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戦国時代から江戸時代前期にかけての公卿 ウィキペディアから
今出川 晴季(いまでがわ はるすえ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公卿。菊亭 晴季(きくてい はるすえ)としても知られる。
天文8年(1539年)、左大臣・今出川公彦の子として生まれる。初名は実維。
天文14年(1545年)、元服し、将軍・足利義晴からの偏諱を受けて晴季と改名する。
織田信長亡き後、天下人となった羽柴秀吉は、はじめ征夷大将軍の官職を得ようとして足利義昭の猶子となる工作をしたものの[1]義昭の拒否に遭い、将軍職を諦めていた。そこで秀吉に関白任官を持ちかけて朝廷との調整役を務めたのが晴季で、これにより晴季は豊臣政権と密接な関係を築いて朝廷内で重きをなした。
しかし、関白・豊臣秀次に娘の一の台を嫁がせていたため、文禄4年(1595年)8月に秀次が謀反の疑いをかけられて高野山に軟禁され、自害に追い込まれた後、一の台をはじめとする秀次の一族妻妾が処刑される。晴季もこれに連座して越後国に流罪となった。翌慶長元年(1596年)、赦されて帰京した。
豊臣秀吉が亡くなると内大臣徳川家康以外に大臣が不在となったことによりにより朝廷の運営が混乱しはじめたため家康の推挙により復職することとなり、慶長3年12月(1599年1月)には右大臣に還補する。
慶長8年(1603年)正月に辞すまでその職に在った。
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