庾黔婁庾 黔婁(ゆ けんろう、生没年不詳)は、南朝斉から梁にかけての官僚。二十四孝のひとりに挙げられた。字は子貞、あるいは貞正。本貫は南陽郡新野県。弟は庾於陵・庾肩吾。 司徒主簿の庾易の子として生まれた。若くして学問を好み、たびたび『孝経』を講読した。人に対して取り乱すことがなかったため、劉虯や宗測らはか
老荘思想名家の公孫龍と交流した魏の公子牟に帰される。 『田子』 - 稷下の学士の田駢に帰される。 『老萊子』 - 春秋楚の隠者老萊子(中国語版)に帰される。 『黔婁子』 - 戦国斉の隠者黔婁(中国語版)に帰される。 『宮孫子』 『鶡冠子』 『周訓』 『黄帝四経』 - 黄帝に帰される。黄老思想の書。 『黄帝銘』 『黄帝君臣』
梁書列伝第三十九 - 王僧弁 列伝第四十 - 胡僧祐・徐文盛・杜崱・陰子春 列伝第四十一 孝行 - 滕曇恭・沈崇傃・荀匠・庾黔婁・吉翂・甄恬・韓懐明・劉曇浄・何炯・庾沙弥・江紑・劉霽・褚脩・謝藺 列伝第四十二 儒林 - 伏曼容・何佟之・范縝・厳植之・賀瑒・司馬筠・卞華・崔霊恩・孔僉・盧広・沈峻・孔子祛・皇侃
嘗糞その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』によれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになること
二十四孝庾黔婁(ゆけんろう)は南朝斉の人で、孱陵(せんりょう)県令になっていたが、着任して10日も経たないうちに、胸騒ぎがしてならなくなった。父の庾易の病気かと思い、県令を辞めて家に帰ると、案の定大病を患っていた。庾黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、甘く苦ければ良かろうと言う。庾黔婁