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イリ将軍(満洲語:ᡞᠯᡞ
ᠵᡞᠶᠠᠩᡤᡞᠶᡡᠨ 転写:ili jiyanggiyūn、総統伊犁等処将軍、そうとういりとうしょしょうぐん、簡体字中国語:总统伊犁等处将军、拼音:Zŏngtŏng Yīlí dĕngchù Jiāngjūn)は、清朝期に設置された新疆の最高軍政長官。天山山脈北部の恵遠城(現在の新疆ウイグル自治区霍城県恵遠鎮)に駐箚した。
1759年の乾隆帝によるジュンガル征服(清・ジュンガル戦争)により、旧ジュンガル領のイリ盆地、タリム盆地は、清朝の支配下に入り、イチェ・ジェチェン(ice jecen、新疆、新たな征服地)と呼ばれた。1762年、清朝政府は、新疆支配の統括機関として、イリ将軍府を設置し、旗人の明瑞(ミンシュイ)をイリ将軍に任命した。
清朝政府は、ジュンガルの統治政策を踏襲し、天山山脈北部を支配の中心地として重視し、1763年には天山山脈北部のイリ川北岸に恵遠城を築いて、イリ将軍の駐箚地とした。イリ盆地には、この他、塔勒奇城(霍城県三道河郷)・寧遠城(グルジャ市薩依布依街道)・恵寧城(グルジャ市巴彦岱鎮)・綏定城(霍城県水定鎮)・広仁城(霍城県芦草溝鎮)・瞻徳城(霍城県清水河鎮)・拱宸城(コルガス市六十二団)・熙春城(グルジャ市漢賓郷)が築かれ、イリ九城と称された。
1871年、ヤクブ・ベクの新疆侵入に乗じて、ロシア帝国がイリ地方を占領、恵遠城も破壊の対象となった。清朝は欽差大臣の左宗棠を派遣して、1876年までにヤクブ・ベク軍を鎮圧。1881年には、ロシアとの間でイリ条約が締結され、多額の賠償金と引き換えにイリ地方は清朝の支配下に戻った。
1884年には、新疆省が設置され、中国内地と同様の行政制度が導入された。イリ将軍は、主に新疆北部の防衛を担う名目的存在となり、新疆の行政権は漢人官僚から任命される巡撫に移された。ロシアに破壊された恵遠城は新たに再建されたが、イリは新疆全域に対する政治的中心地の地位を失い、その地位は、新疆省の官衙が置かれた迪化(現在のウルムチ)に移った。辛亥革命後、イリ将軍の制度は廃止された。
イリ将軍の配下には、イリ、タルバガタイ、カシュガルに駐屯する3名の参賛大臣が置かれ、ウルムチには、ウルムチ都統が置かれた。これらの下には、弁事大臣、領隊大臣等の役職が設けられ、それぞれ各オアシス都市の統治を行った。イリ将軍以下、これら軍政官には、例外なく旗人官僚が任命された。
イリ将軍の指揮下には、旗人からなる満営と、漢人からなる緑営が置かれた。また、その他に、アムール川流域から移住させたシベ、ソロン、ダグール等のツングース系民族からなる駐防八旗もイリ将軍の指揮下に置かれた。
清朝統治下の新疆では、軍事ポストが旗人により独占された一方、各地方の末端行政は、現地人有力者に委ねられた。早くから清朝に服属したハミやトゥルファンの支配者らには、ジャサク制が適用され、モンゴル人貴族と同様の特権が付与された。また、タリム盆地の各オアシス都市の支配者に対しても、清朝の官職が与えられ、自治を行わせるベグ官人制が行われ、在地の社会構造がそのまま温存された。その一方、漢人の入植者が多い、新疆東部には中国内地と同様の行政制度が敷かれ、陝甘総督が管轄した。
清朝の新疆経営は、軍事的観点から行われており、漢人住民の移住だけでなく、駐屯軍の現地民との接触も禁止されていた。現地での徴税額も限られていたため、清朝中央政府は、内帑金(宮廷費)から毎年多額の軍事費を投入し、新疆の統治制度を維持した。
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