万里小路宣房
鎌倉時代中期~南北朝時代の公卿。従一位・大納言、贈左大臣。後醍醐天皇の側近。雑訴決断所頭人(建武政権)。『万一記』。万里小路家2代。出家。母は宗清(八幡別当法印、八幡検校 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ、正嘉2年〈1258年〉 - 貞和4年/正平3年〈1348年〉?)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年〈1324年〉)において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。