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マリー・フォルテュネ・デスト=モデーヌ(Marie Fortunée d'Este-Modène, 1731年11月24日 - 1803年9月21日)は、モデナ公女でコンティ公ルイ・フランソワ2世の妻。イタリア語名マリーア・フォルトゥナータ・デステ(Maria Fortunata d'Este)。
モデナ公フランチェスコ3世と妃カルロッタの四女として生まれた。敬虔で誠実な人柄に育ったが、容姿が美しいとは言えなかった。
1759年にミラノで、当時ラ・マルシュ伯だった母方の従弟ルイ・フランソワと政略結婚した。モデナ公は娘のために100万リーヴルもの持参金をつけた。同年5月、マリーは国王夫妻に謁見した。
マリーとルイ・フランソワが仲違いするのに時間はかからなかった。それというのも、ラ・マルシュ伯が愛人マリー・アンヌ・ヴェロネーゼ(マドモワゼル・コラリーヌの芸名でイタリア座の舞台に立っていた)との間に1761年に庶子をもうけたことを、妻に開き直って強引に存在を認めさせたからである。彼は1767年に、マリー・アンヌとの間の第2子をもうけた。このことが子供を産めないマリーとの夫婦生活に致命的な出来事となった。2人は1775年の終わりに合意の上別居し、1777年6月に正式に離婚した。
1802年、マリーはハプスブルク家のオーストリア=エステ大公フェルディナント(マリーの姪にあたるマリーア・ベアトリーチェを妻としていた)に、ヴェネツィアの訪問会派修道院に入るつもりであることを告げた。彼女は同年10月19日に、同時に入門した3人の元売春婦らとともに修道院に落ち着いて暮らし始めた。1803年の8月から1ヶ月あまり肋膜炎にさいなまれた後、9月21日に亡くなり、修道院の礼拝堂内に埋葬された。
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