Loading AI tools
日本の男性アナウンサー (1957-) ウィキペディアから
上柳 昌彦(うえやなぎ まさひこ、本名:同じ、1957年〈昭和32年〉8月1日[1] - )は、フリーアナウンサーでニッポン放送元アナウンサー。ミックスゾーン所属。愛称は「うえちゃん」。防災パーソナリティ(同局における地震情報のアナウンス担当)指定を受けた一人。ファッションデザイナーの石津謙介と歌手、タレントのファーストサマーウイカは遠戚にあたる[2][3]。
大阪府大東市出身。父親が転勤族であったため少年期は転居を繰り返し、群馬県高崎市(1歳)→兵庫県高砂市(幼稚園)→金沢市(小2)→高砂市(小2)→横浜市神奈川区(小4)→東京都→神奈川県小田原市(中1)→東京(中2)→鎌倉市と転々とした後、東京都に定住した。東京都立新宿高等学校、立教大学法学部卒業[1]。1981年4月、ニッポン放送にアナウンサーとして入社[4][5]。
若手時代は主に深夜枠の番組を担当。『オールナイトニッポン』(月曜2部)を経て、アマチュアバンドブームの中『HITACHI FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』などの音楽系番組のパーソナリティを歴任し「うえちゃん」の愛称で親しまれる様になる。1987年にスタートしたヤマハ主催の10代限定の音楽の祭典『ティーンズミュージックフェスティバル』の司会も担当していた。上柳自身、元々音楽には造詣が深く、若手時代から現在に至るまで親交を深めているミュージシャン・芸能人は数多い。また自らとスタッフで結成したバンドの歌声をラジオで披露することもあった[4]。
1986年の数か月間、ラジオ局のアナウンサーでありながら、同じフジサンケイグループであるフジテレビ系のテレビ番組『夕やけニャンニャン』(水曜日)でMCを務めた。同番組には同時期、文化放送からフリーに転身したばかりの吉田照美もMCとして出演(月曜日ほか)。フジテレビではこの他深夜番組『録影館』で、当時フジテレビの新人アナウンサーだった中井美穂とMCを務めている。ある回では、上柳と中井がCG合成の温泉で混浴する一幕もあった[4]。
深夜枠を外れた1990年代から日中の時間帯の番組を担当。1993年の自民党55年体制崩壊時には国会担当記者、選挙特別番組のキャスターなども務めるなど報道畑でも研鑽を重ねた。
1994年のオフシーズンナイター枠で『上柳昌彦の花の係長 ヨッ!お疲れさん』がスタート。帰宅途中の中堅サラリーマンを対象とする実験的な番組で、上柳が得意とするトークと音楽を主体にしながら、ニュースやスポーツなどの情報系コンテンツとを組み合わせたスタイルであった。当初は苦戦するも、明確にターゲットを打ち出して次第に支持を集め、翌年からもオフシーズン番組として続行となる。3年目の『うえちゃんのホッとラジオ ヨッ!お疲れさん』で遂に同時間帯聴取率トップの座を獲得する。これは同局のオフシーズンナイター枠番組としては画期的な出来事であった。
上柳は1997年オフ(1998年春)まで『ヨッ!お疲れさん』のパーソナリティを務め、翌1998年オフからはパーソナリティが松本秀夫に交代。その後タイトルは毎年変更しながらも、番組の基本的なスタイルは2009年オフの『ショウアップナイターバッテリー』に至るまで引き継がれ続けている。
1997年1月から2007年9月まで、マイクネームを平仮名の「うえやなぎ まさひこ」としていた。一時期ひらがな表記にしていたのは、「上柳」を「かみやなぎ」と誤読されるケースがしばしば発生するなどしたことから。1996年の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』で司会を務めた(当時)当時SMAPの中居正広から中継先の上柳に向かって「かみやなぎさ〜ん!」「うえすぎさ〜ん!」と呼びかけられたことが決定打となり、1997年1月の『うえちゃんのほっとラジオ ヨッ!お疲れさん』から、新聞のラジオ欄には原則[注 1]平仮名で表記されるようになった。なお、この27年後の2023年12月に放送の『ミュージックソン』において、上柳が乃木坂46の久保史緒里のパートナを務めるべく入った25日の5時台にて、中継に出ていた井上和・一ノ瀬美空からこのとき同様の「うえすぎさ〜ん!」と呼びかけられる件が起き、慣れっこなのか「まぁいいですけど、うえやなぎです!」と返答した。
