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黄 紹竑(こう しょうこう)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。国民政府(国民革命軍)の軍人で、李宗仁・白崇禧とともに新広西派(新桂系)の主要指導者の一人であった。別名は紹雄。字は季寛。
大地主の家庭に生まれ、桂林の兌沢高等小学を卒業後、1910年(宣統3年)春に広西陸軍小学第4期として入学した。このとき、第3期の李宗仁と同学になり、また、校内で革命派の思想の影響を受けている。
1911年に辛亥革命が勃発すると、黄紹竑は武昌・南京で学生軍として革命派に参加した。1912年(民国元年)秋、武昌陸軍第2予備学校に入学している。卒業後の1915年(民国4年)、保定陸軍軍官学校第3期に入学し、このときに白崇禧・夏威と同学になった。1916年(民国5年)に卒業して広西省に戻り、広西新軍模範営などに属している。
1920年(民国9年)の粤桂戦争で桂軍(広西軍)が粤軍(広東軍)に敗北すると、黄紹竑は桂軍の主力から離脱する形で百色に移駐した。このとき、軍備強化のためアヘン取引を掌握するなどしている。その後も広西省内では混乱が続き、黄紹竑は様々な勢力と離合を繰り返していく。
1923年(民国12年)秋、黄紹竑は李宗仁率いる定桂軍に参加し、白崇禧らもこれに合流して新広西派の基礎が固まった。1924年(民国13年)5月より、新広西派は、旧広西派の陸栄廷・沈鴻英との三つ巴の戦いを開始した。6月、南寧に定桂聯軍司令部が設置されると、李宗仁が総指揮、黄紹竑が副総指揮、白崇禧が前敵総指揮となった。8月までに、新広西派は広西の3分の2を掌握している。
11月、黄紹竑は李済深の招請に応じて広州を訪問し、中国国民党に加入した。広西に戻ると、李宗仁は広西善後督弁、黄紹竑は同会弁に任ぜられた。1925年(民国14年)、新広西派はついに広西を統一する[1]。9月、黄紹竑は広西省政府民政庁庁長に任ぜられ、広西省の内政改革に取り組んだ。黄紹竑は内政手腕にも優れ、その好成績から「新広西」として国内でも評判になった。
1926年(民国15年)3月、李宗仁率いる軍は国民革命軍第7軍に改組され、李宗仁が軍長、黄紹竑は同軍党代表となった。同年夏、国民政府の下での制度改正に伴い、黄紹竑は広西省政府主席に任ぜられた。1927年(民国16年)4月の上海クーデターでは、蔣介石の意を受けて、黄紹竑も部下の黄旭初に中国共産党粛清を命じた。また、南昌起義の鎮圧、張発奎・黄琪翔率いる反蔣粤軍の撃破の指揮もとった。
しかし1929年(民国18年)3月、蔣桂戦争が勃発すると、黄紹竑も桂軍として蔣介石軍と戦うことになる。一時は、兪作柏らの離反により、李宗仁・白崇禧らとともに香港へ逃れざるを得なかった。しかし、まもなく広西が大混乱に陥ったため、3人は同年11月に再び新広西派の指導者として返り咲くことが出来た。1930年(民国19年)、またしても李宗仁らに反旗を翻した呂煥炎を、黄紹竑は撃破している。
同年の中原大戦で反蔣介石軍が敗北すると、黄紹竑は第15軍軍長兼広西省政府主席の地位を捨てて下野する。以後、蔣介石への徹底抗戦は困難と考え、黄紹竑は新広西派から事実上離脱して南京入りした。1931年(民国20年)、広州非常国会の反蔣運動への対抗上から、一時的に蔣介石から広西軍務善後督弁に任命されたが、現地には向かうことが出来なかった。1932年(民国21年)5月、内政部長代理に任命されている。
1934年(民国23年)12月、黄紹竑は浙江省政府主席に任ぜられ、1936年(民国25年)12月、湖北省政府主席に異動した。1937年(民国26年)に日中戦争が勃発すると、第2戦区副司令長官として山西省の閻錫山を補佐した。
同年11月、呼び戻されて浙江省政府主席に再任され、さらに第3戦区遊撃総司令も兼ねた。杭州が日本軍により陥落させられてからは、省会(省都)を頻繁に移し変えながらも抗戦を継続し、最後まで戦い抜いた。また、この間に、中国共産党との政治的交流も開始している。
1946年(民国35年)3月、共産党との交流などを蔣介石に猜疑された黄紹竑は、浙江省政府主席を罷免された。その後、立法委員、監察院副院長などを歴任する。1948年(民国37年)に李宗仁が副総統選挙に出馬した際には、これを支援して当選に貢献した。
蔣介石が下野に追い込まれ、李宗仁が代理総統となった後の1949年4月、黄紹竑は国民党代表団の1人として和平交渉に赴いた。黄紹竑らは共産党が提示した和平協定を持ち帰ったが、国民党の指導部はそれを拒否する。そのため、黄紹竑は香港に逃れた。同年8月、黄紹竑は44人の著名人士たちとともに香港で国民党からの離脱を宣言する。9月、北平に赴いて中国人民政治協商会議(新政協)に参加した。
中華人民共和国が成立してからは、黄紹竑は政務院(後の国務院)政務委員、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国委員会委員などを歴任した。また、中国国民党革命委員会(民革)中央常務委員にもなっている。しかし、1957年8月、反右派運動の中で、「右派分子」と認定されてしまった(1962年1月、右派認定を取り消された)。文化大革命の時期になると、黄紹竑は四人組から「右派」とみなされ、紅衛兵の迫害を受けた。
1966年8月31日、失意の黄紹竑は北京市の自宅で自殺した。享年72(満70歳)。文化大革命後に四人組が失脚すると、黄紹竑の名誉は回復され、1982年12月、北京で民革による追悼会が開催された。
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