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ジェイムズ・コットン(James Cotton、1935年7月1日[1] - 2017年3月16日[2])は、米国のブルース・ハーモニカ奏者、シンガー。マディ・ウォーターズのバンドのハーモニカ奏者として頭角を現し、その後ソロ・アーティストとして活躍している。1990年代半ばに喉頭ガンを患い歌うことが出来なくなったが、以降もバンドにヴォーカリストを迎えて精力的に活動を続けていた。
ジェイムズ・コットン | |
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ジェイムズ・コットン (2008年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1935年7月1日 米国ミシシッピ州チュニカ |
死没 | 2017年3月16日(81歳没) |
ジャンル | ブルース |
職業 | ミュージシャン |
担当楽器 | ハーモニカ |
活動期間 | 1953年 - 2017年 |
レーベル |
ヴァンガード・レコード ヴァーヴ・レコード キャピトル・レコード ブッダ・レコード アリゲーター・レコード ブラインド・ピッグ・レコード テラーク・インターナショナル |
共同作業者 |
マディ・ウォーターズ ハウリン・ウルフ ジョニー・ウィンター マット・マーフィー |
公式サイト | 公式サイト |
1935年、ミシシッピ州チュニカに生まれた。少年時代にラジオ局KFFAの名物番組キング・ビスケット・タイムでサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの演奏を聴き、音楽に関心を持つようになった。9歳のとき、コットンはウィリアムソンに会いにKFFAのあったアーカンソー州ヘレナに向かう。彼に実際に手ほどきを受け、腕を磨いた[1]。
その後コットンは拠点をメンフィスに移し、1950年頃にはウィリー・ニックス、ジョー・ウィリー・ウィルキンズといったミュージシャンたちとプレイを重ね音楽活動を本格化する。続いてハウリン・ウルフのバンドに参加した。1953年には、サム・フィリップスの目に留まり、サン・レコードへソロ・アーティストとして初のレコーディング。シングル2枚をリリースした。
1955年頃、シカゴに移住する。1957年、マディ・ウォーターズのバンドにリトル・ウォルターの後任として正式参加。彼のバンドにまだ在籍していた1965年、自らバンドを結成し、サミュエル・チャーターズのプロデュースのコンピレーションChicago/The Blues/Today!のレコーディングに参加。同シリーズのVolume 2のLPに彼の曲5曲が収録された。
マディのバンドには翌1966年まで在籍し脱退。1967年には、ソロ・アーティストとして初のフル・アルバムCut You Loose!をヴァンガード・レーベルよりリリースする。
コットンのアーティストしての地位を不動のものとしたのは、1974年にブッダ・レコードよりリリースした100% Cottonだ。ここでは、ギターのマット・マーフィーにケニー・ジョンソン (ds.)、チャールズ・キャルミーズ (b.)、リトル・ボー (sax.)といった強者メンバーを揃え、ソロではなく「ジェイムズ・コットン・バンド」を名乗り、バンドとしてのファンキーなサウンドを確立した。"One More Mile"、"Rocket 88"など、以後彼の主要なレパートリーとなる楽曲が多く収められている。
ブッダからはあと2枚アルバムをリリースしている。2枚目のHigh Energy (1975年)ではニューオーリンズでアラン・トゥーサン、ジェイムズ・ブッカー、ワーデル・カゼア等と共演。続く2枚組のライブ・アルバムLive & on the Move (1976年)では、ライブ・バンドとしてのテンションの高さを見せた。ブッダ時代は既存のブルースの枠にとらわれず新たなサウンドに切り開いたという意味でも、コットンにとって重要な時期であった。
1970年代後半になると、マディ・ウォーターズのアルバム、Hard Again、King Bee、Muddy "Mississippi" Waters Liveといったアルバムにジョニー・ウィンターとともに参加した。
1980年代には、アリゲーター・レコードと契約し、2枚のアルバムをリリースする。2枚目に当たるライブ盤Live from Chicagoでは、コットンはグラミー賞にノミネートされた。1990年には、同レーベルからのハーモニカ奏者のオールスター企画盤Harp Attackでジュニア・ウェルズ、ビリー・ブランチ、キャリー・ベルと共演。
1990年代半ばに喉頭ガンの手術の受け、その結果歌うことができなくなってしまった。しかしながら、コットンはバンドに元アンソン・ファンダーバーグ&ザ・ロケッツのダリル・ニューリッシュを迎え、活動を続行。その後もレコーディングも続けている。
1996年には、アルバムDeep in the Bluesで初めてグラミー賞(ベスト・トラディショナル・ブルース・アルバム部門)を受賞している[3]。
2017年3月16日、米テキサス州オースティンにあるセント・デイビッズ・メディカル・センターにて肺炎のため死去[4][2]。
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