1998年春、テリー伊藤がパーソナリティを務める午後の生ワイド番組『のってけテリー!渚の青春花吹雪』のテコ入れ策として白羽の矢が立ち、テリーとのコンビによる『テリーとうえちゃんのってけラジオ』が3月30日にスタートした。当時の昼間時間帯の番組としては珍しい、男性コンビによるワイド番組。「得意先回りの営業マンが、営業車で、缶コーヒー片手に聞くラジオ」をコンセプトに、苦戦しつつ人気投稿コーナーを企画するなど序々に固定リスナーを確保。
テリー発案の企画「ジャイアンツ優勝ちょうちん行列」時に時間帯聴取率トップの座を奪取するなどし、結局上柳は2002年9月27日まで4年半の間、パーソナリティを務め上げた。
『のってけラジオ』降板後、当時ニッポン放送は、かつて平日午前帯の生ワイド枠で人気を博した長寿番組『玉置宏の笑顔でこんにちは!』が終了して以降、主なリスナー層だった高齢者層の他局への流出が大きく響き、加藤茶や山田邦子といったタレント起用による新規リスナー層の開拓も不発に終わるなど聴取率改善策に長らく苦慮しており、そのテコ入れ策として上柳に同枠が託された。
こうして『山田邦子ワンダフルモーニング』の後を受け、2002年9月30日『うえやなぎまさひこのサプライズ!』がスタート。深夜放送時代に長らく経験してきた、男一人だけのワンマンパーソナリティ形式の番組は、朝ワイドとしては異色の存在だったが、固定リスナーを得るなど聴取率も安定した。特に、全国各地の心温まるエピソードを取り上げる「10時のちょっといい話」のコーナーから生まれた書籍『涙があふれて心が温かくなる話』シリーズは、第1弾『車いすのパティシエ』が約10万部のベストセラーとなったのに始まり[6]、その後も『母ちゃんダンプ』『80点コロッケ』がベストセラーとなるなど話題を呼んだ[7]。
一方で2005年以降、番組内容のマンネリ化が顕著となって聴取率は横ばいをたどり始めた。
そこで番組では2006年から、金曜日のみ番組構成を変更して「フライデースペシャル」としたり、アナウンサーの新保友映が担当する中継コーナーを設けたり、かつて『オールナイトニッポン』時代に演じたエロティックなキャラクター「うなぎまさこ」を登場させるなど思い切ったリニューアル策が採られた[8]。結局『サプライズ!』は2007年9月28日をもって終了した。
2007年10月1日『上柳昌彦のお早うGoodDay!』がスタートした。報道番組の経験こそあるものの、専らトーク主体の番組を中心に担当してきた上柳。それだけに番組開始当初は試行錯誤の連続だったが、自らのスタイルを徐々に構築していった。『サプライズ!』の人気コーナー「10時のちょっといい話」も「8時のGood Story」として引き継がれた。これを機に名前の表記を漢字に戻した。また2008年10月4日から2009年3月28日まで、ナイターオフ期間の番組『上柳昌彦 土曜日のうなぎ』を担当。“街歩き”を主体にした番組で、上柳が土曜日の夜の街をぶらりと歩きながら、街の人々や風景とふれあいを広げてゆく様子を生中継で伝える独特のスタイルが一部で話題を呼んだ。
この間、2004年5月、『うえやなぎまさひこのサプライズ!』の功績が認められ第41回ギャラクシー賞のDJパーソナリティ賞を受賞した[9]。
2010年6月25日、『お早うGoodDay!』終了。代わって6月28日から、平日午後のワイド枠『上柳昌彦 ごごばん!』のパーソナリティを務めた。のちに『ごごばん!』は金曜に縮小となり、その傍らで『ショウアップナイター』日曜日のスタジオ担当やナイターオフ期の『今夜もオトパラ!』(2014年、15年度)を担当。
2015年4月3日から、『ごごばん!』後継ぎ番組である『金曜ブラボー。』(2018年9月まで)、2016年3月28日から早朝番組である『上柳昌彦 あさぼらけ』を担当。
前述の防災パーソナリティも務めており、『サプライズ!』時代には毎年9月1日の「防災の日」と1月17日の「防災とボランティアの日」の年2回放送される『ラジオ災害情報交差点』のパーソナリティリレーにニッポン放送担当として出演し、首都圏の各ラジオ局はもとより、NHKラジオ第1放送でも声を聴く事ができた。現在も担当番組やスポット枠の『防災ひとくちメモ』で災害対策や心がけ、緊急地震速報を聴いた際の対応方法などをレクチャーしている。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は、折しも『ごごばん!』放送中の午後2時46分頃に発生した。上柳らはスタジオで最大震度5強の地震を感じつつも、リスナーに対し落ち着いた口調で地震に対する対応策などを呼びかけていた[10]。
