ダッハウの虐殺
ウィキペディアから
ウィキペディアから
ダッハウの虐殺(ダッハウのぎゃくさつ、Dachau massacre)またはダッハウ解放後の報復(ダッハウかいほうごのほうふく、Dachau liberation reprisals)は、1945年4月29日のダッハウ強制収容所解放後にアメリカ陸軍によって行われた、収容所職員および戦争捕虜に対する虐殺行為である。収容所を解放したアメリカ陸軍第7軍第45歩兵師団の兵士は、引き続き収容所職員とドイツ人戦争捕虜の殺害を行った。犠牲者数は情報源により大きく異なる[1]。また、他の収容所でも看守の殺害や元囚人による拷問が行われた。
報復的な虐殺は米軍の収容所占領の直後に始まった。アメリカ兵は収容所到着直前に40輌もの無蓋貨車に押し込まれた痩せ衰えた死体を目撃していたという[2][3]。また収容所の制圧後、セメントで作られた石炭式火葬場およびガス室と何百体ものほぼ裸になった死体を発見した旨の報告が行われている[1]。
ハロルド・マルクーゼによれば、収容所所長マルティン・ヴァイスSS大尉は正規の看守や守備隊を引き連れ、米軍到着以前に収容所を脱出していたという。所長代行となったハインリヒ・ヴィッカーSS少尉には560人の人員が与えられていた。これは収容所内に設置されていた親衛隊員用懲罰房の収容者やハンガリー義勇兵などであった[4]。
1945年4月29日、小規模な抵抗の後、ダッハウ収容所はヴィッカーの元で米陸軍第42歩兵師団副師団長ヘニング・リンデン准将に対して投降した。リンデンによると、いくらかの混乱を収めた後、彼はマルグリート・ヒギンズら記者団と共に収容所内を視察したという[5][6]。降伏に関する詳細はリンデンがハリー・J・コリンズ少将に宛てて残した覚書「ダッハウ強制収容所の降伏に関する報告書」(Report on Surrender of Dachau Concentration Camp) に残されている。
我々が南西の角に近づくと、3人が停戦旗を手に進み出た。南西の角から約75ヤードの地点で我々は彼らと対面した。3人のうち、1人はスイス赤十字代表者ビクター・マウラー医師で、もう2人のSS隊員は所長と所長副官を名乗った。彼らは前進しつつあるアメリカ軍に収容所を投降させるべく、28日夜に正規所長から職務を引き継いだのだという。スイス赤十字代表者は収容所に約100人の看守がおり、監視塔の者を除き彼らの武器はすべて回収・集積してあると述べた……彼はまた銃撃が無い事を保証した上で約50人の看守を投降させ、42000人のチフスを患い"半狂乱"に陥った囚人が居る旨を述べた……彼は「あなたは士官か」と尋ねた。私は答えた。「私は第42歩兵師団の副師団長であり、アメリカ陸軍レインボー師団の名のもとに収容所の投降を受け入れる意志があります」[7]
ドワイト・D・アイゼンハワー大将は、ダッハウ強制収容所の制圧に関する声明を発表した
戦史家のEarl Ziemkeは次のように記している。
アメリカ人は4月29日の日曜日にやってきた。収容所の業務は水曜日から停止しており、避難が始まっていた。4000人の囚人を含む護送隊は逃亡に成功したが、ドイツ人の予想よりも早く第42および第45歩兵師団はドナウ川から40マイルの位置に展開していた。日曜日の午後、収容所は静かだった。そして監視塔の看守が「アメリカ人だ!」と大声で叫んだのである。囚人はゲートに殺到し、看守が銃撃を始めた。外では1人のアメリカ兵が塔と看守を眺めていて、大勢のアメリカ人が200ないし300ヤード先に現れた。アメリカ軍の発砲が始まると、看守は両手を上げて塔を降りてきた。彼は背後にピストルを隠していて、最初のアメリカ人が彼を撃った。数分後には金髪の女性従軍記者や従軍牧師を載せたジープがやってきた。牧師は囚人に話しかけ、また囚人は祈りを捧げるべくゲートへと集まってきた。4月29日午後にダッハウを開放した第42および第45師団の兵士は、翌朝になって第15軍の3個師団と共にバイエルンの州都であり、ナチズム発祥の地でもあるミュンヘンを占領した。 — Earl F. Ziemke[9]
第45師団第157歩兵連隊の大隊長だったフェリックス・スパークス中佐は、後に事件について書き残している。スパークスは50人ほどのドイツ兵捕虜が、第157連隊の兵士によって石炭集積所に連行されるのを見た。集積所は病院の隣で、8フィート程度のL字型のブロック壁に囲まれていた。捕虜らは第1中隊の機関銃チームによって監視されていた。そして彼がまだ降伏していないSS隊員が居る収容所中央部に向かうべく集積所を離れて間もなく、機関銃の銃声が響いた。スパークスが慌てて戻ると恐らく12人ほどの捕虜が死亡しており、また多くが負傷していた。彼は19歳だった機関銃手を蹴り飛ばした。機関銃手は酷く興奮して泣き喚きながら、捕虜が逃げようとしたのだと弁明している。スパークスはそれを信用できなかった為、収容所中央部の捜索を再開する前に機関銃に下士官を一人つけている[10]。スパークスは更に次のように述べている。
