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プッリャとカラブリアの伯爵と公爵一覧では、11世紀から12世紀にかけての南イタリアを統治した、プッリャ伯爵(イタリア語: Conte di Puglia)あるいはプッリャ・カラブリア公爵(イタリア語: Duca di Puglia e Calabria)およびプッリャ公爵(イタリア語: Duca di Puglia)、カラブリア公爵(イタリア語: Duca di Calabria)の称号を持つ人物の一覧を掲げる。
1042年、サレルノ公グアイマーリオ4世は、ノルマン人たちによって「プッリャ・カラブリア公爵」に推戴された。グアイマーリオはその見返りとして、アルタヴィッラ家の家長であった鉄腕グリエルモをメルフィの伯爵に任命した(後のプッリャ伯領)。
1047年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世はグアイマーリオ4世から公爵位を剥奪した。ハインリヒ3世はグリエルモの弟であるドロゴーネにイタリア公及びアプーリアとカラブリアのノルマン人伯(ラテン語: Dux et Magister Italiae Comesque Normannorum totius Apuliae et Calabriae)の称号を与え、帝国の直接の封臣とした。
1059年8月23日にメルフィで開催された教会会議の結果、教皇ニコラウス2世はロベルト・イル・グイスカルドをプッリャ・カラブリア・シチリア公爵(イタリア語: Duca di Puglia, Calabria e Sicilia)に叙し、ロベルトのシチリア征服に名分を与えた。
1127年に公国はシチリア伯領に併合された。公爵の称号はシチリア王の後継者にしばしば与えられた。
ルッジェーロ4世の死後、公爵位は空位となった。 シチリア王グリエルモ2世は自らの子のために称号を復活させたが、ボエモンドが早世したため、タンクレーディの長男ルッジェーロに引き継がれることとなった。
イタリア王族であるサヴォイア=アオスタ家の推定相続人の称号として用いられた。
ナポリ王の推定相続人の称号として用いられた。
トラスタマラ家とボルボーネ=シチリア家によるナポリ王、シチリア王国と同君連合となった両シチリア王の推定相続人の称号としても用いられた。
両シチリア王国の滅亡後は、両シチリア王家の家長が儀礼称号として用いている。
両シチリア王家の家長位をめぐってカラブリア公家と競合しているカストロ公家では、推定相続人の称号として用いている。
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