1995年には渡辺美里の西武スタジアムライブ『She loves you 1995 Summer 10th Anniversary』(於・西武ライオンズ球場、現・西武ドーム)のナビゲーターを務めた。渡辺は上柳と親交が深いアーティストの一人であり、ニッポン放送がライブに協賛していた縁もあって実現した。この模様はWOWOWでも生放送された。また映画の出演経験もあり、サザンオールスターズ・桑田佳祐監督の映画『稲村ジェーン』の他、『サラリーマン専科』にも居酒屋のおやじ役として出演している。
2008年9月に、「国際パフォーマンス学会第26回大会」において、2008年度ベストパフォーマー賞を受賞した[11]。
私生活では二度結婚。最初の妻と新婚旅行先のエジプトから帰国すると年号が変わっていて、成田空港で二人で顔を見合わせて唖然としたと語ったことがある[12]。
現在の妻との間に2人の子供(2001年生まれの長女と2003年生まれの長男)がいる[13][14]。
読書、音楽、映画などといった定番の趣味以外に、落語や漫才、ラジオ聴取なども好む[15]。高田文夫や、後述する笑福亭鶴瓶との親交はこの趣味によるところが大きい[16]。
古地図収集や博物館・美術館めぐりなどの趣味も持っており、こうした趣味の話は一旦話し出したら止まらない。また『ヨッ!お疲れさん』のエンディングでは有楽町の街中へ飛び出し、付近を走行する東海道新幹線「こだま707号」(三島行)の姿を、『サプライズ!』の生放送中はスタジオから見える寝台特急「富士」(東京行)の姿を、それぞれほぼ必ずと言っていい程描写していた。上柳は鉄道ファンを自認しているが、こうして列車の姿を放送上で伝えるのは各路線が定時で動いているかどうかを目安に、ダイヤの乱れが生じていないか確認する意味合いも含まれている。
番組内容などに合わせて話し方を使い分ける技術に長けている。『オールナイトニッポン』や『FAN! FUN! TODAY』などでは複数のキャラクターを巧妙に演じ分けるなど、終始お茶らけたハイテンションな口調で語っていた。反面『サプライズ!』『お早う!GoodDay』では、優しく語り掛けるようにストーリーを朗読する一面も見せている。また、その他の番組でも時間帯やリスナー層、コーナー内容などに合わせて話し方を微妙に使い分けている。この卓越した話術を買われ、特別番組のパーソナリティやナビゲーター、キャスターなどを務めたり、レギュラー番組に於いても何らかの緊急事態があった場合には代役パーソナリティを務めたりする機会が多く、かつ期待に十二分に応え得る技量を有することから「エヴリタイム・エヴリバディOKのうえちゃん」とも呼ばれる[4]。
2017年8月31日を以てニッポン放送を定年退職。9月よりグループ会社に籍を置き、退職時点で担当していた番組へ出演を続けている[17]。
その一方で、定年前最後の健康診断で、初期の前立腺がんに罹患していることが判明。退職後の12月には、番組出演の合間を縫う格好でがん細胞の切除手術を受けた。
2022年10月4日、激しい頭痛が続くため病院で検査を受けたところ「下垂体腺腫」が判明したことを公表[18]。同月12日から同月下旬まで入院し、手術を受け休養。11月1日の『あさぼらけ』で突如乱入し[18]、翌日から正式に復帰した。
2024年1月18日に喉に不調を覚え、19日朝には酷く枯れた声になったため、レギュラー番組『あさぼらけ』に急遽助っ人として淵澤由樹アナウンサーが入り放送を担当した[19]。病院で診察の結果、喉を酷使することは厳禁であるとドクターストップがかかり休養を余儀なくされた。2月8日に番組に復帰した[20]。
高校時代、担任の教師から「お前、将来は何をやりたいんだ?」と問われて返答に窮していると、「何か、しゃべることを仕事にしろよ」と勧められた。「しゃべる仕事とは、どのような仕事ですか?」と聞き返すと、教師から「まあ、アナウンサーかな」と返事が返ってきた[4]。
大学入学後、落語が趣味だった為、まず落語研究会の部室を覗いたが留守だったため放送研究会へ行き、そちらにそのまま入部した。もし落研に入っていたら少なくともアナウンサーにはならなかっただろう、とは本人の弁[4]。
