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P・ラムリー (マレー語: P. Ramlee、1929年3月22日 - 1973年5月29日)はマレーシアのシンガーソングライター、俳優。1929年にマレーシア、ペナン州で生まれた。1950年代から1970年代にかけて活動し、「マレーシア音楽の父」と呼ばれている。1963年には東京で開催されたアジア映画祭で「The Most Versatile Talent Award」を受賞している[1]。
後に続く「マレーシアの英雄」、1970年代から1980年代にかけて大きな人気を誇ったスディルマン・アーシャドなどと共に、マレーシア大衆音楽の最重要人物とされている。P・ラムリーがジャズ~ラテン音楽世代なら、スディルマン・アーシャドはロック世代を代表する歌手だった。二人ともポップ・ソングも伝統歌謡も歌い、幅広いレパートリーを持っていた[2]。
P・ラムリーは、1929年にペナン島で生まれた[6][7]。中等教育の途中で太平洋戦争が勃発、日本軍がペナン島を占領すると日本海軍学校に入学した[8]。そこで音楽の基礎や日本語を学び、日本の曲をピアノやバイオリンで演奏するようになる。後に、日本映画からも影響を受けた。
1945年には最初の音楽バンドを結成し、音楽家としてキャリアをスタート。1948年に『チンタ(愛)』で映画デビュー[9][10]。44歳で亡くなるまでに映画60作品以上に監督・俳優として携わり、300曲以上を作曲[11]。1950年代から60年代のマレー映画黄金期を支えた大スターだった[12]。現在でも、彼の映画は繰り返しテレビで放映され、歌は多くの歌手によってカバーされている[13]。
P・ラムリーは、新作映画ごとに新しい曲を生み出し、マレー歌謡、ポップソングの礎を築いた。ピアノ、バイオリンのほか、トランペットやサックスも演奏した彼は、マレーやインドネシアの「ジョゲッ」や「クロンチョン」、「ドンダン・サヤン」など地元の音楽スタイルをベースに、ラテン音楽、ジャズ、アラブ、インド音楽のリズムやメロディを自身の体に浸透させ、自在にブレンドして作曲する才能を発揮した。1960年代に作曲した「ブニ・ギター」では、当時海外で流行していた「ツイスト」も取り入れている。
P. ラムリーの3人目の妻サロマ(Saloma)は、彼の映画にも登場する女優であり、マレーシア、シンガポールで絶大な人気を誇る歌手だった[14]。
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