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南淵 弘貞(みなぶち の ひろさだ)は、平安時代初期の公卿。姓は息長真人のち槻本公、坂田朝臣、南淵朝臣。大和守・坂田奈弖麻呂の次男。官位は従三位・参議。
若くして大学寮で学び諸子百家を渉猟し、才能を認められ若くして文章生に推挙される[1]。大同元年(806年)少内記次いで少外記に任ぜられる。
嵯峨朝に入り、弘仁元年(810年)大内記に任ぜられ、美作掾・式部丞・蔵人を経て、弘仁7年(816年)従五位下・但馬介に叙任される。その後地方官等を務めたのち、弘仁12年(821年)皇太子・大伴親王(のち淳和天皇)の東宮学士となり右少弁を兼ねる。弘仁13年(822年)従五位上・左少弁に昇進する。
弘仁14年(823年)4月の淳和天皇即位に伴い正五位下・式部少輔に叙任され、9月に左近衛少将を兼ねる。さらに同年12月には父・坂田奈弖麻呂の遺志を述べて改姓を請うて許され[2]、弟・永河と共に坂田朝臣から南淵朝臣姓に改姓している。さらに、翌天長元年(824年)従四位下・式部大輔、天長2年(825年)には参議に任ぜられるなど、淳和朝に入ると俄に昇進を果たした。議政官として式部大輔・宮内卿・刑部卿・右兵衛督を兼帯する一方、天長6年(829年)従四位上、天長7年(830年)正四位下、天長8年(831年)従三位と順調に昇進を続けた。なお、淳和朝では『経国集』の編纂や『令義解』の撰集に参画している。
淳和天皇の退位から約半年後の天長10年(833年)9月19日薨去。享年57。最終官位は参議刑部卿従三位。
天長8年(831年)4月1日の夜に日蝕が発生したが、事前に上奏が行われなかった。朝廷は暦博士・刀岐浄浜に奏上しなかった理由を問いただしたところ、「陰陽寮の壁書に夜の日蝕は奏上不要との記載があったため、事前に奏上しなかった」との回答があった。これを受けて、弘貞は陰陽寮に対して「国家の急務であるのに、どうして明朝を待つようなことがあろうか。夜に発生する日蝕であっても奏上しなくてはならない」と言った。のち、貞観19年(877年)4月1日に再び夜に日蝕が発生するため、廃務の是非を諸博士に議論させた際、天長8年(831年)の経緯が過去の事例として挙げられている[3]。
注記のないものは『六国史』による。
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