大学時代、放送研究会に所属しながら、日本テレビの情報番組『タウン5』でリポーターを務めた経験がある。この時、番組の司会者だった福留功男(当時、日本テレビアナウンサー)に、アナウンサーになりたい旨を伝え、福留も支援すると約束したものの、結局日本テレビのアナウンサー試験は、2次試験のカメラテストで不合格となった(その際に共に試験を受けていたのが同局に入社、『GoodDay!』でタッグを組んだ成城大学出身の小倉淳)。その後「のってけラジオ」に福留がゲストで登場した時に、当時の思い出を語った。
大学時代から「スネークマンショー」の大ファンで[21]、『FAN! FUN! TODAY』ではスネークマンと自分の苗字をもじって「ウナギマン」と名乗ってラジオコントを演じたりもしていた[4]。
大の東京ヤクルトスワローズファンとしても知られる。弱小期からの筋金入りのファンで、『オールナイトニッポン』では前週のヤクルトの戦績を振り返るのが恒例化していた。ニッポン放送解説者の田尾安志が東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に決定した際にも、本人を目の前にヤクルトファンである旨を公言していた。
上柳は鶴瓶の20数年来のファンである。若手時代から、知人に頼んで鶴瓶がパーソナリティを務める関西ローカルのラジオ番組を録音してもらったり、東京では放映していない鶴瓶司会のバラエティ番組『突然ガバチョ!』(毎日放送系)を録画してもらっていたほどだった。特に『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』(ラジオ大阪)はリアルタイムで聴いていた程のコアなファン(いわゆる“ぬかる民”)で、番組でマスコミ関係者のリスナーがいるかいないかを募ったところ、上柳は自ら律儀に番組宛のはがきを投函、電話出演したのをきっかけに鶴瓶と意気投合、それ以来親交を深めている[22]。
鶴瓶は上柳について「現在のラジオアナウンサーで最高の人材の一人。まだフリーになっていないことが奇跡」と話術を評価している。『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』『スジナシ』(CBCテレビ)の際はナレーターとして特に上柳を指名した。
2004年、『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』で石原さとみと共に司会を務めていた鶴瓶が、「お前、出来るよな?」といって上柳に振り、台本を無視して募金に出かけたきりスタジオに帰って来ず、入れ替わり立ち替わりのアシスタントのうちの8時間を担当する予定だった上柳がフォロー、急遽全時間司会を代行した。この時、12月24日の『サプライズ!』から、24時間の『ミュージックソン』、25日正午からの『ありがとうミュージックソン』、そして数時間休んだ後に25日夕方の『涙の電話リクエスト』まで約32時間、ほぼ休みなしで放送に出ずっぱりとなった。さらに翌日にイベントの司会もあり、相当参ったと語った[23]。この影響でその後3年間、体調不良に悩まされたと『サプライズ!』内で上柳が冗談交じりに語り、それに対して鶴瓶は『日曜日のそれ』で上柳のアナウンサーとしての技量を褒め、『ミュージックソン』については申し訳なかったと語った。
『サプライズ!』内のコーナー対談で、上柳の発案で鶴瓶と2人で立ち漫才形式で収録した。鶴瓶は「心底驚いた。面白いこと考えつくヤツやなー」と上柳を評価している。これが後にMBSラジオの『ヤンタン・立つラジオ』として生かされることとなった。2007年5月29日の『サプライズ!』にて鶴瓶がゲストとして生出演した際にこれを再現している。
また上柳は、鶴瓶が主宰する落語会にも演者として起用された経験があり、2007年11月の落語会『鶴瓶のらくだ』(京都南座)では前半のトークとメインの劇中劇に出演した。上柳は「最初、鶴瓶さんから“手伝ってくれ”ってオファーがあった時には僕の番組で紹介したり、ナレーションをしたりするのかと思ったら“舞台に立ってくれ”と言われてびっくりした。舞台に日に2回出ながら大阪から(『お早うGoodDay!』を)放送するという凄い状況になっちゃったんです」と証言している。上柳は当時『お早うGoodDay!』が開始した直後で、不慣れな報道番組の進行に試行錯誤の日々を送っていたが、この『鶴瓶のらくだ』で何かと苦心したのがきっかけで「全部ばっちり準備して物事に臨むのは所詮無理だと悟ったら、その時に初めてフッと肩の力が抜けて、番組でもコメンテーターの方に素直に質問できるようになった。それから放送がちょっと変わったんじゃないかと思います」と振り返っている。
