校舎の隣にあるほどの農村であった。横濱専門学校は「ヨコセン(蔑称:ヨタセン)」の名で白楽、六角橋の人々に親しまれた。昭和24年の学制改革では「神奈川大学」と改称し、いよいよ白楽の地に“大学”が誕生した。
1945年(昭和20年)、空襲[83]により宮面ケ丘校舎の一部が焼失、またGHQによって校舎が接収されてしまったため、数ヵ月間、大倉精神文化研究所(現横浜市大倉山記念館)と県立横浜第二中学校(現、横浜翠嵐高校)を仮校舎とした。[84]
1970年に三島由紀夫を隊長とする楯の会(森田必勝(早稲田大学)、小賀正義(神奈川大学)、古賀浩靖(神奈川大学)、小川正洋(明治学院大学))の起こした三島事件は社会に衝撃を与え、今尚、憲法改正論議や、自衛隊の在り方議論について影響を与えている。
横濱専門学校草創期の倫理学の講師には鎌倉・円覚寺住職、臨済宗円覚寺派管長禅僧朝比奈宗源がいた。また、英語主任教授には陸軍語学将校江本茂夫がおり、ユーモアの利いた軍人英語と軍隊式規律の「横専方式英語」を横専学生に教えている。校歌に「祖国の誉」と歌い、鎌倉時代の武士団の元寇の戦いを歌う軍歌『元寇 (軍歌)』の替え歌や、『農兵節』の替え歌が応援歌である事、三島事件に参加した楯の会メンバーが在籍していた事、左翼の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、九・一五ミッドウェイ (空母) (USS Midway, CVB/CVA/CV-41) 母港化反対闘争等の反米活動、2011年からの東北震災のボランティア活動など伝統的な愛郷主義・民族主義・国家主義・地域主義的な活動は質実剛健の校風を表す。
神奈川大学では、国境や文化の差異を超えた国際交流の場を形成し、国際社会で活躍する人材を育成する教育や研究を展開するとともに、そこから得られた成果を広く国際社会に還元することを目指しており、地域と国際社会に開かれた大学として、国際化推進に関する方針を定め、1.国境や文化の差異を超えた国際交流の場を形成、2.教育の国際化、3.留学制度等の拡充、4.学術交流の活性化、5.国際化の成果の還元、6.国際化を推進するための情報の収集と発信等の活動を積極的に行っている。神奈川大学では世界各国の前述の協定校と留学生の交換を行っている。特に、海外からの学生が参加する短期集中型の語学プログラム「神奈川大学日本語・日本文化プログラム」として、年2回(夏季と冬季)受け入れを実施している。
2011年の震災直後より、神奈川大学は東日本大震災被災地支援活動「KU東北ボランティア駅伝」と称して、2017年3月31日まで支援の襷をつなぎ続け、4,041人の学生・教職員・卒業生らボランティアが被災地での支援活動に携わった[85]。 尚、ボランティアの拠点となった岩手県遠野市は、神奈川大学出身の本田敏秋(法学部卒)が市長を務めていた。 2011年4月17日には中島三千男学長(当時)が、神奈川大学出身の佐藤雄平福島県知事(経済卒)を訪問し、佐藤知事は「夏休みを利用して、できるだけ多くの学生さん達がぜひ福島に合宿等で来てください」「自分も頑張るから、神奈川大学も頑張ってください」と述べた[86]。
2009年に文部科学省認定を得て発足した国際常民文化研究機構は、長年の日本常民文化研究所の漁業制度史・民具研究を中心に「常民文化」研究を行う。創設者・澁澤敬三の「ハーモニアスデヴェロープメント」精神に拠り、国内外の研究者に広く「常民文化」研究の史資料・場・機会を提供する。具体的には学際的・国際的な共同研究拠点として、国際常民文化研究機構運営委員会主導下に研究テーマ公募プロジェクト型共同研究や、国際学術交流・シンポジウムの開催、インターネットによる史資料や研究成果の公開を推進し、共同研究拠点に集約したデータベースの一般公開を推進している[87]。
神奈川大学工学部には伝統的に宇宙線物理学者が在籍しており前述の三宅三郎神奈川大学元学長・東京大学宇宙線研究所所長が日中国交正常化(1972年9月)後1979年に中国張文裕高能研所長から中国チベットラサ(拉薩)の南約90kmカンパラ山におけるエマルション・チェンバー(EC)共同研究の申し入れを受けて日中共同研究が発足した、更にラサの北約90km標高4300mヤンパーチン(羊八井)に49台のシンチレーション検出器(各面積0.5㎡)からなる空気シャワー観測システムを製作した日中共同研究が稼働、1993年度から文部省(現文部科学省)の海外特別事業「国際共同研究」経費となり、空気シャワー装置の検出器の数は221台(検出器間隔は15mで有効面積約37000㎡)に拡充。この研究に神奈川大学教授湯田利典教授、白井達也教授等が参加している[88]。2019年7月には日比野欣也教授らがかに星雲からの史上最強450兆eVのガンマ線を観測したと発表している[89]。
神奈川大学では伝統的に環境主義に基づいた研究を行っている。例えば神奈川大学工学部物質生命化学科井川学教授の神奈川県・丹沢大山で酸性霧・森林衰退の研究[90]。前述の三相乳化(神奈川大学)技術を応用したスーパーエマルジョン燃料開発の研究や、前述の太陽光活用を基盤とするグリーン/ライフイノベーション創出技術研究拠点の形成研究(文部科学省平成24年度私立大学戦略的研究基盤形成支援事業)等数多の研究が在る。経済学分野においても神奈川大学経済学研究科委員長渡部照洋教授の環境経済学の研究等が在る[91]。また大学を挙げてエコロジー運動に取り組んでいる。その一つとして大学のエコキャンパス化があり、横浜キャンパス新3号館屋上、湘南ひらつかキャンパス屋上等には太陽光発電システムを導入している[92]。また、2018年12月には元内閣総理大臣小泉純一郎を招いてクリーンエネルギー(再生可能エネルギー)の必要性を説く「原発ゼロと日本の歩むべき道」と題する講演会を開催している[93]。
神奈川大学工学部物質生命化学科松本太研究室では、2013年春から神奈川県内の中小企業におけるリチウム電池に関する技術力、競争力の向上をはかるため「神奈川大学リチウムイオン電池オープンラボ」をスタートさせ、2012年度、2013年度神奈川県大学発政策提案事業に採択された。2019年1月には第25回を数える[94]。
2008年に神奈川大学工学部卒の工学技術員・大野修一を会長として軌道エレベーター(宇宙エレベーター)開発を行う宇宙エレベーター協会(JSEA)が設立される。JSEAが2018年9月から開始する次期宇宙エレベーター技術競技会GSPECは競技会のフィールドを米国ネバダ州BlackRock砂漠で予定[95]。
神奈川大学は大学宇宙工学コンソーシアムに加盟し工学部機械工学科航空宇宙構造研究室並びに宇宙ロケット部(学内研究プロジェクト)を中心にハイブリッドロケットの開発・製作に取り組む。毎年、能代宇宙イベントや伊豆大島で打上げ実験を行う。2017年9月には新規開発の「3Dプリンタによる複雑形状燃料搭載・カーボン繊維強化軽量ハイブリッドロケットエンジン」を搭載し2機の打上げに成功、2016年の記録を2倍以上更新して高度は4,779mに到達した[96][97]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.