カバー (マヤ遺跡)
メキシコの遺跡 ウィキペディアから
メキシコの遺跡 ウィキペディアから
カバーとは「強い手」を意味する[1]。
形成期中期(紀元前600-300年)から定住が始まったが、政治・経済の上で重要な都市になったのは古典期終末期(800-1000年)である[1]。
プウク地域の他の都市と同様、11世紀はじめに放棄された[1]。
遺跡の中心部は東西に3つの建造物グループに分けられ、中央に祭祀センター、東と西に支配者層の住む宮殿があった。しかし東のグループ以外はほとんど調査・復元されていない。中央グループの神殿ピラミッドは20メートルを越えるカバー最大の建造物だが、未発掘である[2]。
東のグループはよく復元されており、プウク式の建造物を見ることができる。とくに250個ものチャク神の仮面で覆われたファサードを持つ宮殿コズ・ポープはカバーでもっとも有名な建造物である[2]。西のグループには赤い手の壁画が発見された建造物がある。コズ・ポープの裏手と赤い手の建物の側柱には9世紀の日付を持つ碑文をともなった彫刻が残る[2]。
カバーから北西のウシュマルまで、約20キロメートルに渡る長い堤道(サクベ)が走り、終点にはアーチが建てられた。
カバーは1843年にジョン・ロイド・スティーヴンズとフレデリック・キャザーウッドによってはじめて報告された。その後、デジレ・シャルネやテオベルト・マーラーが訪れている。
1990年代にラモン・カラスコ率いるメキシコ国立人類学歴史研究所(INAH)が発掘を行った[2]。
21世紀にはいってからはINAHのロールデス・トスカノ・エルナンデスらによる調査が行われており、この調査によって王室の台所の跡が発見された[3]。調査によりここでニシュタマリゼーションが行われていたこと、かまどが存在したことが判明した。またメタテなどの石器や多数の土器も発見された[4]。
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