『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』では、「体調が悪い鶴瓶の負担を減らすため」「たまたま通りがかったから」「収録時にちょうど当直勤務だったから」などの理由で度々ゲストとして呼ばれ、2015年からアシスタント的立場として毎週出演。
1983年12月29日の『谷山浩子のオールナイトニッポン』に登場。その日は、六本木から忘年会をオンエアしており、お酒を飲んで気分の良くなった上柳は、生放送中にもかかわらず「浩子さんには、おまんこ、無いんです」と発言。その番組内で上柳は、当時同番組ではがき整理のアルバイトをしていた(後に、上柳の妻となった)山崎えりこ(通称「うさぎちゃん」)と結婚式ごっこをさせられた[24]。
1983年4月から1986年3月まで『オールナイトニッポン』月曜2部を担当。この頃のエピソードは数多い。
1986年12月9日のフライデー襲撃事件の影響で、同週12月11日深夜『ビートたけしのオールナイトニッポン』が中止になった際にも臨時でパーソナリティを務め、事件についてリスナーから電話やFAXで意見を募り、報道の自由や暴力について考える内容になった。
THE ALFEEも、上柳と公私にわたって親交が深いアーティストの一組。 1987年8月、静岡県清水市(現静岡市清水区)日本平の日本平ホテル野外庭園"MUSIC LAND"で開催されたオールナイトコンサート「SUNSET-SUNRISE」では『オールナイトニッポン』の1部・2部を通した特別番組が生中継で放送された。上柳はホテルの一室からライブの模様を、事前に収録したインタビューを交えてナビゲート。ライブの休憩時間にはメンバーも生出演、上柳と4人で放送を行った。その後も、2017年8月の定年退職を機にフリーアナウンサーへ転身するまで、THE ALFEEはニッポン放送の番組で上柳と共演するたびに「うえちゃん、まだフリーにならないの? 前からずっと『フリーになりたい、フリーになりたい』って言ってたのに・・・」などと上柳を弄り続けていた。
1989年1月9日深夜、昭和天皇の崩御後最初の『オールナイトニッポン』を、月曜2部の辻仁成と共に担当。
21世紀の現在も『オールナイトニッポン』ではネタにされやすく、2011年12月13日の『miwaのオールナイトニッポン』では父親が息子を思う悲哀を読むネタコーナー、「息子シリーズ」の読みを特別に担当(事前収録)し、miwaをうならせた。また、スペシャル・ウィークなのにmiwaが好きなアシュトン・カッチャーをブッキングできなかった責任から、担当の宗岡芳樹ディレクターが担当を降りる文を読み上げたが実際は異動であった。
『オールナイトニッポン』シリーズが放送開始50周年を迎えた2017年、BSフジで11月12日に放送された『熱響の時 オールナイトニッポン50年の系譜』(ニッポン放送・フジテレビとの共同制作番組)で、過去のパーソナリティ担当者を代表して進行役を務めた[27]。
2016年より担当を始めている『あさぼらけ』は前枠が『オールナイトニッポン0 (ZERO)』[注 2]であり、番組準備をしながら聴いていることもあって『あさぼらけ』の冒頭で番組の内容や出演者の動向について触れることも多い。入局する時間帯が『オールナイトニッポン(1部)』の時間帯で、かつ同一のスタジオを使用することから入れ替わりに時間に話したことを披露することもある。後述する新内眞衣を「しんうっちゃん」、WANIMAを「WANIMAのあんちゃんたち」と独特の言い回しで表現したり、星野源やナインティナイン、Creepy Nuts、佐久間宣行などとの交流を披露するうちに前後のやり取りのみならず、番組内でネタにされたり、リスナーの乗り入れ聴取などがはじまることとなる。また『伊藤健太郎のオールナイトニッポン0(ZERO)』のパーソナリティ伊藤健太郎やその番組のリスナーからは敬意をこめて「上様(うえさま)」と呼ばれ、『フワちゃんのオールナイトニッポン0 (ZERO)』のフワちゃんからは「(あさ)ぼらけニキ[注 3]」と呼ばれるほか、番宣も一部担当している。
月曜2部の枠であったこともあり、月曜1部の『中島みゆきのオールナイトニッポン』にまつわるエピソードも数多い。
