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日本の経済学者、政治家、官僚 ウィキペディアから
田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(1850年8月6日) - 1923年(大正12年)8月15日)は、日本の経済学者・政治家・官僚。元・東京市長。専修学校(専修大学の前身)の創始者の一人である。子爵。
1850年(嘉永3年)薩摩藩士の3男として薩摩藩の京都上屋敷で生まれた。16歳で薩摩藩の開成所にて洋学を学び、長崎に遊学した後、上京。1869年(明治2年)に慶應義塾の門に入り、その後に開成学校(大学南校、のちに南校)で英学を、海軍兵学寮で兵学を学んだ。
その後、大学南校に戻るが、刑部省から留学を命ぜられ、1871年(明治4年)から1879年(明治12年)まで足掛け9年間アメリカに留学した。ハートフォード高校を経て1874年(明治7年)にイェール大学文科に入学し[1]、イェール大学大学院に進学、経済学、財政学を学び修了。1879年(明治12年)夏に帰国し東京大学で経済学を講じ、のちに大蔵省での部下となる阪谷芳郎・添田寿一らを教える。1880年(明治13年)に専修学校を創立。1884年(明治17年)に大蔵省に入省し、国債局長に就任(その傍らで、法科大学教授を兼任)。1888年(明治21年)に日本で最初の法学博士の学位を得る。
1891年(明治24年)に大蔵省銀行局長、主税局長、貴族院議員となり、1892年(明治25年)に大蔵次官になるもいったん退く。その後、1898年(明治31年)に大蔵次官に返り咲き、大蔵総務長官、会計検査院院長(1901年(明治34年) - 1918年(大正7年))などの要職を歴任。大蔵省時代は、特に日露戦争時での戦費調達、債務処理に功績を挙げた。1912年(明治45年)の東京市会議員選挙に小石川区から立候補したが、鳩山一郎に敗れて落選した(鳩山824票に対し、田尻1票)[2]。
退官後、東京市長を務める等政治の分野でも活躍した。蓮沼門三によって修養団が結成されると、初代団長に推されて就任している。
同時代の冒険小説家・押川春浪が「硬骨学者」で「奇行に富んで居られる」と評したほど奇行で知られた人物であり、特に自動車嫌いは徹底していて、宮中に参内するとき以外は人力車さえ使わなかったという[3]。質素を旨とし衣服にかまわぬ姿を、友人たちは「きたなり」(それにちなんで、田尻の号は北雷)と呼んだ逸話がある。また、読んでいない本が積み上がっている状態を指す「
東京市長時代に流行した「東京節」(パイノパイノパイ)の3番に「タジれた市長を仰ぐこと」「市長のいうことよくきいて豆粕食うこと痩せること」との一節があり、3番、4番のサビの部分が「シチョウサンタラケチンボデ パイノパイノパイ ヨウフク(洋服)モツメエリ(詰襟)デ フルイ(古い)フルイフルイ」となっている。「タジれた」は田尻と掛けられている。
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