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アルゼンチンのサッカー選手 ウィキペディアから
ペドロ・アントニオ・トログリオ(Pedro Antonio Troglio, 1965年7月28日 - )はアルゼンチン・ブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
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名前 | ||||||
本名 |
ペドロ・アントニオ・トログリオ Pedro Antonio Troglio | |||||
愛称 | チャンチャ(スペイン語で子豚)[1] | |||||
ラテン文字 | Pedro TROGLIO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1965年7月28日(59歳) | |||||
出身地 | ルハン | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1983-1988 | リーベル・プレート | 59 | (3) | |||
1988-1989 | ヴェローナ | 32 | (1) | |||
1989-1991 | ラツィオ | 40 | (1) | |||
1991-1994 | アスコリ | 106 | (13) | |||
1994-1996 | アビスパ福岡[注 1] | 56 | (20) | |||
1997-2002 | ヒムナシア | 124 | (4) | |||
2002-2003 | ビジャ・ダルミネ | 31 | (4) | |||
通算 | 448 | (46) | ||||
代表歴 | ||||||
1987-1990 | アルゼンチン | 21 | (2) | |||
監督歴 | ||||||
2004-2005 | ゴドイ・クルス | |||||
2005-2007 | ヒムナシア・ラ・プラタ | |||||
2007-2008 | インデペンディエンテ | |||||
2008-2010 | セロ・ポルテーニョ | |||||
2010-2011 | アルヘンティノス | |||||
2011-2016 | ヒムナシア・ラ・プラタ | |||||
2016 | ティグレ | |||||
2017-2018 | ウニベルシタリオ | |||||
2018-2019 | ヒムナシア・ラ・プラタ | |||||
2019- | CDオリンピア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
CAリーベル・プレートでキャリアを始める。リーベルでは、リーグ優勝や、リベルタドーレスカップの優勝を経験。1986年のトヨタカップでも優勝した。 代表ではコパ・アメリカ1989に出場した他、1990 FIFAワールドカップにアルゼンチン代表の一員として出場し、6試合に出場、ソビエト連邦戦ではゴールを挙げた[2]。 イタリアではラツィオ、アスコリ、ヴェローナで4シーズンをセリエA、2シーズンをセリエBでプレーした。ベローナでは代表のチームメートであったクラウディオ・カニーヒアと共にプレーした。
その後1994年アビスパ福岡の前身、当時JFLの藤枝ブルックスに加入、1978 FIFAワールドカップでアルゼンチン代表であったホルヘ・マリオ・オルギン監督の下、1995年のJFL優勝に貢献、このシーズンの°ベストイレブンにも選出された。同年のJFLオールスターサッカーのメンバーに選出され、ウーゴ・マラドーナとのコンビで再三好プレーを見せると、バウタザールの得点をアシストした[3]。
1996年にはJリーグに昇格し、3月23日の名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初ゴールを決めるなど[4]、10ゴールを挙げた[5][4]。
選手生活の晩年は母国で過ごし、クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタで約5年間プレー、最後は4部所属のクラブ・ビジャ・ダルミネで現役を引退した。
プリメーラB・ナシオナルのCDゴドイ・クルスで初めて監督を務めるがシーズン途中に退任。2005年3月、不振に喘ぐヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタの指揮官の座に就きクラブをプリメーラ・ディビシオンに残留させることに成功した[6]。翌シーズンのアペルトゥーラではクラブを過去最高タイの2位に導いた。同年6月、ヒムナシアで自身が着けていた背番号である21番がクラブ初の永久欠番に指定された。以降クラブはエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタとのダービーマッチでは0-7の大敗を喫するなど再び下降線を辿り、2007年7月に辞任した。しかしファンからの支持は根強く、成績低迷に関する批判はフアン・ホセ・ムニョス会長に向けられた。
同年、ホルヘ・ブルチャガが退任したCAインデペンディエンテの監督に就任したが、翌年3月には成績不振により解任された。セロ・ポルテーニョの監督として2009年のアペルトゥーラを制すると、翌年5月30日にはクラウディオ・ボルギに代わってAAアルヘンティノス・ジュニアーズを率いることになった[7]。2011-12アペルトゥーラでは開幕以来低迷し、2011年9月18日に辞任することを発表した[8]。
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