2016年春改編で水曜深夜(木曜未明)に『乃木坂46 新内眞衣のオールナイトニッポン0(ZERO)』がスタートし、同時期にスタートした『あさぼらけ』が後枠に編成されたことをきっかけとして、当時乃木坂46に所属し、ニッポン放送の関連会社であるミックスゾーンに勤務していた新内眞衣との交流が始まる。2017年9月に上柳がニッポン放送を定年退職しそのままミックスゾーンに移籍したが、既に新内が社員として勤務しており、上柳から見て新内は「年下の先輩」という間柄になってしまった。
新内眞衣ANN0では「マイタウン天気予報」というコーナーがあり、本来『あさぼらけ』で実施する天気予報を前もって放送した後、エンディングでは「上柳先輩、お先に失礼します。」と上柳を弄るコメントで番組を締めていた。なお上柳弄りに関して、新内眞衣ANN0を担当した放送作家の石川昭人は、新内のキャラクターを際立たせるために、石川が放送作家デビューの頃から敬愛・信頼している上柳を利用した演出を行ったと語っている。
その後、新内がミックスゾーンを退社しアイドル活動に専念したり、新内眞衣ANN0の一部昇格などもありつつ親交は続いたが、2021年11月17日深夜の『乃木坂46ANN』で新内が乃木坂46を卒業することを発表。その際、新内が感極まって番組が進行できなくなることを危惧したスタッフは、助っ人として上柳を待機させ、「呼び鈴」を鳴らすと上柳がスタジオ内に入って来る仕掛けを用意。ところが感極まった新内が早々に呼び鈴を鳴らし[注 5]、自身の言葉で卒業を発表した後に上柳が新内に今の心境を尋ねる形式がとられた[32][33]。
2022年1月19日には新内が自身の2nd写真集の発売を記念し、ニッポン放送の各ワイド番組に生出演した際にも『ラジオビバリー昼ズ』[注 6]・『あさぼらけ』で上柳と共演。年齢が逆転した先輩後輩同士のトークを披露し、同時に新内から「新内眞衣公認・親戚のおじさん」の称号を得た[34]。
そして新内のグループ活動最終日にあたる2022年2月10日、東京国際フォーラム・ホールAで行われた『乃木坂46 新内眞衣卒業セレモニー』にゲスト出演。『乃木坂46ANN』での人気コーナー「妄想結婚式」の司会進行役を務め、新内の卒業に華を添えた[35]。
2011年3月11日東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生時に番組を担当しており、有楽町のスタジオで震度5強が観測される中、リスナーへ警戒を呼び掛けた。
『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』でリポーターを務めていた頃、仮眠を取るために泊まったホテルでディレクターとラジオカーのドライバーの3人で酒盛りをした後、床に就いた。ところが、酔いが回ったせいもあって揃って寝坊してしまい、2日目の朝、リポート担当の時間に間に合わなくなってしまった。結局2時間遅れで現場に到着したものの、周囲には「いやぁ〜判らなくって、ここ」と道に迷ったふりをしてやり過ごしたという。1997年『ごきげんよう・ゴールデンウィークトリオフェア』において懺悔告白した。後述のバツイチもこの番組で告白した。またこの件は2019年の『ミュージックソン』でも語られ、「今でも申し訳ないと思っている」と語った。
1982年10月に『くるくるダイヤル ザ・ゴリラ』の金曜日パーソナリティになったが、それから2か月もしないうちに番組が終了することを知らされる。ある日の『ザ・ゴリラ』の生放送中、ニッポン放送では録音番組の『日立ミュージック・イン』(22:00 - 22:30)が流れている最中にてるてるワイド生放送中の吉田照美から突然電話が入り「番組終わっちゃうんだって?」の問いかけに正直に「はい、そうなんです」と答えたが、この声がてるてるワイドの生放送に流れるという仕掛けに引っ掛かってしまった。その後ディレクターに「まだ公表してないのに何を正直に答えてるんだ!」と怒られたという[36]。
『玉置宏の笑顔でこんにちは』で中継リポーターを担当していた若手時代、ラジオカーで寝過ごしてしまいリポートコーナーに穴を開けたことがある。
1986年『HITACHI FAN! FUN! TODAY』にRUN D.M.C.がゲスト出演した際、彼らは収録予定時刻を大幅にオーバーしてニッポン放送入り。収録では上柳と共にパーソナリティを務めていた久保田利伸、羽田一郎の3人はメンバーとラップセッションを行うことになっていたが、大遅刻でさんざん待たされた上、話す英語はブロークン・イングリッシュであるため通訳もままならないほどだった。業を煮やして立腹した3人は悪乗りして、怒気を込めつつ彼らへの愚痴やボヤキをラップに乗せたところ(無論日本語で)、日本語を理解できないメンバーからは「君たちはなかなかノリがいい」と、逆にいたく気に入られた。久保田の初ライブで、上柳はスタッフと組んだバンドで前座を務めたが、曲を演奏する際「1・2・3・4・5」と、間違って「5」までカウントした。
