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下方 貞清(しもかた さだきよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。織田氏の家臣。尾張上野城主。
大永7年(1527年)、尾張国春日井郡上野城(現在の愛知県名古屋市千種区上野)に生まれる。
天文10年(1541年)、父貞経病死の後、相続し、上野城を守る。尾張春日井郡名塚村(現在の名古屋市西区)において岩倉織田氏・織田信安との戦いで初陣。
天文12年(1543年)、三河国小豆坂の戦いで功名し、小豆坂七本槍に数えられる。主君織田信秀から古今無双の高名と賞せられ感状を賜る。尾張国海津表において清洲衆の坂井甚介、織田与一衛門、上田三四郎と中条弥十郎、中条小一郎(家忠)、柴田勝家、佐々庄之助、下方貞清が槍を合わす。貞清は勝家に先んじて首級を得る。
天文20年(1551年)、尾張国萱津の戦いにおいて、清洲織田信友勢が負けに及ぶ所、家老の川尻左馬介が足軽騎馬百ばかりを引きつれ、稲葉地において川を隔てて攻め合った。川尻は尾張勢を追って真っ先に駈けて武勇を振るい戦ったが、足軽等は後に続かなかったため、一騎で稲葉地川を乗り越し、松原に乗り上げた。そこに貞清が駈け合い、互いに馬上で突き合った。不破三右衛門(あるいは半左衛門、後休庵と号す)、森弥五兵衛の二人が行き掛り、「左近よくつかまつる」と言葉をかけ見物した。ついには貞清が川尻を突き落とし首を得る。三人で連れだって引き取る時に、柴田勝家に出合わせ、「ただ今稲葉地川を渡り越す所、白黒赤三段の毛の指し物川上より流れ来り馬足に懸かる、これ今日の城方の大将の指し物とこれを知る故、取り上げ来る、即ち左馬の指し物也」と言って貞清に譲った。これを「珍しき高名」と信長は甚だ御感にして感状を賜る。
美濃国菅野大神山合戦において、斎藤家の武者頭春日丹後守勢に対して柴田勝家、下方貞清が一番に鎗を合わせた。丹後守の兵十四・五騎に二人は引き包まれ、数ケ所の傷を負った。ようやく切り抜け引き取る所、丹後守の人数のなかから朱の具足を着て、鹿毛の馬に乗った一騎が退かせまじと急いで追ってきた。二人は引き返し、たちまち突き落とし、貞清がその首を取ろうと駈け寄ったが、敵も走り付けて隙間なく折り立つため首を取ることができなかった。一町ほど退く時に、森可成が乗り来て、「今突き落としながら首を取らざるは如何」と言って引き返し、「首を取るべし」と戒めた。しかし二人とも深手を追っており、引き返すことができなかった。可成が立ち帰ったが、手負いの者を丹後守勢の十四・五騎が引き包んで、丹後守の備えに入った。後に聞くところによれば、この者は丹後守の兄、春日采女(或は出羽守と言う也)であったという。
近江国畑掛山における浅井勢との戦いの時、貞清は二百騎あまりに下知を加え踏み留まり、浅井勢を山彦という所まで追い返し、味方は首九級を取る。貞清は首一級を得る。北嶋伴助がしきりに所望するのでこれを譲った。この時に貞清は額に傷をこうむる。
永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで首一級を取る。
永禄12年(1569年)伊勢侵攻において、滝川一益が大河内城を攻める時、瞑蛇谷口において尾張勢七・八十騎が討ち死にし大いに崩れた。貞清は門脇において手際をふるって首級を得る。久須城を攻める時には、城戸口に半時余りも少しも去らずに詰めよった。その間に城兵が木戸を開いて三度突き出るが、貞清と生駒三左衛門が真っ先に進み、その度に城内に追い入った。また、八田山城を攻める時には、晦日曲輪において、貞清が先んじて南角櫓へ一番に乗り入り、その勇を顕わす。
元亀元年(1570年)、姉川の戦いにおいて、信長の眼前において一番に鎗を合わせる。信長から左文字の刀と感状を賜る。
天正元年(1573年)、越前侵攻の刀根坂の戦いにおいて、前夜子の刻に本陣から岡田助右衛門、高田左吉、梶原庄兵衛、福富平左衛門、下方貞清が忍び出て抜け駆け、さらに、前田又左衛門(利家)、佐々内蔵介(成政)、津田金左衛門、湯浅甚介、長井藤助、長井忠兵衛が追い駆けて来て、一つになり、田辺山の敵陣の火の手を見るやいなや、鎗を取り直し突き懸かった。前田、高木、貞清の三人が押し並んで真っ先に駆け入って、長井忠兵衛、福富平左衛門が一番に首を得た。福富は手傷を負い引き退いた。
信長が月毛の馬に乗り、「先陣の勇、よく手柄をなさしむ者は何者か」と大声で聞いたため、抜け駆けの面々が大声で名乗った。信長が「先手の中の先手なる者共哉、急ぎ攻め詰め一騎も残らず討ち取れ」と勇み掛かるので、馬に乗り込んだ。朝倉勢はその夜越前へ引き返すところだったので、不意打ちにあい、防ぐ事ができず、二万余騎が乱れ立ち敗軍した。この時貞清は朝倉義景の一族、魚住彦四郎を討ち取り首を得る。後年、伏見城において、徳川家康の御前に貞清が伺候した際、前田利家も、ともに談話し「これなる左近は先年刀根山に於いて一足を争う有り、これを克す」と話した。
天正4年(1576年)、安土城築城の普請奉行丹羽長秀の下、奉行二十人の代表に任ぜられる。完成後、御腰物を賜る。
慶長6年(1601年)、松平忠吉が尾張国を拝領し、入国する時に、忠吉がしきりに所望し、家康の命により貞清は清洲に付属することとなった。
慶長11年(1606年)、清洲城で死去。戒名は永弘院心源浄廣居士。尾州春日井郡上野邑(現在の名古屋市千種区上野町)臨済宗妙心寺派上野山永弘院に葬る。享年80歳。
態申入候仍 下野様其方へ御移被成候付き 而貴所御年も御寄被成候得共 内府様被入御念を下野様其方へ御下にて御座候条 切々 下野様へ御参被成候而 御物語の御相手にも成可被申之由 我等へ被仰付候間 其心得被成切々御祗候可被成候 内府様より下野様へも其由御掟被成候 其上小笠原和泉殿へも此方にて我等を御使として能々申入れ候間 此文被遣候はば御祗候可被成候 為其態申入候恐怪謹言 西尾隠岐守 正月十二日 下方左近殿 人々御中 |
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