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イギリスの映画監督 (1905-1990) ウィキペディアから
マイケル・ラザム・パウエル(Michael Latham Powell, 1905年9月30日 - 1990年2月19日)は、イギリスの映画監督である。エメリック・プレスバーガーとのコンビで知られる。
Michael Powell マイケル・パウエル | |||||||||||||||||||||
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本名 | Michael Latham Powell | ||||||||||||||||||||
生年月日 | 1905年9月30日 | ||||||||||||||||||||
没年月日 | 1990年2月19日(84歳没) | ||||||||||||||||||||
出生地 | イングランド、ケント | ||||||||||||||||||||
死没地 | イングランド、グロスタシャー | ||||||||||||||||||||
国籍 | イギリス | ||||||||||||||||||||
職業 | 映画監督 | ||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||
『うずまき』(1945年) 『天国への階段』(1946年) 『黒水仙』(1947年) 『赤い靴』(1948年) 『血を吸うカメラ』(1960年) | |||||||||||||||||||||
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ケントのBekesbourneの生まれ。父親はホップ農場経営者のトマス・ウィリアム・パウエル。母親はウスターのフレデリック・コーベットの娘メーベル。キングズ・スクールとダリッジ・カレッジで学んだ後、1922年、National Provincial Bankに就職。しかし自分は銀行家に向いていないと悟り、1925年、映画業界に入る。フランスのニースにあるVictorine Studiosで、映画監督レックス・イングラムの下につく。パウエルの父はニースのホテルのオーナーで、イングラムとはコネがあった。最初は雑用係として、床を掃いたり、コーヒーを淹れたりした。しかし、すぐにスチルカメラマン、サイレント映画の字幕書きになった。さらに2-3の作品で俳優(主に滑稽な役)までこなした。俳優としてのデビューは『我等の海』(1926年)のおどけたイギリス人旅行者役で、他には『受難者』(1928年)がある。
1928年、パウエルはイングランドに戻り、さまざまな映画監督と仕事をする。アルフレッド・ヒッチコック監督とは『シャンパーニュ』(1928年)でスチール写真を担当した。ヒッチコックの初のトーキー映画『恐喝(ゆすり)』(1929年)にも同じ仕事で契約をしたが、パウエルは自伝の中で、ヒッチコックにとって最初の記念碑的クライマックスとなるラストの大英博物館のシーンは自分が提案したと述べている[1]。パウエルとヒッチコックの親交はその後も続いた[2]。
脚本を2本書いた後、1931年から、アメリカの映画プロデューサー、ジェリー・ジャクソンとコンビを組み、イギリス映画振興のための法律Cinematograph Films Act 1927(イギリスの映画参照)のノルマを満たすためのやっつけ作品(quota quickies)を作りだした。低予算スリラー映画『Two Crowded Hours』(1931年)で初めて監督としてクレジットされ、そこそこの興行成績をあげた。この年から1936年まで計23本の映画を監督した。多い時には年に7本も撮り、おおいに腕を磨いた[3]。その中でも、『Red Ensign』(1934年)、『The Phantom Light 』(1935年)は批評家にも好評だった。[3]
『The Edge of the World』(1937年)のおかげで。1939年にはアレクサンダー・コルダの下でコンスタントに映画を撮っていた。その中には、『Burmese Silver』など立ち消えになった作品も含まれる[1]。
パウエルはコルダ映画の看板役者コンラート・ファイトとヴァレリー・ホブソンの主演映画『スパイ』を撮ることになった。しかし脚本は原作には忠実だが、あまりに冗長で、しかもファイトとホブソンの見せ場がなかった。会議の時、コルダはある小柄な男をパウエルに引き合わせた。それがエメリック・プレスバーガーだった。