『ぽっぷん王国』では各曜日にコーナーが設けられており、水曜日は一般楽曲をシャウトしながら熱唱する、お遊びコーナー「ヘヴィメタ歌謡選手権」が人気であり、リスナーのフリをしてエントリーしたデーモン小暮がザ・ドリフターズの「いい湯だな」を熱唱したこともあった(歌う前には正体を明かした)。当時、水曜日深夜は『大槻ケンヂのオールナイトニッポン』(1部)、『伊集院光のオールナイトニッポン』(2部)が編成されていたこともあり、深夜とは思えないほどの盛り上がる番組のラインナップが話題となり“バカばっかりの水曜日隊”と好意的に評されたこともある[37]。
2006年10月3日から2007年3月27日の間、『サプライズ!』火曜日で「うなぎまさこ先生の乙女の診療所」が約20年ぶりに復活した。うなぎは主婦リスナーの下ネタ絡みの相談に乗り、卑猥な文言が出ると「ワァ〜オ♪」などと嬌声を上げていた。2007年2月19日に、官能的な作風で知られる作家の渡辺淳一と“夢の共演”を果たしたが、終始「ワァ〜オ♪」と嬌声を上げまくるうなぎに、渡辺はただただ苦笑するばかりであった。このうなぎまさこは、あくまでも上柳本人とは別人の設定になっていた。
2007年9月28日『サプライズ!』最終回で10月からの自身の番組名を発表した際、『お早うGoodDay!』ではなく、何故か『早起きGoodDay!』(『お早う』の前に小倉淳が担当した番組)と言い間違えてしまった。さらに、言い直しの際には『上柳昌彦のばっちりモーニングワイド・ゴーゴーゴー』とわざとボケて、パートナーだった榊原郁恵の笑いを誘った。
上柳が『お早うGoodDay!』を任されたのは50歳になった直後のことだった。上柳は社からの“朝のニュース・情報番組のパーソナリティ”のオファーに対して当初「何を考えているんですか」と拒絶しようとしたものの、結局受諾。その時の心境について「五十路の扉を開けた途端に運命が凄い大きな音を立てて変わっていっている感じがした」と話している。また番組草創期は試行錯誤が続き「僕は要領が悪いし学力も無い。でも、どうしても頭が良さそうに見せたいところがあるし、過去の著名なキャスターの方が乗り移ったような感覚もあった。だから最初は著名なコメンテーターの方と話す時にも、バカがばれないように無理して“ニュースキャスターでござい”っていうツラをしちゃっていた」と、その苦悩ぶりを振り返っている。だが開始1か月後、鶴瓶の落語会(前述)に出演したのをきっかけに発想を転換し「知らないことは(素直に)知らないと言っても決して恥じゃないし、任せるところは任せて懐に飛び込んでいくのもひとつの方法」と捉えたことで、これを境に力まず番組に臨めるようになったと話している。
『お早うGoodDay!』放送中、部下で老け顔キャラが定着している飯田浩司を引き合いに出し「飯田アナが生まれた年に、僕はニッポン放送に入社したんです」と言うべきところを、間違って「飯田アナが入社した年に、僕はニッポン放送に入社したんです」と言ってしまった。もちろん即座に訂正したものの、その直後の『垣花正 あなたとハッピー!』ではパーソナリティの垣花正がそれをネタにして「そうじゃないかと思っていた」などと飯田をいじり、また当時中継コーナー担当の飯田本人も「同期ってことはないでしょう」と困惑していた。その飯田とは2018年4月から『あさぼらけ』と『飯田浩司のOK! Cozy up!』で隣り合わせとなっている。
テレビ番組でニッポン放送からの中継がある際に映り込んでいることがある。フジテレビで『ラジオチャリティ・ミュージックソン』の告知を行う時にメインパーソナリティの横に映っているのが顕著であるが、他系列局では1986年9月15日放送の日本テレビ『歌のトップテン』での例がある。この日出演予定の斉藤由貴はニッポン放送で『斉藤由貴 ネコの手も借りたい』の収録を行っていたため中継での出演となったが、当時同番組のディレクターとナレーションを務めていた上柳の姿が、副調整室の硝子越しに映り込んだ。この模様は2010年7月5日、CS放送の日テレプラスにおいてもそのまま再放送された。
