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竇 建徳(とう けんとく)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。
清河郡漳南県(現在の河北省衡水市故城県の北東)に代々農村で里長を務める家に生まれた。大業7年(611年)、煬帝が高句麗遠征の徴発を行った際に二百人長に選抜された。孫安祖の叛乱に連座し、一族が誅殺されると、高鶏泊(現在の河北省衡水市故城県の南西)起義の指導者高士達の下に身を寄せた。高士達の死後は、その軍勢を率いて饒陽(現在の河北省衡水市饒陽県)を攻撃し、平原(現在の山東省徳州市陵城区)を占拠した。部下を大切に扱い、また戦闘後の虐殺も行わなかったことから民衆の支持を得て、その軍は10万にも達した。
大業13年(617年)、楽寿(現在の河北省滄州市献県)にて長楽王を自称し、独自の元号として丁丑を建て、積極的に領土拡大を行った。煬帝は薛世雄に命じ3万の軍勢で討伐しようとするが、竇建徳軍の待ち伏せに遭い壊滅した。こうして河北の殆どの地域が竇建徳の統治下に置かれることとなった。翌丁丑2年(618年)、竇建徳は夏王を称し五鳳と改元、8月には洺州( 現在の河北省邯鄲市永年区)に遷都した。
五鳳2年(619年)、王世充が楊侗を廃し皇帝を自称すると、竇建徳もまた朝廷を整備していく(ただし夏王の称号を使用)。五鳳4年(621年)、唐の李世民が王世充の拠点である洛陽を攻撃すると、王世充の要請を容れて竇建徳も出兵するが、虎牢の戦い(虎牢関、現在の河南省鄭州市滎陽市)で李世民の軍に破れて捕らえられ、長安で処刑された。
竇建徳の処刑により、夏の残存勢力を中心として盟友の劉黒闥が自立し、河北の混乱が続くこととなった。
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