パウエルはこの時のことを自伝の中でこう書いている。
エメリックはとても小さな巻紙のメモを広げて、会議で演説した。私はそれに聞き惚れた。トーキー席巻後、数人の素晴らしい脚本家と仕事をしてきたが、それでも彼以上の者はいなかった。サイレント映画の時代、(アメリカの)一流脚本家たちは劇作家というよりは職人だった(が)……(中略)……ヨーロッパ映画にはまだ高い学識があり、どの国も自国の文化・文学を意識して他国に勝ろうとしていた。それがトーキーですべて変わった。豊富な資金と熱狂と技術力でアメリカが指導権を握った。……(中略)……ヨーロッパ映画はもはや存在しない……(中略)……盛況だったドイツ映画もゲッベルス博士が1933年に終止符を打った。しかし、あの賢明な博士にとって、エメリックがナチ突撃隊員の突破の手間を省くため、ドアに鍵を挿したまま、自分のアパートを歩いて出た日は最悪の日だったことだろう。すぐにエメリッヒがどこにいるかわかるはずだから。話を戻そう。メモが6インチ広げられた時には、もう私はこの小柄なハンガリーの魔術師にすっかり魅了されていた。彼はストーラー・クラウストン(Storer Clouston)の(原作の)筋を完璧に映画に再構成していた。 — マイケル・パウエル、A Life in Movies: An Autobiography.[1]
二人は経歴も性格もまるで反対だったが、映画作りに対しては共通の姿勢を持ち、共同でいい仕事ができるであろうことをすぐに理解し合った。以後、『Contraband』(1940年)、『潜水艦轟沈す』(1941年)までは「監督 マイケル・パウエル、脚本 エメリック・プレスバーガー」として共作するが、『わが一機未帰還』(1942年)以降は「脚本・製作・監督 マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー」というコンビ名でクレジットにすることにした[1]。
二人は共同で「アーチャーズ・プロ」を設立し、『老兵は死なず』、『天国への階段』、『黒水仙』、『赤い靴』、『ホフマン物語』、『戦艦シュペー号の最後』など、19本の長編映画を製作し、その多くが批評的・商業的成功を得た。それは今なお、20世紀イギリス映画の古典と見なされている[4]。
ヒッチコックやデヴィッド・リーンと匹敵するイギリスを代表する監督だと推す声もあったが、1960年に撮った単独監督作品、サイコなスリラー映画『血を吸うカメラ』(1960年)の性的・暴力的な描写が映画評論家に酷評され、その名声は一気に失墜した。やがてパウエルは映画業界から追放された。再評価が起こったのは死後のことである。マーティン・スコセッシやフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・A・ロメロ、ベルトラン・タヴェルニエといった映画監督たちがパウエル&プレスバーガー作品から大きな影響を受けたことを認めている[5]。
パウエルは1927年にアメリカ人ダンサー、グロリア・メアリー・ロジャーとフランスで結婚したが3週間足らずで離婚。1943年7月、内科医ジェローム・リーディの娘"フランキー"・メイ・リーディと再婚。ケヴン・マイケル・パウエル(1945年生)とコロンビア・ジェローム・リーディ・パウエル(1951年生)という2人の息子をもうける。1983年7月、妻と死別。1984年5月19日、アカデミー賞を3度受賞した映画編集者セルマ・スクーンメイカーと3度目の結婚。グロスタシャーのAveningの中心地でパウエルが亡くなるまで一緒だった。他に女優のパメラ・ブラウン(Pamela Brown)と数年間、1975年にパメラが亡くなるまで、同棲していたこともある。
(行方不明のものは斜体で示す)
ここまでのパウエルの初期作品は、ノルマを果たすためのやっつけ作品ではあったが、それでも他の同様の映画よりは水準が高い。いくつかは現在行方不明で、おそらく廃棄されたものと考えられている。しかし現存するもののいくつかには洗練された技術が見られ、後の映画の中で再利用された初期ヴァージョンと言うこともできる。
テレビシリーズ『弁護士プレストン(The Defenders)』、『Espionage』、『看護婦物語(The Nurses)』
(特記ないものは共同クレジット)
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