1988年12月21日に『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した。紹介者の小室哲哉(TM NETWORKとして出演)の最初の結婚式の際、司会を上柳が務めたつながり。タモリとは後に『タモリの週刊ダイナマイク』で共演することになる。
1989年3月31日深夜(正確な日付上は4月1日)には、当時上柳が担当していた『FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』の裏番組であるTBSラジオ『SURF&SNOW』にゲスト出演を果たしている。これはこの日がエイプリルフールに当たることに加え、『SURF&SNOW』が月 - 金の帯番組なのに対し『FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』は月 - 木の帯番組(ニッポン放送のみ[注 7])であったため、金曜日のこの日は上柳のスケジュールが空いていた偶然も重なって実現した出来事。また、このことが『伊集院光 日曜日の秘密基地』(TBSラジオ)内のコーナー「秘密キッチの穴」で取り上げられ、17年後の2006年5月14日に放送されたその解決編では上柳がゲストとして再びTBSラジオに生出演した。このような民放共同キャンペーン以外でのアナウンサーの他局出演は最近ではかなり珍しい。この時、上柳は大沢悠里(当時上柳が担当していた『サプライズ』の裏番組が『大沢悠里のゆうゆうワイド』だった)が毎日座っている椅子を教えられると椅子を押し倒した。
2006年7月24日の文化放送社屋移転の際に放送された特別番組の際、同局アナウンサーの野村邦丸とリスナーによる「引越ご挨拶中継」に、ニッポン放送玄関前から出演。上柳は野村とリスナーを歓迎、野村からは文化放送旧社屋のあった四谷名物の鯛焼きがプレゼントされた。
上柳が『お早うGoodDay!』を担当し始めた2007年から2009年、毎年12月から1月にかけての年末年始には、ニッポン放送と文化放送が共同で実施している「ストップ! 飲酒運転キャンペーン」で、吉田照美と共にイメージキャラクターを務めている(現在、文化放送側は福井謙二にバトンタッチしている)。キャンペーン初日には『お早うGoodDay!』と『吉田照美 ソコダイジナトコ』の相互乗入れ放送を実施。また期間中、両局のスポット枠では2人が「安全運転で今日もGoodDay!」「ソコダイジナトコ!」などと語る啓発メッセージも放送されていた。同キャンペーンのキャラクターは2010年から、ニッポン放送側は垣花正、文化放送側は野村邦丸に交代している。
2008年3月21日、NHKラジオ第1放送で放送された『いまこそ!ラジオルネサンス』の14時台「ラジオのちから・かのうせい」では、NHKと在京中波民放3局の朝番組のアンカーマン・パーソナリティが共演した。NHKからは『ラジオビタミン』の村上信夫、TBSラジオからは『おはよう一直線』の生島ヒロシ、文化放送からは『くにまるワイド ごぜんさま〜』の野村邦丸、そしてニッポン放送からは『お早うGoodDay!』の上柳が参加。4人は東京駅構内の特設スタジオで、ラジオの長所や特性、今後の可能性などについてトークバトルを繰り広げた。この中で上柳はラジオで話し続ける理由について「僕は基本的に、モテたいから喋っているんじゃないかと思っている。ルックスには自信がないし、勉強もスポーツもそう得意ではないし、他に何か取り得があるわけではない。だから喋り続けるしかないんです」と語った。
2012年10月7日、MBSラジオが関西ローカルで放送した『おとなの駄菓子屋』で、在阪局制作の番組へ初めて出演。「店主」(パーソナリティ)の角淳一(毎日放送出身のフリーアナウンサー)がプライベートで所有している音楽スタジオを宇崎竜童がアルバムのレコーディングで使用していたことが縁で、『ごごばん!』向けの宇崎へのインタビュー企画とともに収録した。角と上柳は同じ大阪府の出身で、この収録で初めて対面した。
2014年3月30日、MBSラジオ『おとなの駄菓子屋』に再び出演。4日前に角が自著の宣伝も兼ねて『ごごばん!』にゲスト出演しており、放送終了後のスタジオを借用して収録された。
ニッポン放送を定年退職し、フリーとなった後も事実上ニッポン放送専属状態ではあるが『(大人の)社会科見学』の名目でニッポン放送以外の様々な放送局に出演したり、司会を務めている。
など
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.