この事件について、ダッハウで囚われたドイツ人捕虜のほとんど全てが処刑されたとの主張が様々な出版物で行われた。それは全く真実ではない。その日ダッハウで殺されたドイツ人看守の合計数はまず間違いなく50人は超えず、正確にはおそらく30人程度であろう。連隊が当日付で残した記録によれば、1000人以上のドイツ人捕虜が連隊によって集められていた。我が任務部隊が連隊の攻撃を先導していた為、ダッハウ強制収容所からの数百人を含む、ほぼ全ての捕虜を我が隊が確保した。 — Felix L. Sparks[10]
第7軍監察官補佐ジョセフ・ウィテカー中佐が実施した「ダッハウにおけるドイツ人看守に対する虐待疑惑の調査」(Investigation of Alleged Mistreatment of German Guards at Dachau)では、1945年5月5日に聴取された元第157連隊第3大隊付軍医ハワード・ブフナー大佐の証言が採用されており、これはスパークスの主張と一致する。証言によれば、彼はドイツ兵が撃たれたと通報を受けて16時頃に広場に到着したという。その際に「15人または16人の死傷し壁沿いに横たわったドイツ兵を見た」と述べている。彼は負傷した兵士の一部がまだ動いていることに気づいたが、何らかの処置を取ろうとはしなかった。また彼はウィテカーに対して、広場に展開していたのがどの中隊だったのかは分からないと語った[11]。
1986年にブフナーが著したDachau: The Hour of the Avenger : An Eyewitness Account,[12]によれば、アメリカ軍は520人のドイツ兵を殺害し、その内346人はジャック・ブシヘッド中尉の命令で処刑されたという。また病院に対する銃撃の後には石炭集積所においてドイツ兵に対して集団リンチが行われた疑いがあるとされる。ただしブフナーは事件の現場には直接居合わせなかったが、公的な報告では2度目の銃撃については言及されていない[11]。デヴィット・L・イスラエルはこれに反論し、著書The Day the Thunderbird Criedの中で「ブフナーによる不正確な数字の恣意的な数字の使用はダッハウにおけるSSの処刑に関する虚偽の物語に引用され、これは熱心な修正主義者らによってダッハウの歪んだ物語を生み出す為に悪用された[13]」と述べている。
エイブラム・サッカーは「ナチのいくらかは検挙され、即決で警備犬と共に処刑された」と報告している[14]。
ユルゲン・ザルスキーが1997年に著したDachauer Hefteによれば、16人のSS隊員が石炭集積所で(一部は元収容者によって殺害された)、17人がB監視塔で殺害されており、恐らく事件全体ではより多くがアメリカ兵に殺されているとしている。また少なくとも25人から50人程度のSS隊員は怒り狂った元収容者らによって殺されたという。ザルスキーの研究は1945年5月のウィテカー調査報告書に基づいており、これは1992年にリンデン将軍の息子によって閲覧が可能となった[15]。
病院に対する銃撃が終わった後、一部の米兵がいくらかの拳銃を解放された受刑者に渡したと言われている。そしてある目撃者によれば、解放された収容者らによって囚われたドイツ人捕虜(国防軍およびSS)が拷問された上で殺害された。同じ目撃者はまた、多くのドイツ兵がシャベルや工具で殴り殺されたとも主張している。その他、収容所の運営に協力していた収容者組織(Kapo)の隊員も虐殺された[10]。
事件後、ウィテカー中佐によって事件の目撃者に対する聴取が行われた。調査結果は1945年6月8日に「ダッハウにおけるドイツ人看守に対する虐待疑惑の調査」として発行された。この報告書は単にI.G.レポート(the I.G. Report)とも呼ばれる。1991年、ワシントンD.C.のアメリカ国立公文書記録管理局にてこの報告書のコピーが発見された[11]。
ウィテカーは第157歩兵連隊I中隊長だったウィリアム・P・ウォルシュ中尉が収容所裏門近くで投降したドイツ兵4人を無蓋貨車の中で射殺した旨を報告に記している。またアルバート・C・プルーイット二等兵は貨車の中で死にかけのドイツ兵にとどめを刺したという[11]。
I中隊副隊長ジャック・ブシヘッド中尉と共に収容所に入ったウォルシュは捕虜を国防軍将兵とSS隊員に分離し始めた。そしてSS隊員らは別の囲いの中に連行され、I中隊の隊員らによって何種類かの武器で射殺された[11] 。
この調査は大隊長フェリックス・スパークス中佐や、SS隊員らへの医療義務を怠ったハワード・ブフナー軍医大佐などの軍法会議を想定して行われた[11]。しかし、当時のバイエルン占領軍司令ジョージ・パットン将軍が起訴を却下した為、殺人事件としての審議が行われる事はなかった[10]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.