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U81は第二次世界大戦中に建造されたドイツ海軍のVII型潜水艦。
艦歴 | |
---|---|
計画 | |
起工 | 1940年5月11日 |
進水 | 1941年2月22日 |
就役 | 1941年4月26日 |
その後 | 1944年1月9日戦没 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 水上769t、水中871t |
全長 | 67.10m、耐圧殻長50.50m |
全幅 | 6.20m、耐圧殻幅4.70m |
吃水 | 4.74m |
機関 | 水上:ディーゼル MAN M6V40/46過給機付き6気筒 2基 2,800-3,200hp(2,400kW)2軸 |
速力 | 水上:17.7kt(32.8km/h) 水中:7.6kt(14.1km/h) |
航続距離 | 水上:8,190海里(15,170km) 水中:81海里(150km) |
燃料 | |
乗員 | 44-52名 |
兵装 | 53.3cm魚雷発射管x5(艦首4、艦尾1 搭載魚雷14本) 45口径88mm単装砲1門 38式四連装2cm対空砲1基 |
備考 | 試験潜航深度:230m |
「U81」は1939年1月25日ブレーメンのノルト(北)管理区フェーゲザックにあるブレーマー・フルカン造船所に発注され、1940年5月11日に起工されて後9カ月で進水した[訳注 1]。1941年2月22日に進水し、同年4月26日フリードリヒ・グッゲンベルガー中尉を最初の艦長に迎え就役した。グッゲンベルガー中尉の指揮下で「U81」は1941年4月26日から7月31日まで第1Uボート戦隊に配属され訓練を行なった。そして、第1Uボート戦隊所属のまま実戦につき、哨戒訓練を行なった[1]。
「U81」が最初に戦果をあげたのは、第2次哨戒のときでトロンハイムから北海を経て北大西洋でのことで、フランスのブレストへ配属になる前のことだった。この哨戒中にSC42船団と遭遇し、9月9日にイギリス船「エンパイア・スプリングバック」を、続いて9月10日には同じく「サリー・マークス」を沈め2隻合わせて8,843トンとなった[訳注 2]。この後、「U81」は地中海派遣を命じられた艦の1隻となった。地中海へ向かう最初の試みは10月30日にイギリス空軍第209飛行隊所属のPBY カタリナ飛行艇の攻撃を受け、大きな損傷を負うという災難に見舞われ、ジブラルタル海峡を通過することができなかった。このカタリナは第53飛行隊所属のロッキード・ハドソンと協同して「U81」に対し爆雷を投下した[訳注 1]。これにより「U81」は大きな損傷を受け、ブレストへ戻ることを余儀なくされた。ブレストで再度地中海へ侵入するために必要な修理を行なった[1]。
11月4日、「U81」はブレストからラ・スペツィアへ向かって出港した。11月13日にジブラルタル海峡を通過し航行しているところで、ジブラルタルへ帰還途中のH部隊と遭遇した。「U81」は航空母艦「アーク・ロイヤル」へ向け魚雷を4発発射しその内の2発が命中した[訳注 3]。このため護衛艦から爆雷攻撃を受けたもののこれをかわした[訳注 1]。「アーク・ロイヤル」は、救難作業にもかかわらず攻撃を受けた約12時間後には放棄されることとなり、その約2時間後に転覆して沈んだ。乗員の犠牲者は魚雷の爆発が原因での1名だけだった[2]。「U81」は12月1日にラ・スペツィアに到着し、第29Uボート戦隊に合流した[訳注 4]。
「U81」は第4次哨戒では何の戦果も得られなかった。1942年4月4日地中海東部へ向けて第5次哨戒に出航した。4月16日にエジプトの帆船「バブ・エル・ファラグ」と「ファトウ・エル・カール」に加え、イギリス船「カスピア」と自由フランス海軍対潜トロール漁船改造艇「ヴィーキングス」も沈めた。「U81」はさらに4月19日にエジプト帆船「ヘフツ・エル・ラーマン」を、4月22日に「エル・サーディアー」ともう1隻を沈めた。「U81」は4月25日まで哨戒を行いサラミスに入港し、この22日間で7隻7,682トンの船を沈めた[訳注 5]。サラミスからの第6次哨戒では戦果を得られず、次の第7次哨戒でイギリス船「アーヴル」を6月10日に沈め、ラ・スペツィアに戻った[訳注 6]「U81」の第8次哨戒は地中海西部で行なわれた。イギリス船「ガーリング」を11月10日に沈め、トーチ作戦中の1船団の攻撃に向かい11月13日に「マロン」を沈めた[訳注 7]。
「U81」の次の哨戒は戦果がなく、しばらくポーラ方面へ移動した。12月25日に艦長がグッゲンベルガーからヨハン・オットー・クリーク(de:Johann-Otto Krieg)中尉へ交代した[訳注 1]。「U81」は1943年1月30日、ポーラから次の哨戒に出航した。2月10日にオランダ船「サロエナ」に損傷を与え、翌11日には4隻の帆船、エジプト船「アル・カスバナー」、「サッバーフ・エル・キール」とレバノン船「フスニ」及びパレスチナ船「ドルフィン」を沈めた。U-81は2月19日にサラミスに入港し、21日間の哨戒で4隻388トンを沈め、1隻6,671トンに損傷を与えた[訳注 8]。
次の第11次哨戒ではエジプト帆船「ブーギー」、「マワッハーブ・アッラー」及び「ロスディ」を沈めたが、実質的にはたいした戦果ではなく[訳注 9]、次の哨戒任務で戦果をあげることができた。第12次哨戒で、6月17日にイギリス兵員輸送船「ヨーマ」を沈め、続いて25日にはエジプト帆船「ニスル」を、26日にはシリア帆船「ネリー」及び「トウフィック・アッラー」を沈めた。同27日にはギリシア船「ミカリオス」を沈めたが、ラタキア沖で海岸砲の攻撃を受けた[訳注 10]。次の第13次哨戒で7月22日「エンパイア・ムーン」に魚雷を命中させ重大な損傷を与えた。これにより、「エンパイア・ムーン」は戦争終了まで修理を要することとなった[訳注 11]。 それ以降の3次の哨戒では、11月18日(第16次哨戒)で「エンパイア・ダンスタン」を沈めた他は戦果が無かった[訳注 12]。
「U81」は1944年1月9日11時30分ポーラ基地でアメリカ合衆国軍爆撃機から爆撃を受けた。この爆撃により沈没し2名の乗組員が死亡した他、生存者数については不明である[訳注 1]。残骸は1944年4月22日に引き上げられ解体された[1]。「U81」は17次にわたる哨戒を行ない、23隻合計63,289トンの船を沈め他に2隻合計14,143トンに損傷を与えた[1]。
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